阿部語録 四学会評(賞賛・批判)"5">
☆四〇五号
(昭和五十四年十月十日・全国宗務支院長会議)
「それが、別の本尊とか別の信仰をするようになったならば、それはそのまま創価学会の崩壊です。そのときには宗門の全部が精力的に歩き回って、全員を救うべく折伏をしなければならないと思います。しかし私は、そういうことは無いと確信します。」P一五
☆四〇九号
(昭和五十五年一月二十六日・第四回全国檀徒総会)
「しかし私は『現在、創価学会がその基本・原点において、今までの弊害を相当程度に既に自覚・反省している』との心証を持っております。また事実問題として、反省のための一般向き学習会も行っています。その悪い面を学会自身が深く自覚し、反省し、矯正しきっていくならば、私はこの団体の折伏力・指導力・組織力は、大聖人の仏法の更にこれからの広宣流布のため、現在及び未来においても有意義であると信ずるのであります。」P四五
☆四一一号
(昭和五十五年四月六日・御代替法要)
「これらの一切を鑑み、当時の責任者であった池田名誉会長は、特に今月二日の聖教新聞に『恩師の二十三回忌に思う』と題する所感を投じ、過去の種々の面を総合的に含み、且つ要点を括って根本的な反省を致されております。私はこれをまことに誠意と勇気に充ちた、また深い信心を根本とする仏祖三宝への懺悔と受けとめるものであります。 大聖人の御書の精神に照すとき、一時の誤りはあっても懺悔があればその罪が消えることは明らかであり、まして現に正法を受持信行する人達に根本的な謗法はありえないのであります。正法広布の大実績を持つ唯一の信徒団体である創価学会の逸脱は、それを改めなければ謗法に帰する意味はあっても、既に改めんと決意し、行いつつある以上、現在において謗法をあげつらう事は大きな誤りであります。」P一五
「思うに創価学会のあくまで御本尊を中心根本とする信心や体験、組織等のあり方、そして池田名誉会長の過去における七八〇万世帯までの未曽有の折伏を果された指導性、平和文化に関する世界的な実績等を考えるとき、将来の世界に渉る広宣流布の為、大いに必要な団体であり、人物であると私は信ずるのであります。」P一六
☆四一四号
(昭和五十五年七月四日・全国教師指導会)
「ですから、学会も現在、ゆっくり話をしていけば解ってくる時代に入っているのです。それをいつまでも、『学会は絶対に解らないんだ。学会は根本が違うんだ。今に学会は、爪をむき出して宗門に反抗するんだ。それが分からない法主が甘い』ということを、書いたり、言ったりする人がありましたが、それは違います。そうではありません。
私は、すべてをよく見ながら、考え、そしてここに、確信をもってお話しをしておるのです。創価学会も解ってくる時代に入っているのです。当たり前ではありませんか。あの人達だって正しい御本尊を、あくまでも正しく信心し、この御本尊を一切の人々に弘通していきたいと願っておるのです。他に目的があるわけではないのであります。」P二六
☆四一七号
(昭和五十五年十一月三日・「宗内檀徒の皆さんへ」)
「前者のように正宗の外にある人、または、いったん入信しても退転し、御本尊や大聖人を誹謗するようになった場合を大謗法といいます。これに対して、正しい信心をしているうえにおける僑慢、計我等の謗法は、中あるいは小謗法というべきものであり、僧俗ともに犯しやすいのであります。
この意味から、三大秘法の御本尊を受持信行している以上、大謗法はないといえます。しかも、『大逆なれども懺悔すれば罪消えぬ』との仰せがあるように、たとえどのような謗法を犯したとしても、心からそれを改悔し、戒壇の御本尊を根本に仏道修行に励むならば、罪は次第に消えるのであります。この両意から考えて、学会の場合、過去において大謗法があったとすることも間違いであります。まして現在においても大謗法であるとすることはたいへんな間違いであり、そのような考えは、大聖人、大御本尊に背くものといわなくてはなりません。」P六九
「この点、学会は池田前会長をはじめ最高幹部は率直に誤りを認め、その是正を誓っています。すなわち五十三年十一月七日には
『これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で、深くおわびいたします』(池田会長)」P七二
「今年に入ってからも、池田名誉会長は四月二日、機関紙上において過去のいろいろな面を総合的に含み、要点をくくって根本的な反省をしております。これは深い信心のうえから発した仏祖三宝への懺悔と思われます。」P七三
☆四一八号 (昭和五十五年十一月二十六日・創価学会創立五十周年記念幹部登山の砌)
「次に三代池田会長の時代には更に七五〇万世帯を達成され、未曽有の正法広布がなされたのであります。これ、まことに歴代会長の優れた指導力によるものであり、昭和年間における正法広宣流布の相は、その短い期間において多大の実績を残された点、世界宗教史にも類例を見ない特筆すべきものであって、その宗教的意義はまことに大きいというべきであります。」P五五
☆四一九号
(昭和五十六年一月一日・衆和会勤行会の砌) 「創価学会は、広宣流布の団体として五十年前に創立され、以来五十年間、命懸けの大折伏によって正法を世界のすみずみにまで弘めてくれました。また法華講の方は、それぞれの寺院において御本尊を守り、僧侶を守って、法を七百年間伝えてきてくださったのであります。故に、そのいずれもが、間違っておるというようなことは絶対にあり得ないわけであります。」P四七
☆四九一号
(昭和六一年十一月二十日・御大会) 「近年、創価学会の勇猛精進の大折伏により、この正法正義が世界に広布することは、まことに釈尊の予言、宗祖大聖人の御金言、符節を合するところであります。この正法流布の功徳はまた、算数譬喩も能わざるところであります。」P五五
☆五〇五号
(昭和六十三年一月二十二日・法光山妙永寺落慶入仏法要の砌)
「それは『新興宗教・創価学会の寄進で』ということが書いてありました。時々そういう間違いを世間の謗法の人達は犯しておるようでありますが、私は『創価学会はけっして新興宗教ではありません』と常に申しております。
それはなぜかというならば、仏教の根本を一切の信行の中心として信仰し、修行し、そして護持しておるところの宗団は創価学会をおいてほかにはないからであります。」P七一
☆五二六号 (平成元年十月十九日・法華講支部指導教師指導会の砌)
