正信会破折

これが、神奈川教区僧侶の正信会破折の文書であるが、物の道理が分かる方は、いかに現在の宗門僧俗の、信仰心の微弱さ、教学レベルの低さが理解出来ると思われる。

正信会破折

神奈川布教区僧俗協議会発表資料

                                 平成十一年七月二十六日 於・応顕寺

 正信会の問題の発端は、「五十二年路線」と称せられる、前回の「創価学会の教義逸脱」でした。よってまず、前回の創価学会問題とその経過について述べることに致します。

   一、創価学会の「五十二年路線」と称せられる教義逸脱問題とその経過

    @学会の教義逸脱と背景

 日蓮正宗が、創価学会を信徒団体として認容してきたのは、学会が昭和二十六年の宗教法人設立申請時において、宗門に対して確約した、

  一、折伏した人は末寺の信徒として所属せしめること

  二、当宗の教義を守ること

  三、当宗の三宝を守ること

との「三原則」の遵守を前提条件としたものでした。ところが学会は、前回の創価問題、すなわち昭和五十二年路線において、この三原則を無視したのみならず、大聖人様の仏法の法義から大きく逸脱したのです。

 この時の教義逸脱は、以下の如くです。

  一、御本尊模刻という前代未聞の大謗法

  二、教義的逸脱(池田並に学会首脳の指導や著述などの中に)

イ、小説『人間革命』を「現代の御書」と称した

ロ、大聖人様の仏法を「創価仏法」という新語に変造した

ハ、仏法の原点を戸田会長の獄中の悟達にあるとした

ニ、池田に対して、主師親の三徳を備えている、久遠の師である、本門弘通の大導師であると表現

ホ、仏法の師弟と人生の師弟を意図的に混同させて歴代の御法主上人を蔑如した

ヘ、血脈相承を蔑ろにし、大聖人直結、御書直結を主張

  三、化儀の逸脱

イ、学会独自の経本まで作成し、五座の観念文の中に歴代会長の名前を加え、仏祖三宝尊とご歴代上人にしか用いない「御報恩謝徳」の語を使用

ロ、池田は「広宣流布血脈の本弟子(または新弟子)たるを証す」などという傲慢な証書まで作製し、学会幹部に授与

ハ、僧俗対等の意識を持ち、寺院軽視、僧侶軽視をして寺院と会館とを同一視、さらに現在の真の道場は会館であると主張

ニ、会館で幹部が導師となってお盆の法要や結婚式などを行ない、在家も供養を受ける資格があると主張

 そのほか、寺院への参詣はしてはならないとか、学会員こそ僧宝であるとして下種三宝を破壊し、学会員こそ現在における出家であるなどとも言いました。

 こうした教義逸脱に至った本質は、当時の池田の大きな慢心と野望によるもので、その根底に「学会は主、宗門は従」とする考えがあったからです。それは、「北条文書」や「山崎・八尋文書」などの学会機密文書にも明らかです。しかもこの文書によって、学会には、実は、「学会は主、宗門は従」という考えをさらに推し進めた「宗門を創価学会の外郭団体とするか、もしくは日蓮正宗から独立しよう」とする謀略まで存在していたことが明らかとなったのです。

A日達上人の大慈悲と五十二年路線の収束

 しかしご先師日達上人の善導等によって、創価学会首脳はそれら教義逸脱に対して反省懺悔を示し、さらに昭和五十四年四月に池田が学会会長・法華講総講頭を引責辞任すること、及び同年五月三日、創価学会が今後、信徒団体としての基本を忠実に守ることを条件とし、ようやく日達上人によって昭和五十二年路線は収束されたのです。

 その間にも、昭和五十三年の「六・三〇」(教学上の基本問題について)では、法義上の逸脱が是正され、また通称「お詫び登山」といわれる同年の「十一・七」では、当時の北条理事長が、

  「宗門と学会との三十年余りに及ぶ関係を顧みたうえで、創価学会は昭和二十七年の宗教法人設立時の三原則を遵守し、日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確   にしてまいる方針であります。」

と述べ、また辻副会長は、「教学の基本について」と題して、

  「この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳粛なる化儀、伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、よく認識していかねばなりません」

