五、正信会について
【質】池田先生が悪いことは良く分かりました。しかしだからといって学会をやめようとは思いません。学会にいようが、宗門にいようが、正信会にいようが、御本尊と題目には変わりはないでしょう。ようは、御本尊対自分で、自分の信心さえしっかりしておれば、それでいいのではないですか?
【答】それは間違っています。
あなたは今、創価学会という船に乗っています。先兆は北を向いているが俺は南を向いているから大丈夫と考えているようなものです。いくら南を向いてもいても船には連れて行かれます。地獄という国にです。「謗身・謗家・謗国」という法門がこれです。我が身の謗法を遁れても、一家や、一国が謗法であったなら与同罪を受けるから、一家や一国の謗法を責めなくてはいけないという法門です。
したがって、あなたが成仏する為の方法は、創価学会の謗法を責めて正すか、それとも創価学会という船を降りるしかないのです。
『御本尊や題目が同じだから』と考えるならば一般日蓮宗を破折する理由はありません。彼らとて宗祖所顕の本尊を拝み、題目を唱えている事に、変わりはないからです。にもかかわらず、彼らを破折するのはなぜでしょう?それは、彼らには謗法があり、心が大聖人に通じていないからです。これと同じ道理で”御本尊を持っている””題目を唱えている”だけでは駄目なのです。心が御本尊に感応しているかどうかが問題なのです。
御本尊に感応する心とは、謗法のない正直な心を指します。創価学会にいる限りは、その謗法の罪を自分もこうむりますから、そういう立場で、どれほど題目を唱えても、御本尊には感応しません。
今、謗法のない正直な心で信心をしているのは、正信会しかありません。
【質】正信会は、日顕上人の血脈を否定しているから、血脈がなく、成仏できないのではないでしょうか?
【答】あなたは創価学会の人ですか?そうであるならば、あなたには、そういう非難をする資格はありません。なぜなら、今、創価学会では盛んに『日顕上人には血脈がない』と宣伝しているからです。
あなたが、日顕上人側の法華講信者であるのならば、お答えしましょう。
まず、日顕上人には日蓮正宗の規則である、「宗制・宗規」に定められる『選定』はもとより、「血脈相承の儀式」が挙行されたという事実もありません。したがって日顕上人は法主・管長ではありません。
それらの事実が、もし本当にあったのなら、日顕上人はその事実を証明すればいいのです。それを証明できないでいて、『あったと信じろ』はありません。
したがってあなたは、「虚偽」を無理矢理「真実」と信じ、自己欺瞞をしているだけなのです。偽りを、どれほど真実と思い込んだとて、そこに血脈が流れるわけでもないし、成仏ができるわけでもありません。
ましてや、日顕上人に謗法与同の大罪があるにおいておやです。
さらに言えば、「血脈」とは宗開両祖に通じる「信心」を意味しているのです。「『日蓮が魂』が宿り脈打つ『信心』」を指しているのです。この「日蓮が魂」は「謗法の山には住むまじ」と宗祖御自身が遺言なされています。
現在は、宗門にも学会にも謗法があります。ですから、「日蓮が魂」は抜け去っており、「血脈」は断絶していると言わなくてはなりません。当然、成仏はできません。
正信会は、宗門・学会を責め、謗法の無い信心をしています。宗祖は、「謗法の無い、正直な人の頭には『日蓮が魂』を宿す」と仰せられています。そうしてみると、「血脈」は正信会にしかなく、正信会でしか、成仏はできないという道理になります。
【質】日顕上人の「血脈相承」を否定したならば、日蓮正宗は潰れるのではありませんか?