「そのうち創価学会については昔からの形成の因縁からしましても、その創価学会の組織のなかにおける独自の掌握・指導ということが今日に至るまで行われておるわけでありまして、また宗門においても創価学会のそのような指導体制をそのまま了承し、またそれの正しい方向への発展を常に願っておりまするし、側面からその在り方を補助しておるという姿もあるのであります。根本は大聖人様の三大秘法を中心としての布教でありますけれども、また創価学会の方向性というものはその独自性に任せて今日までやってきておるわけであります。
そのなかで特に最近において私が喜んでおるのは、創価学会の会員の人々がそれぞれの各所属寺院における毎月十三日の御報恩御講に盛大に参詣をされておるということでありまして、創価学会のそういう組織のなかだけのことでなく、寺院における僧侶の指導を受けながら学会の会員の人達も信行に励んでいくという姿が存することであります。」P四七
これよりケンカ別れの後の発言
☆五四二号 (平成三年二月二十六日・時局協議会指導班会議)
「今日の創価学会の姿において、世間でも問題とされておるけれども、それ以上に仏法の本質の上から見て、池田大作氏の指導や、それに追随するところの幹部の指導が、おのずと根本から逸脱し、曲がり、ねじ曲げられて、その立場において自ら尊しとして増上慢の姿を露呈しておるということを、鋭く、また正しく見極めていかなければなりません。 やはり正しい信仰を貫くことが最も大切である。根本的に狂ったところから生じた布教により、たとえどのように数が多くなっても、それはけっして本当の広宣流布でもなく、大聖人の御正意に反するものであると断じて、はばからないのであります。」P四六
☆五四三号
(平成三年三月十八日・法華講支部指導教師指導会の砌)
「私は、皆さんの前でこのようなことを言いたくはないけれども、やはり僧侶は信徒に対し、本当に正しい心をもって接してもらいたいと思うのです。相手の信徒も色々であって、狂っておる人もあります。そのような人は、僧侶がいくら正しい気持ちをもって接し、教導しても、なおかつ悪口を言い、様々なところで色々と、法を破るような姿も出てきます。これはもう、仕方がありません。それでも機会があれば戒めることは、もちろん必要だと思います。しかし、どうしても直らない者は、そのような者をそこに置いておくことが毒になるとすれば、ほかの人の信心の妨げになる場合も多々ありますので、これは指導教師として適切な、やはり慈悲の上から正しい指導的処置をしなければならないと思います。P四〇
☆五四七号 (平成三年七月二十一日・全国教師指導会)
「その一番元の考えというものは、『五十二年路線』と言われる在り方において、教義の上からも、また団体の立場からも、実に宗門をないがしろにし、御法主を無視し、自分達の考えこそ真に尊しとしての独立的な気運があるような指導なり、行き方が公然と行われておったところにあるのであります。 この『五十二年路線』は、日達上人の御苦慮、御苦心の上にそれらの誤りがいったんは正されて、彼等も心からそれに対する反省懺悔をいたしました。そのような経緯があったことを、皆さんもよく御存知でしょうが、私はここで改めておさらいをしたわけであります。
こういう在り方が、また頭を持ち上げて、最近の事態が現れてきておるということを、皆さんはよく肚に入れていただきたい。けっして一朝一夕のものでもなければ、思い付きで出てきたものではないのです。周到な考え方と計画のもとに着々と進められ、時期とともに現れてきた、宗門に対する学会の姿であるということを、よく見定めていく必要があると思うのであります。」P三三
(平成三年七月二十一日・全国教師指導会)
「今日の創価学会においては、文化活動とか平和運動とか言いつつも、破邪顕正の本義に遠ざかり、個人の名聞名利が広布の目的であるかのように、大聖人様の仏法の基本というものを全く忘れたような形になってしまっている。あるいは、はっきりしない形になっておりながら、口だけ、『広宣流布だ、広宣流布だ』とか、『折伏をしたことがないから我々の苦労が解らないのだ』などということを言って、宗門や僧侶、また私の悪口を言っておるのが池田大作氏であります。
しかし、仏法の本質はそんなものではないのです。そこのところを皆さんは、よく考えていただきたいと思います。」P四五
☆五四八号
(平成三年八月二十九日・第四十回全国教師講習会開講式の砌)
「今日の創価学会の在り方が、もう頭が悩乱したとしか言いようのない姿を呈しておるようであります。 これも、その根本のところに、『自分達が最も正しいのである』という、仏法上、抱くべからざる『慢心』を一番の元としておるために、それを指摘されることによって、どこまでもどこまでもその修羅の闘争心が激しくなって、あらゆる狂乱の姿を呈してきておると思うのであります。」P七九
☆五四八号 (平成三年八月三十日・第四十回全国教師講習会閉講式の砌)
「今日に至るまで色々な経過がございましたけれども、なんといっても創価学会において大聖人様の仏法から色々な面で逸脱が始まったということが基本だと思います。それはもちろん慢心によることでもあり、最近においては特にそう言えますが、五十二年路線のことまで振り返れば、『自分達が広宣流布をした』というところから、さらに一転して、『自分達が広布の中心でもある』というような錯覚がおのずとそこに生じてきたところに、五十二年路線もあれば、今回の色々な問題の起点もあると思います。それは皆さん方も御承知のとおりです。」P九〇
☆五五〇号
(平成三年十一月二十日・宗祖日蓮大聖人御大会の砌))
「今や、創価学会は、その本来の正法広布の目的と使命を忘れ、大聖人の五段の相対の元意と甚深の法脈に背き、特に、内外雑乱して世間に媚び、利養に貪著し、悪心を懐き、常に世俗の名誉権勢を思い、多くの民衆を誑惑して我見の仏法を申し狂い、正法を持つ僧俗を誹謗し讒言しております。かかる池田創価学会は、もはや、昔日の如き正しく正法を弘通する団体ではなく、自らその使命を放棄した、三宝破壊の集団と化しております。故に、本月の七日をもって、宗門においては、創価学会に対し、断固、その解散を勧告いたしました。
よって、我々宗門の僧俗は、この時こそ一致団結して、あくまで創価学会の邪義にたぶらかされている人々を救い、さらにまた、有縁の衆生を大法の甘露へ導き、真の広布の基盤を確立しつつ、正法の広布に邁進すべきであります。」P三四 (平成三年十一月七日・創価学会解散勧告書)
「以上、創価学会は、現在、日蓮正宗の仏法の本義と、宗教法人設立時の三原則と、昭和52年路線への反省・誓約に、ことごとく違背しているのであります。 あまつさえ、昨年十一月十六日の第三十五回本部幹部会における、池田氏の、
