諸法実相抄

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諸法実相抄の概要

【文永十年五月十七日、最蓮房日浄、聖寿五十二歳】 
日蓮 之を記す 
問て云く、法華経の第一方便品に云く「諸法実相 乃至 本末究竟等」云云。此の経文の意如何。
答て云く、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。
依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云く「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云。
又云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」。
又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云。
此等の釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかはる事なし。
釈迦・多宝の二仏と云ふも、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。
かくの如き等の法門、日蓮を除ては申し出す人一人もあるべからず。
天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし、胸の中にしてくらし給へり。
其れも道理なり、付属なきが故に、時のいまだいたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に、
地涌の菩薩の中の上首唱導上行無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし。是れ即本門寿量品(じゅりょうほん)の事の一念三千の法門なるが故なり。
されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。経に云く「如来秘密 神通之力」是なり。
如来秘密は体の三身にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。
然れば釈迦仏は、我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに、さにては候はず。返て仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり。
其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。
此の釈に、本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依て、倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。
さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。
地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。
仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なり、と云ふ事を諸法実相とは申すなり。
天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」云云。此の釈の意は、実相の名言は迹門に主づけ、本有の妙法蓮華経と云ふは本門の上の法門なり。此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。
日蓮末法に生れて、上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品(じゅりょうほん)の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先づ作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり。
日蓮をこそにくむとも内証にはいかが及ばん。さればかかる日蓮を此の島まで遠流しける罪、無量劫にもきへぬべしとも覚えず。
譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり。
又日蓮を供養し、又日蓮が弟子檀那となり給ふ事、其の功徳をば仏の智恵にてもはかり尽し給ふべからず。
経に云く「仏の智恵を以て籌量するも多少其の辺を得ず」と云へり。
地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。
若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈に日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや。
経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし是の人は則ち如来の使、如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と。豈に別人の事を説き給ふならんや。
されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり。是ほむる処の言よりをこり候ぞかし。
末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有て流罪死罪に及ばん。
然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給ふべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かたにかけ、せなかにをふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、
釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩、天神七代・地神五代の神神、鬼子母神・十羅刹女、四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王、水神・風神・山神・海神、大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり。
ほめられぬれば我が身の損ずるをもかへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをもしらず、ふるまふ事は凡夫のことはざ(為業)なり。
いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。
日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり。
末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。
剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。
釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩、虚空にして二仏うなづき合ひ定めさせ給ひしは別の事には非ず。唯ひとへに末法の令法久住の故なり。
既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給ひし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給ひし事あにいつはりなるべきや。併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。
日蓮は其の座には住し候はねども、経文を見候にすこしもくもりなし。又其の座にもやありけん。
凡夫なれば過去をしらず。現在は見へて法華経の行者なり。又未来は決定として当詣道場なるべし。
過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん。三世各別あるべからず。
此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。
彼の千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし・ながしながら、文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなきながら如是我聞と答へ給ふ。
余の九百九十九人はなくなみだ(涙)を硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。
今日蓮もかくの如し。かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。
釈迦仏・多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし。
現在の大難を思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思て喜ぶにもなみだせきあへず。
鳥と虫とはなけどもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。
此のなみだ世間の事には非ず。但偏に法華経の故なり。若ししからば甘露のなみだとも云つべし。
涅槃経には、父母・兄弟・妻子・眷属にわかれて流すところの涙は四大海の水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。
法華経の行者となる事は過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。
此文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ。意得させ給ふべし。
一閻浮提(いちえんぶだい)第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。
行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。
行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐恐謹言。
五月十七日  日蓮花押 
追て申し候。日蓮が相承の法門等前前かき進らせ候き。ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。
不思議なる契約なるか。六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化か。さだめてゆへあらん。
総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。
南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。経に云く「一名上行 乃至 唱導之師」とは説かれ候はぬか。
まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給ふ。此の文あひかまへて秘し給へ。日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。とどめ畢ぬ。
最蓮房御返事 

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