【答】現宗門の宗学観では、ご質問の通り、みごとに潰れます。
これは宗門自身が、はっきりと「潰れる」と明言しています。現宗門の宗学は、創価学会の悪弊を受けて、すべてを唯物的にしか見れなくなっています。簡単にいえば、「(戒壇の大御本尊を)燃やして、(法主を)殺せば、潰れる」ような宗派教学なのです。
「日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までも流るべし」と仰せられた、宗祖の「慈悲」を
物の次元でしか捉えられないのです。
正信会は違います。形の次元もさる事ながら、心の次元を最も重要に考えています。正しい信心の感応の中にこそ、「日蓮が魂」は脈打つと捉えています。この「正しい信心」こそが「血脈」の正体なのです。したがって、「正しい信心」さえあれば、そこに日蓮正宗は永遠に存続します。
『日顕上人に血脈相承が無くても、有ったと信じるのが信心だ』とか、『日顕上人の血脈相承を否定したら、血脈が断絶してしまい、日蓮正宗は潰れるから、無くても、有ったことにしておこう』などという、姑息な宗学観は正信会にはありません。そんな宗学では、到底、世界に冠たる宗教など、なりえません。それは、仏を愚弄し、衆生を愚弄して、活命をはかろうとする、教団のドグマなのです。
日興上人は「時の貫首たりといえども、己義を構えば、これを用うべからず」と仰せられています。
この文証からすれば、(日顕上人は論外として)、仮りに正当な法主であれ「己義を構えた、時の貫首」は否定してもよいのです。いな、否定しなくてはいけないのです。否定しても「血脈」は切れる心配は無いから、このように仰せられたのです。否定したなら「血脈」が切れるのならば、こんな事は仰せられる訳がないのです。
もし、日顕上人が心から懺悔を行い、責任の所在を明確になされるならば、そして衆目が日顕上人を嫡子と認めるならば、「日蓮が魂」が行宮を遷座せずんばあるべからず、でありましょう。
【質】正信会は本山には登山できません。ですから、「本門戒壇の大御本尊様」にお目通りができません。したがって成仏できないのではないでしょうか?
【答】熱原三烈士が斬首された後に「戒壇の御本尊」が造立された、という義を取るならば、熱原三烈士斬首以前に亡くなった僧俗は全員「大御本尊様」にお会いしておりません。
こういう僧俗は成仏できなかったのでしょうか?
そのかわり大聖人が御生存されていた、というかもしれませんが、大聖人にお会いできずに亡くなった信者もたくさんいます。その典型が熱原三烈士です。
こういう人は成仏できなかったのでしょうか?
そんな事はありますまい、みな正しい信心によって成仏されたのです。
この例によって分かるように、「大聖人様」すなわち「本門戒壇の大御本尊様」に直接会う、会わないに関係なく、正しい信心をする者は誰でも成仏できるのです。
そもそも、登山会というのは創価学会が始めた事なのです。
それ以前は「本門戒壇の大御本尊様」は御宝蔵に深く秘蔵して、誰れ彼と拝ませはしなかったのです。「時の貫首」が信心強情な人だけ、こっそりと”内拝”許されたのです。普段は遠くから『大御本尊様』のお姿を偲びつつ。”遙拝”するだけでした。そして、この信仰姿勢が、富士門流古来からの正当な信仰観であったのです。
誰でも彼でも、いつでも、”内拝”を許す、という現在のあり方は、むしろ変態信仰に堕した、一時的な現象だと知るべきです。
未だ広宣流布せざる間は、”直拝”を恐れ入り、”遙拝”に徹した古来の在り方こそ、現在の我々が、信仰の亀鑑とすべき、態度であらねばならないのです。
してみると、昔”遙拝”しかできなかった人は成仏しなかったのでしょうか?
そんな事はありますまい、みな成仏したのです。
よく心得ておくべき事は、いくら御本尊を”直拝”しても、謗法があるならば、御本尊は感応しないという点です。
いわんや、御本尊を「打ち出のこずち」と勘違いし、「幸福製造器」と名づけて、利用する創価学会においておやです。
さらに深く思えば、「謗法の山には日蓮が魂は住まじ」とは宗祖の御遺言です。謗法の場所を聖人は捨て去るとは「立正安国論」の精神です。
もしそうならば、謗法の宗門や学会の住処に、果して、「日蓮が魂」は住せるや否や・・・と考えてみなくてはなりません。
「日蓮が魂」は、決して、山の彼方にあるわけではありません。我々の純真な命の中にこそ息づいているのです。
したがって、「成仏できる・できない」という事と、「登山できる・できない」という事は、関係ありません。
謗法の有無を見ず、登山の姿だけに成仏を見ようとする人は、仏法の本義に迷える愚人と断ずるものです。
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