『五十周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から。馬鹿にされ、そいでその上北条さんが「もう、お先まっ暗ですね。」「何を言うか、六十周年を見ろ。もう絢爛たる最高の実が、六十周年が来るから元気だせ。」会長だから、これがよ。私は名誉会長だ。「そうでしょうか。」馬鹿か。』
との発言は、『恩師の二十三回忌に思う』等で見せた昭和五十二年路線への真摯な反省と、再び宗教法人設立時の三原則を遵守するとの堅い誓いが、まさに宗門を欺く偽りの言辞であったことを露呈しているのであります。」P九四
☆五五一号
(平成三年十二月二日・非教師指導会の砌)
「創価学会が非常な慢心を生じ、結局のところ、宗門の上に立って、宗門の一切を差配するような考え方が根底にあったのです。その考え方の上から色々と画策をしてきておったことが過去にも明らかであり、今日、昨年以来の色々な在り方においても、それが私の心の鏡にはっきりと映じておったのであります。
そのようなところから、これはどうしてもきちんとしなければならないということを根本的な意味において感じておりましたが、やはり過去からの色々な因縁もあったことですから、その都度、きちんとした対応をしてまいりました。そして、その間において創価学会が、本当に真心をもって自分達の様々な誤りを反省し、素直な気持ちで教導を受ける姿勢を表してくるならば、当然それを受けて、正しい筋道のもとに立派な僧俗関係をさらに続行していこうということは思っていたわけであります。
しかし、そのような考えはとんでもないことであって、宗門が彼等の誤りに対し、その時その時に応じての対応をきちんとするたびに、『創価学会は百パーセント正しく、宗門は百パーセント間違っている』と断定するような、いわゆる百パーセント慢心の気持ちからあらゆる反抗的対応が我々に対してなされてきたのであります。この推移の上からも、今日ここに振り返って見たときに、法を護るためにやってきたことがすべて正しかったということを、私は確信しているのであります。」P八三
☆五五二号 (平成四年一月三日・法華講連合会初登山お目通りの砌)
「しかるに、まだ謗法の輩が充満しておるにもかかわらず、大聖人様が『一期弘法抄』や『三大秘法抄』に一期御化導の究極としてお示しになった本門戒壇の御指南は、既に創価学会において達成をして、それからあとはむしろ大聖人様の御指南を抽象化し、具体性を忘れての、池田創価学会による『広布第二章』とでもいうようなところに重点を置く考え方には、私ども正法正義を護っていく者として、その基本が違っておるということを感ぜざるをえないのであります。
この問題に関して、日達上人の統せられた昭和四十年代から五十年代の初めにおいて様々なことが起こりました。それらの内容に対していらだちを感じた池田大作なる人物が、まことに不逞な考えをもって、教義の逸脱、あるいは宗門支配等の姿を色々な角度から、陰に陽に表してきたのが五十二年路線であったと思います。
そこのところから様々な問題を起こしましたが、当時はまだ、その誑惑の始めであったために色々な証拠を残し、宗門からその誤りや悪計を指摘されることによって改めざるをえなくなり、恭順の姿を一往示したのであります。」P六八
☆五五三号
(平成四年一月二十八日・法華講支部指導教師指導会の砌)
「最後に、皆さん方に改めて確認しておきたいのですが、このたびの問題に関しては、宗門は一切が正しく、創価学会はすべてが根本的に誤りであるということを、肚のなかからしっかりと確信を持っていただきたいのであります。
これについては、当然、ほとんどの方がそのような認識であると思います。しかし今日、過去に創価学会の世帯数が何千世帯もあったような寺院において、直属信徒がいまだに一世帯とか、二世帯しかないというような状況であるならば、そういう住職は僧侶としての風上に置けないような学会べったりの、この期に及んでもまだ創価学会に未練があるような者だとおもうのであります。
今、池田創価学会は、嘘と誹謗の『池田創価悪会』であります。徹底した嘘を尽き、徹底した誹謗をしております。この誹謗もすべてが嘘で固めたものです。また、池田大作氏は法門が判らず、仏法に対する根本的な邪見があります。戒壇論についても、御本尊の拝し方についても、そのような根本的なところからの邪見があるのです。さらに慢心により、自分自身があくまで仏法の中心であるという、まことに大それた大邪見が存するのであります。」P五〇
☆五五五号
(平成四年三月三十一日・平成四年度非教師指導会)
「あの狂った者どもに対して、私は別に歯牙にかけるつもりもないが、先程も若手学衆のなかにこれを不可として、はっきりと指弾しなければならないと考え、反駁したいと申し出ている者がおると聞いたが、これも結構な考え方だと思うのであります。
池田大作なる者は、いつでも非常にずるく立ち回っております。ですから、本心は宗門から離脱して池田創価学会を作るところにあるのだろうが、それを今、はっきりと言ってしまうと、会員のなかに非常に動揺が起こる。そのために、とにかく宗門を攻撃し、『日顕宗』だとか、その他、ありうべからざる様々な悪口を敢えて言いながら、なんとか会員の疑いの心をつなぎとめようとしておるのであります。」P七六
「今日の創価学会の狂った姿、昭和五十二年路線の時もそうであったけれども、それからあと今日に至るなかでの、我慢・高慢から大聖人の教えを我見をもって解釈するというような、本性を表した池田大作なる者の指導による創価学会の姿を大聖人様の正しい法義に照らしたときに、これが本当に誤りである故に、このなかにとどまっておる人は必ず地獄に堕ちるのである。」P七七
☆五五六号
(平成四年四月二十一日・全国宗務支院長会議)
「現在、創価学会の人達は、そのような表面的な経過だけを見て、これだけ正法を弘めた団体の指導者であり、また、大客殿や正本堂その他、実に様々なものがその名前によって供養されているのであるから、そこに大きな仏法上の功績、功徳があるのは当然であるというように言っております。さらに、宗門は矮小な考えから、その大功徳者である池田大作氏に対し、微塵の報恩の念も持つことができず、創価学会の大きな広宣流布の大業に対しても、真の意義をもってみていないのであるというようなことを盛んに言って、あまつさえ捏造やすり替え等の嘘によって、大変な悪口、誹謗、中傷等を繰り返しておることは、皆さん御承知のとおりです。 それに対し、宗門としては、池田大作氏にはその表向きの功績の反面、慢心、我慢があって、色々と仏法に対する誤りが存するのであるということを指摘し、糺しております。これも、今までの経過をきちんと立てれば当然なことであります。」P六二
「それに対して池田大作なる者は、やはり会長就任の時から既に我見、我心を持っておったと思うのであります。たしかに戸田城聖氏が作った組織を利用し、その上に乗って、八百万世帯までの指導者として君臨しており、今日でもそのような流れになっております。」P六四
☆五五八号
(平成四年六月二十八日・東北第二布教区御親教の砌)
「しかしながら、創価学会は、悪口、誹謗、中傷を平気で行う団体であり、皆様方もおそらく色々な面から、今回の問題の正しい処置について創価学会の狂った人達から悪口、誹謗を浴びせられておることと思います。」P七〇
(平成四年六月二十八日・東北第二布教区御親教の砌)
「しかし、これも難信難解でありますから、社会的に法を横に弘めると、縦の意味の、七百年来の仏法の筋道をつい忘れてしまいます。つまり、法が横に広く弘まったというところに我心・慢心を起こしまして、まるで自分達がその本門の法体をすべて把んでいるかのように考えているのが、実は池田創価学会であります。
この人々の在り方の元には何があるかといえば、やはり難信難解なる故に、法を誤って我見で解釈しているということなのです。本門三大秘法の仏法の本義が難信難解であるが故に、あの身延派等が本門の本尊に狂った如く、本門の本尊、戒壇、そして下種三宝の本義に狂って、あの池田創価学会に今日のような形が表れておるのであります。」P七三
☆五六〇号 (平成四年八月十八日・行学講習会開講式の砌)
「創価学会の者達が、ほんの少し仏教をかじって、それでもう、なんでも把んだような考えをもって今日まで来た姿がある。あるいは天台の膨大な三大部の法門をわずかだけ読んで、まるっきり解ってしまったようなことを言ったり書いたりしておる。まことこれは、仏法というものの深さ、広さを知らず、自分流に解釈をして、その肝要なところは結局、逃しておるということがいえるのであります。
その肝要なところを逃しておることが、今日の創価学会の誤った考え方、特に、その張本人である池田大作という狂った人間の教学の誤りにも存するのであります。」P四九
☆五六〇号 (平成四年八月二十八日・全国教師指導会)
「その上からも、過去を振り返ってみまするときに、創価学会の謗法は、実に間口も広ければ、奥行きも深いということを、私は本日、皆さんに申し上げたいのであります。
それであるが故に、一朝一夕に、簡単に一切の問題を解決するわけにはまいりませんでした。また、過去からの色々な関係、つまり、僧侶と信徒、あるいは宗門の外郭団体として認めてきた創価学会と宗門との関係においても、そう簡単に、短絡的に処置ができるものではございません。かといって、その謗法の在り方に対しては厳として対処をし、それに対する正しい方策を講じなければならない次第であります。 そういう点からも、その時その時に応じて、一つひとつ対処をしてまいりました。それは、ある見方からするならば、足が遅いような、のんびりし過ぎておるような見方すらあったかも知れませんけれども、これらをその時に応じて、御仏意の命ずるがままに、また、深い時の在り方に順応して処置をしてきたということを感ずるのであります。」P六一
☆五六一号
(平成四年八月二十八日・全国教師講習会)
「あの四代会長の北条浩は、三座の観念において、日目上人までの観念しかしていなかったというようなことを聞いたことがあります。つまり、日道上人以下の御歴代に対しては御報恩を申し上げる必要はないとして、わざわざ省いておったというのです。このような狂った邪見の信心の在り方を、昔から創価学会では行っていたということでありますが、表向きの態度に私もずっとだまされておりました。 私は、大聖人様の教えを信じている者は、その教えの上からも、常に正直たらんとしていると信じておりました。しかし、やはり彼等には根本的に信心がなかったということであると思います。
このなかにも、昔、創価学会首脳の策謀を見抜いて立ち上がった方々がおりますが、私はその方々に対し、ここで改めて敬意を表するものであります。
しかし、私がこのように申しますと、『だからあの時にこうしていれば・・・』と思われる人もいるかも知れませんが、やはり、『時』ということを考えていただきたいと思います。色々な時、種々の事情、因縁の姿があるのであります。
終戦後、私は寺院において法華講を作って広布への御奉公を志しました。しかし、当時はまさに創価学会の興隆期で、色々な意味でぶつかったのです。ぶつかりぶつかり、ぶつかった上で、『これからの宗門においては創価学会を外して考えるべきではない』と言われ、そこで私は、寺院における僧俗和合という、自分の広布推進の考えは一時、見合わせ、創価学会が広宣流布の団体なんだ、僧侶として学会の発展のためにできる限りの援助をしなければならないというところに到達したのであります。」P五八
(平成四年八月二十八日・全国教師講習会)
「昭和四十年には、いわゆる『妙光寺事件』がありました。このなかにもあの時にその場にいた人が何人かおりますが、私も正本堂建設委員会の委員の一人としてその場におりました。とにかく、その理由は猊下より席が下であったとか、出されたメロンが小さかったとか色々とあったようでありますが、池田大作が当時、総監をしておられた大東院さんに対して、実にひどく怒鳴りつけたのです。二時間近く怒鳴っていたと思いますが、本当に修羅というか何というか、何を怒鳴っているのかよく解らないのだけれども、ありとあらゆる宗門に対する怒りを爆発させて、次から次へと文句が出てくるのです。 やはり、当時は、広布の進展の相を深く鑑み、宗門全体が創価学会の横暴に対して忍辱の衣を着て、教導せんとしていた姿があるのであります。」P六二
(平成四年九月二十六日・妙観院落慶入仏法要の砌) 「これまで宗門は、創価学会の謗法が広く、かつ奥深いために、直ちにその一切をしょりするということはできませんので、その時に応じて正しい対処をしてきたのであります。そのような経過のもとに破門ともなり、また、今年に入ってからは去る八月に池田大作なる者を、創価学会の代表であり、諸悪の根源として断固、これを除名処分に付した次第であります。」P七〇
☆五六三号 (平成四年十一月二十九日・大阪布教区御親教) 「前回の昭和五十二年路線においては自分の考えを表面に現したために失敗をしたので、今度は、創価学会中心、あるいは池田本仏的指向等、実質的には同じであるが、表には現さないように、うまくやっていこうと考えたようであります。そのように、水面下に潜った悪い考えによる洗脳がずっと行われてきたようでありますが、うかつにも私は、そのような謗法の流れがあるということをほとんど知らなかったのであります。」P七三
(平成四年十一月二十九日・大阪布教区御親教)
「その挙げ句が、正本堂のところからさらに敷衍した『広布第二章』という、池田大作の考えに基づいて、大聖人の仏法を我見をもって解釈し、外道義と共なる展開となってきておるのであります。
今日、平和運動とか文化運動とかいうようなことを言っておりますけれども、その根本に大聖人の仏法の魂が入っていなければ何もならないのであります。しかるに、池田大作の見解によるところの、その曲がった心が元になっておるが故に、彼等の在り方において、大聖人様の正法によるところの正しい世界平和の達成はありえないということを、私は信ずるものであります。」P七八
☆五六七号
(平成五年四月六日・虫払大法会) 「しかるに、池田大作なる顛誑の大謗法者は、
『戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます』
として、精神と形式を分け、御本仏の精神、いわゆる御仏智を蔑ろにし、民衆の幸福という空漠たる迷いの機根中心の観念を正として、これに大聖人のお心による戒壇建立を従属化したのであります。これまさに、仏法破壊の天魔の所行であり、大悪言であります。
このような誤りによって正本堂を意義づけようとしたところに、池田の指導する創価学会の基本的な狂いがありました。それが、今日の『広布第二章』という大作の指導に見られる、本末顛倒の、内外一致とも言える誑かしの姿となっております。」P四五
☆五六九号 (平成五年五月二十三日・中部布教区御親教の砌)
「以前、池田大作なる者が、私の説法はドイツ語みたいで難しいから解らないというようなことを言っていたようですが、仏法の本体は『唯仏与仏 乃能究尽』の法であり、その法を伝えていく上において、仏法の話が難しくないほうがおかしいのです。これを易しく説けば、それで偉いんだというように考えること自体が、既に横に広げておるばかりであり、内容のないものになっておるのであります。
彼の話が、みんなそういうふうにも言えると思いますし、今日、世界中の後進国へ足を運んでは、勲章をたくさんもらって喜んで帰ってきているようですが、これは法華経を真剣に日本ないし世界に弘めていくところの指導者のやることでは、絶対にないのであります。
創価学会が今日、大きく狂ってしまった一番の元は、大聖人様の正法正義の深い所以を本当に信じ、そのことを根本として横に広げていくべきであるにもかかわらず、根本を忘れて広げることのみを考え、衆生というものを中心に考えたところに存するのであります。」P五八
☆五七二号
(平成五年八月二十六日・全国教師指導会の砌) 「たしかに創価学会は、正法の弘通において色々と貢献する形がありましたし、基本的な意味で一番根本のところに従い奉る意味があれば、これは許せるのです。したがって、その後においてたとえ色々な意見の相違があっても、話し合いの上でそれが整合できると思います。
ところが、根源のところで信心が狂い、自分中心ということになってしまったならば、これはもう全部が濁ってきます。そこにおいて、法脈をどこまでも正しく持ち、真の正法護持と広布を進めるためには、どうしても自浄作用の形が出てくるのであります。
今までに何度もお話しいたしましたように、今度の学会問題もけっしてこちらから仕掛けたのではない。みんな向こうから仕掛けてきたのです。その仕掛けられた形のなかにおいて、筋道、立て分けをよく考えながら、きちんと処理をしてきたということなのです。しかもそれは、時が来て、総本山開創七百年という不思議な時に巡り値い、さらに、その他の因縁も相まって、そこに自浄作用がおのずと現れてきた姿なのです。したがって、それは何も学会との対立でもなければ、喧嘩をしているのでもありません。」P七一
☆五七三号
(平成五年九月二十六日・茨城布教区御親教)
「数年前の昭和五十二年のころ、正本堂建立の意義等に胚胎する様々な原因により、池田大作は仏法上の非常に大きな慢心を抱きました。それを一口に『昭和五十二年路線』といいますが、そこには大変な仏法背反の姿が現れたのであります。しかし、それも本人の一往反省するところとなり、日達上人もその反省を深くお容れあそばされて、創価学会の宗門における信徒団体としての活動を認められた次第であります。
しかしながら、創価学会の飽くなき誤りの野望は、その根底においてはいささかも反省されておりませんでした。したがって、私はその後、十数年の間、なんとか正しく教導していきたいと願っておりましたが、今日に至り、その本性をむき出してきたのであります。 ここにおいでになる皆様方の仏性が仏法の道理を正しく拝見しておられたからであると思います。」
P七一
☆五七四号 (平成四年六月二十一日・東北第一布教区御親教の砌) 「近年、創価学会により大きく流布されたように見える姿がありました。しかし、やはり我見によって尊い三大秘法を蔑ろにし、私して把んだ形から、正本堂建立の意義をはじめとする誤った考えを抱くようになったのであります。しかし、先師日達上人によりその野望をくじかれたことによる池田大作の怨念が、あの昭和五十二年路線の結末であります。そして、その日達上人と宗門に対する憎悪を表面上は隠していたのですが、不思議にも日興上人が正邪峻別をあそばされた総本山開創からちょうど七百年の平成二年に明らかとなり、今日、様々な謗法の姿を露呈しております。」P五五
☆五七七号 (平成四年六月二十八日・東北第二布教区御親教の砌)
「今の創価学会に当てはめれば職業幹部であります。『諂曲』というのは、曲がったことであってもへつらうことでありますが、あの者達がみんなそうなのです。池田大作の指導はおかしいと思っていても、少しでもその誤りを指摘すれば、あるいはそういった言葉をだれかに聞かれようものなら、すぐに役職を外されて給料をもらうことができなくなってしまいますので、たとえ嘘や間違いでもそれに従い、また嘘を言えと言われれば、へつらってそのようにするのであります。つまり、生活の心配や保身が先に立って正しいことを言い出せず、むしろ正しい宗門に害をなして罪障を積んでいるのです。実にかわいそうな者達であります。」P四二
☆五七七号
(平成六年一月十日・末寺在勤教師初登山) 「もう既にその以前、昭和五十四年の時に、日達上人からお許しを頂きながらも、肚の底では池田大作は、『今まではあまりにも正直に言い過ぎた。今度は絶対に揚げ足を取られないようにする』と決意し、水面下では自分達の野望をどこまでも広げながら、結局は宗門を自分達の手によって操っていくのだというようなことを言っていたのであります。 しかしながら、私は、一つには日達上人が最後にお許しになって彼等の将来を戒められたこともあり、なんとかこの者達を善導したいと思ってきたのです。しかし、一番根本にある彼等の邪悪な心は改めさせることができませんでした。」P五六
☆五七九号 (平成六年三月二十七日・法華講連合会第三回青年部大会の砌)
「創価学会について見るならば、あの団体はもう既に役目が終わっております。終ったなら終ったで、その状況を自らはっきりと見つめ、その在り方について新しい段階に対処しなければならなかったわけであります。そうであるにもかかわらず、池田大作という大きな野望の持ち主が、仏法の目的から逸脱しつつ仏法を利用・悪用し、組織を利用して、その組織のなかにあらゆる人間を閉じ込めてしまっておるというのが、今日の実相であります。」P六二
(平成六年三月三十一日・平成六年度非教師指導会の砌)
「だから、今、宗門七百年の間、この正法が正しく護られ、伝わってきた、その根本の在り方を、創価学会の者どもは全く忘れておるのである。池田大作がしかり、そのほかの連中も同様である。しかも最近、この辺におる者らしいが、組織の上の者が私の悪口を言うから、日顕という坊主は本当に悪い坊主だと思って、法被の背中に、そのようなものを書いて、自転車で回っている者がいるそうである。」P八〇
(平成六年四月六日・虫払い大法会に参詣の海外信徒お目通り) 「私は今年で七十一歳になりますが、本当に心から言えることは、凡夫でありましたから、また現在も凡夫ですから、色々な意味で過去において間違いがありました。
私は、創価学会が宗教法人を取得するという時に、弱冠二十何歳でしたけれども、『これは違います』と、時の宗務院の人に言ったのであります。しかし、それは聞かれませんでした。
その後、戸田城聖氏と会って二時間、酒を酌み交わしながら話をしたことがありました。その時に戸田城聖氏より、これから命がけで広宣流布をするということを聞いて、それまでは嫌っていた創価学会を、自分の心を打ち破りながら無理に好きになろうとし、そして本当に好きになっていったのであります。すなわち、『戸田城聖氏のもとにおける創価学会は、本当の広宣流布の団体である』というように思っていきました。
そのうちに第三代会長・池田大作の時代になりましたが、私はその気持ちでずっと来ましたので、実を言うと池田大作の根本的な悪い心を見抜けなかったのです。
顧みれば、私が教学部長時代、十八,九年前のことですが、京都の平安寺の住職をしておりました時に自称正信会へ行ってしまった元僧侶が来まして、『池田大作は間違っている。池田大作の気持ちのなかには、池田本仏という考えがある。すなわち、大聖人の教えを蔑ろにして、自分が中心だという考えを持っている』ということを言ってきました。けれども、私は、『それは違う。これだけ一生懸命にやっているのだから、そんなことはない』と言って追い返したことがありました。しかし、その者の言うことは結局、本当だったのです。 このことについて考えるとき、既に池田大作は根本的に間違っていたのですが、そのことを見抜けなかったということにおいて、私は今、一往、反省しております。」P八六
☆五八一号
(平成四年十一月二十八日・北近畿布教区御親教の砌) 「今日においても衆生が種々に迷う姿があります。なかでも創価学会などは、形は法華経の教えを信じているようであっても、下種三宝という一番基本の意義を無視してしまっているために、地獄・餓鬼・畜生・修羅の根性をむき出しにしておりますが、せっかく知りえた妙法においては、どのような境界にも仏界が具わるということを本当に理解してお題目を唱えれば、あのような状態にはならないのです。おそらく、一往は勉強もしているでしょうし、知識では知っているはずです。けれども、『宗門憎し、日顕憎し』で忘れてしまっているし、また、本当の意味では信じていないのです。
しかし、それでは大聖人様の教えを受持しているとは言えません。」P三五
☆五八一号
(平成六年五月二十六日・全国教師・寺族指導会の砌) 「今日、日本ないし世界最大の邪宗教は何かといえば、まさしく創価学会であります。これをはっきり肚に入れてください。そうであるならば、生ぬるい風呂の湯に入ったようなグズグズした考え方は一挙に捨てて、創価学会を慈悲の上から徹底して破折しなければいけないのだという気持ちを、はっきり持っていくことこそ大切だと思うのであります。」P三九
☆五八三号
(平成六年八月九日・行学講習会閉講式の砌)
「そして、そのような在家中心の広布の態勢というものが、いつとなく慢心を生じ、そこから今日、池田大作というような大慢心の輩が、大聖人様の仏法を根本的なところから私して誤って把え、その我意・我見の上から多くの人々を間違った方向へ指導しておるという姿があるのであります。
したがって、今日、既に創価学会は正しい広宣流布の団体ではないということを、大聖人様がはっきりと決定あそばされたのであるということを、私は先般の総会で申したのであります。」P五七
☆五八六号
(平成六年十一月二十日・宗祖日蓮大聖人御大会の砌)
「その最も増上慢の甚だしいのが、池田大作如き者をして、本門弘通の大導師と敬う如きことを門下に発言せしめた過去の事例であります。取りも直さず、日興上人の僧宝の随一たる基本を乱して、池田がこれに替わらんとするものであり、誑惑、これより甚だしきはありません。我等日蓮正宗の僧俗は、あくまで正しい三宝観に立って、信行に邁進すべきであります。」P四二
☆五八六号 (平成六年十月二十九日・西中国布教区御親教の砌)
「ところが、往々にして我見をもって南無妙法蓮華経の教えを解釈する増上慢の人間が出てまいります。仏法の内容もろくに知らない素人が、いわゆる池田大作のような人間が慢心の上からそのようなことを考え、我見を構えて、仏法の法理を正しく立て分けて話をせんとする正法の僧侶に対して悪口を言うのであります。
それが特に平成二年という時において、これは非常に不思議な時でありましたが、仏法のなかにおいて創価学会による大きな謗法の姿が具体的に表れて、七百年の仏法を埋没せんとするような考え方が存したのであります。」P四九
☆五八六号 (平成六年十一月十日・愛媛布教区御親教の砌)
「あの創価学会の池田病にかかった者達が、池田大作の狂った指導によって、本末転倒の考え方を持つに至っております。その例証は枚挙にいとまがありませんが、学会員の口から出る『創価学会のために宗門も公明党もある』というような考え方、もっと極端に言えば『世の中のすべてが創価学会のためにある』と考えるところに、全く本末転倒の考え方があるではありませんか。」P六二
☆五九〇
(平成七年三月五日・香川布教区御親教の砌) 「創価学会においては、池田大作の我見によって大聖人様の教えを自分に都合のよいように作り替え、様々な誤った指導がかなり前から行われておるのであります。本門三大秘法の一々について狂った考えを持っておりますが、特に戒壇の大義について大作は、
『戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。』
という暴言を吐いて、大聖人の末法万年を救う戒壇建立の真義を蔑し、自分勝手な考えをもって仏法を得々として述べておるのであります。そのようなことが一番根本となって、先般来の宗門の法義に基づく正しい指摘となった次第であります。」P五五
☆五九一号
(平成七年四月六日・霊宝虫払大法会の砌) 「外道が仏教に対し、また、小乗が大乗に対し、権教が実教に、迹門が本門に対して、それぞれ背き、錯乱し、混乱して、ために衆生の貪瞋痴の三毒、激増するなかに、特に一層、はなはだしきものこそ、下種の大法として大恩ある日蓮正宗を罵詈・誹謗し、池田の迷乱をもって『民衆仏法』なぞと狂乱する、劣謂勝見の外道教たる創価学会の大謗法の存在であります。一切社会の不幸の根源たる貪瞋痴三毒の心の病は、まさに創価学会の悪業によっていよいよ激増することを、断固、指摘するものであります。
このような大謗法・大邪義の興盛による衆生の心の病によって、三災七難、並びに起こることが大聖人様の各御書の御指南であり、その現証の一端は、先般の兵庫南部の大震災に明らかであります。すなわち、創価学会の謗法の現罰は、池田が昨年の秋にあれほど賞賛せる兵庫において、まさに本年の年頭に現れたのであります。
『道理文証よりも現証にはすぎず』
との御金言は、まことに明らかに拝せられます。」P三一
☆五九三号
(平成七年五月十一日・法光寺本堂・庫裡移転新築落慶法要の砌) 「今日、すさまじい末法濁乱の姿をそのまま顕す、オウム真理教などというような宗教も起こってくると思われます。
しかし、それよりもすさまじいのが、大聖人様の正しい法に背き、その正法を虐げておるところの創価学会であります。これが今日、オウム真理教などよりももっと根元が深い大謗法の存在であるということを、私ども日蓮正宗の僧俗はしっかりと肚に入れ、この創価学会のなかから一人でも多くの人を救ってあげたいという気持ちをもって、いよいよ破邪顕正の再折伏を行うことこそ大切であります。」P五四
「ところが、第三代の池田大作という人間は、自分中心の立場から日蓮大聖人の仏法をことごとく利用し、その上に本末顛倒の大邪見と摧尊入卑の卑見をもって日蓮正宗を徹底的に打ち破ろうとしておる大莫迦者でありまして、これほどの大謗法はないのであります。」P五四
☆五九三号
(平成七年五月二十五日・全国教師・寺族指導会の砌)
「はっきり言えば、寺院にある程度の下附願い用紙が積まれていても、二年後、三年後に調べてみたら、それだけの下附願い用紙の願主がほとんど、どこへ行ったか判らないというような形もあったのです。それは要するに、御本尊を受けさせはしたけれども、そのあとの面倒を見なかったことによると言えましょうが、そういう大変な不敬の状況が創価学会の折伏の形のなかでもあったことは、皆さん方も聞かれておることと思います。」P六四
☆五九四号
(平成七年六月二十八日・富士学林研究科開講式の砌)
「そこに、牧口常三郎氏の薫陶を受けた戸田城聖という人が現れて、『今こそ命懸けで正法広布をする時であり、今、広宣流布をやらなくては将来はとてもできない』というようなことも言って、まず数をもって広宣流布の実証を示さんとして七十五万世帯というところまで行きました。これはまことに未曽有でありました。
池田大作は、その戸田氏の作り上げた様々な内容の上に乗って走ったに過ぎず、ほとんどが戸田氏の功績なのです。御信徒のなかには、このようなことを知らない人が多いようですが、事実、そのとおりなのです。」P五九
☆五九七号
(平成七年九月二十八日・北海道第二・第三布教区御親教の砌)
「その一番根本を、自分は久遠の昔に悟った等、色々なことを言い出して、根本の本義を置き換えようとしたのが、五十二年路線当時の池田大作であります。そして再び、増上慢以上の仏法破壊の姿をもって、その本性を現してまいりました。すなわち、この仏法の大事な筋目を紊乱しているのが池田創価学会であります。」P四八
☆六〇三号
(平成八年三月三十日・講頭・副講頭指導会の砌)
「創価学会は、ただいまの下種のことについても、『創価学会によってこそ、折伏ができたのだ、広宣流布が進んだのだ』と放言しています。たしかに終戦後の形、あるいは昭和七、八年から十年以降の形のなかでは、創価学会の牧口初代会長、戸田二代会長の指導により大きく広布が前進したことは事実であります。しかし、その根本は、下種の本法が七百年、この富士の麓に厳然として相伝されてきたからであります。」P六五
「その創価学会は、なかんずく、その首魁である池田大作は、仏法の基本を全く知らないにもかかわらず、仏教用語についても好き勝手に解釈する癖を持っておりました、例えば発心下種と聞法下種ということについても、まことにわがまま勝手な解釈をしております。」P六六
☆六〇四号
(平成八年五月十九日・妙法寺移転落慶入仏法要の砌) 「かの池田大作とSGI(創価学会インタナショナル) は、一番元に己れを高ぶり、中心とする我欲・慢心があり、それが増長したため、相対的に仏法僧の三宝を軽視し、見下し、平然として地獄に堕ちる因を掘り続けております。
その結果、種々の積悪の報いが罰として出始めているのも、厳然たる悪因、悪果の現証であります。すなわち、池田創価学会のもろもろの悪因は、さらに、必ずはっきりした悪報となって現れることを確信いたします。」P七七
☆六〇五号
(平成五年五月二十三日・中部布教区御親教の砌)
「それから『心諂曲に』というのは、へつらい、おもねることです。これは、皆さん方にもそういう諂曲の命があります。つまり、強い者とか利害関係を握っている者に対してはペコペコして、たとえそれが間違っていると思っていても、『はい、さようでございます』と答えるような、そういう卑屈で卑怯な考えがある。そのかわり今度は、弱い者と見たならば、もう徹底していじめる。つまり、弱きに対しては強く、強い者に対しては諂うわけであります。 これもまた、創価学会の職業幹部に当てはまります。」P三二
「そういう人間が、正しい法を持つ者に対してあるゆる策謀を凝らして迫害し、それでいて、池田大作みたいな人間に対しては服従するのです。池田大作というのは魔の棟梁ですから、大作のためを思って一生懸命にやるような人間は、悪の同気、相通じて、ちゃんと判るのです。反面、そうでない者は徹底していじめて、ついには首を切ってしまうらしいのです。
池田大作は大作で、自分に忠実な者だけをかわいがるわけであり、職業幹部は幹部で、かわいがってもらいたいために大作に諂いますから、大作も幹部も共に、『心諂曲』の人間に当たる次第であります。」P三三
「それから、次に『世俗の事を念ひ』とありますが、これがまた、だれかさんとそっくりではありませんか。例えば、有り余る財力から、ほんのわずか出して本を寄付し、その国々から勲章をもらって誇っているのも、俗の最たるものに当たりましょう。そのほか、一々挙げなくとも、いっぱいあります。なにしろ『名誉会長』というぐらいですから、名誉が中心になっているのでしょうが、名誉それ自体が俗っぽいことなのです。」P三九
「今、世間の人は、池田大作の本当の悪いところを知らないわけです。つまり、創価学会であらゆる機関と財力を使って池田を大宣伝しており、それに乗せられた人々は、その仏法的、社会的、様々な上からの諸悪の根源が、池田大作一人にあるのだということを知らないのです。したがって、池田大作は人格的にも優れた人だというように思っている政治家などもいるようです。」P四九
☆六〇七号
(平成五年五月二十三日・中部布教区御親教の砌) 「池田大作が平成二年のころから言っていたことがそうなのです。お山や私はなにも、利養に貪著するようなことはありません。ところが、お山をはじめ、坊主は御供養ばかりを請求し、そのようなことばかりを考えていると側近の幹部どもに言っていたようです。しかし、そのような事実は何もありません。
しかるに、自分達はどうですか。特別財務や広布基金の集め方を見て、あれがなぜ、利養に貪著する姿ではないと言えるでしょうか。結局、先の泥棒と同様、利養に貪著しておる者ほど、他に向ってそのように言うものなのです。」P二三
☆六〇九号 (平成五年五月三十日・静岡南布教区御親教の砌)
「実は私が今、一番ずるいと思っているのは池田大作であります。あれほどずるい人間はありません。汚く、ずるい人間です。もっとも、池田大作のことを僣聖増上慢だと言うと、僣聖増上慢のほうが怒るかも知れません。けれども、僣聖増上慢の持っておる汚さ、ずるさは、まさに池田大作の行為・行動とそっくりであります。つまり、洗脳された多くの創価学会員どもは池田を救世主乃至、仏様と崇めており、その裏に隠れた邪悪、低俗、そして虚偽性の多い真相を全く知りません。悪組織の力によって二重にも三重にも、その悪を弊い隠しているからです。そのため、池田の言うなりになって、一切の不道徳を行っても悪いと思わないのです。もって社会を汚しているのであります。」P二三
☆六一一号 (平成八年十一月二十日・御大会に参詣の海外信徒お目通りの砌) 「しかしながら、あの創価学会のように、ただ数さえ増やせばいいというような、実にめちゃくちゃな在り方は、今日においてはむしろ大謗法になると思います。
これからの広宣流布の在り方は、けっしてあせらず、また、数だけを増やし、その力によって、わがまま非道なことや自分の我欲・我見を通していくという創価学会のような考え方は絶対にあってはならないと思うのです。」P六七
☆六一二号 (平成九年一月十一日・末寺在勤教師初登山の砌) 「ですから、創価学会が一往、宗門のために御奉公をするという形のあるうちは、それは大いに結構だと思っておりました。しかし、その根本のところに地金を現してきて、我見による誤った考えを押し通すために『大聖人直結』などと言い出した以上は、やはりこれにきちんとしたけじめをつけて、その考え方は誤りであるということを陰に陽に示してきたのであります。しかしながら、池田大作の『宗門、法主、何するものぞ』という大慢心の上からの考えは翻らず、宗門支配、三宝破壊の形を様々に表してきた次第であります。」P五六
☆六一五号
(平成九年四月六日・霊宝虫払大法会の砌)
「しかるに、かの池田創価学会は、その首領・池田大作が、信心弱く、増上慢に陥って、大聖人の仏法の根幹たる三大秘法を我意によって誤るとともに、『一心欲見仏 不自惜身命』の本義を弁えず、世間の批判に対し私利私欲による安易な道を常に模索したため、正本堂の意義付けなどに対しても、根本的に狂うに至りました。
すなわち、正本堂の着工法要の時、『三大秘法抄』の戒壇の文を挙げて、
『この法華本門の戒壇たる正本堂』(大日蓮二七三号)
と言い、あたかも広宣流布の達成という、大それた我見の意味を述べたにもかかわらず、本人自身、今もって一言も反省懺悔がありません。 さらに、これに関連してその後も長きにわたって、くどくどと述べた『広布第二章」なる仏法違背の邪義も、自らの名聞名利と安易な我見により、大聖人の厳格な下種仏法の構格、すなわち、謗法厳戒、折伏為正の道を、日本国内において安易な摂受に切り換えて流布の順序次第を狂わしたのであり、大迷見であります。」P三九
「池田大作は、口に『大聖人直結』などと言いつつ、大聖人の終始の大難と乏少忍受、少欲知足の御生涯に対し、ありとあらゆる贅沢三昧の上に、さらに人間として最も恥づべき行いがあったとして、目下、その屈辱を受けた方より、司法の裁断を訴えられている始末であります。これではとても『大聖人直結』などと言えたものではなく、地獄、餓鬼相当の一闡提にこそ直結している、と断ずるものであります。」P四〇
☆六一五号 (平成九年三月三十日・法華講連合会第三十四回総会の砌)
「残るところが本門の題目でありますが、心に本門の本尊を念じ、信じて題目を唱えるところが本門の題目であります。全く別な、誤ったものを念じてお題目を唱えても、それは本門の題目にはならないのであります。ところが、創価学会では、池田を心に念じてお題目を唱えるというような指導が行われているやに聞いております。皆さんも聞いたことがあるでしょう。あるいは以前にそのようにやってきた方がこのなかにもいるかも知れません。しかし、このような狂った誤りはありません。
日寛上人の御指南にもありますように、南無仏、南無法、南無僧という本門下種三宝を念じてお題目を唱えるということが基本であります。」P六四
「池田大作などという、名聞名利に凝り固まった、大謗法の者を、仏様のように心から信じてお題目を唱えるならば、その人は必ず地獄へ堕ちなければならない。そういう不幸な人達が学会員なのであります。」P六五
第五 誹謗・悪口へ 日顕上人語録目次へ戻る
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