と、創価学会の昭和五十二年路線における数々の逸脱を深く反省し、法人設立時の三原則に立ち返り、それを遵守することを仏祖三宝尊のご宝前に誓ったのです。

 よって、総本山第六十六世日達上人は、

  「新しい学会の執行部ができたことに準じて、学会がどういうふうに宗門と仲良く、僧俗和合していくか、ということを見なければならないと思います。学会が正しく日蓮正  宗の教義を守り、正しい信心をして、また世間の人を折伏していくのならば、我々はそ  れに準じて、どこまでも学会を守り、学会を信徒団体として受け入れていかなければな  らないのでありますから、ここはしばらく様子を見なければならないと思うのであります」 (要旨・昭和五十四年五月二十九日)

等、ひとまず混乱に終止符を打ち、学会の今後の方向性を暖かくも、また厳しく見守っていく旨を決定あそばされ、宗内全僧俗に命ぜられました。

B日達上人のあとを受けられた日顕上人とご決意

 こうして、学会の教義逸脱問題にいちおうの収束を見た直後の昭和五十四年七月、日達上人は安祥としてご遷化あそばされ、六十七世日顕上人猊下がご登座されました。そして、日達上人が最後に示された方針を引き継がれ、次のような「院達」及びご指南を発せられたのです。

  「僧侶にあっては、上求菩提下化衆生の誓願に徹して慈悲の精神に立ち、法主上人のもと一結して僧俗和合協調の右基本路線に添い奉るべきである。(中略)

   もちろん、もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきであり、またそこに何らかの複雑な問題を含むときには、宗務院に報告して善処を委ねるなり、あるいは地方協議会等の機関に諮る等を講ずべきである。

   創価学会にあっては、六・三〇、十一・七につき、さらに全会員が充分その経緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽くして説明徹底することを怠ってはならない。    すなわち、そのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分を明確  にし、またそのような指導を行なったことについて卒直に反省懺悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない」  (院達第十八号)

  「私は言うのですが、『もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよい』ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、あらためて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。そのときは多くの人が、直ちに、あらためて日蓮正宗に入ってくるでしょう。(中略)

   もしも、そのようなことが本当にあったならば、そのときは徹底的にやればよいでしょう。しかし、そうすると「その間に準備をされてしまう」と言う。準備ぐらいされてもよいではないか。(中略)誤りを改めると云っている以上、容認してやるべきではないか、と思います。

 このように、御法主日顕上人猊下も、ご先師日達上人がそうであられたように、学会が「誤りを改めていく」と誓っている以上は、ひとまず容認して今後を見守っていく、という方針を示されたのです。

 池田大作も、翌昭和五十五年四月二日、「恩師の二十三回忌に思う」と題する所感の中で、 「私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その 深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風 潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるもの であります」



「御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『六・三〇』(教学長の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えては ならない重要な規範であります」 と、昭和五十二年路線における創価学会の逸脱は、すべて池田自身の慢心に基づくものとして懺悔し、また「六・三〇」は創価学会として、万代にわたって絶対に破るべからざる規範と明記したのです。

 さらに、御法主日顕上人猊下は

  「大聖人の御書の精神に照らすとき、一時の誤りはあっても懺悔があればその罪が消えることは明らかであり、まして現に正法を受持信行する人達に根本的な謗法はありえないのであります。創価学会の逸脱は、それを改めなければ謗法に帰する意味はあっても、すでに改めんと決意し、行ないつつある以上、現在において謗法をあげつらうことは大  きな誤りであります」   (要旨・昭和五十五年四月六日)

とご指南されて、ここに、あとは学会執行部の懺悔の志が本心からのものであるか否か、という問題だけを残すこととなったのです。

 もとより、人の心の中のことを凡夫が確答できよう筈もなく、真実をお見通しなのは御本尊のご仏智だけであります。ゆえに、日顕上人猊下は

  「私は、皆さんに・仏智ということを信じていただきたいと思います。(中略)この仏智ということは、凡智・凡見で伺い知れないのが仏智なのであり、そこに仏法における、信解の難しさがあるのであります。(中略)日蓮正宗の歴史において、そこにさまざまの形はあったとしても、一貫して流れる仏智というものを、お互いに信ずることが信仰の根本であると思います。それを忘れたならば、宗門の僧侶ではありません」 (要旨・昭和五十五年七月四日)

とも仰せられているのです。

   二、正信会問題の発生と経緯

 このような創価学会の協議逸脱を発端として起こったのが、「正信会」を自称する本宗の元僧侶および檀徒等の異流儀問題でした。

 当初彼らは、創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬくことを標榜していました。実際、日達上人のご指南に沿って学会の誤りを糺しているかのように見えたのです。しかし実際には、昭和五十四年のいわゆる「五・三」に際して、日達上人が「学会の反省懺悔を受け容れ、しばらく学会の様子を見守っていく」旨を決定あそばされるや、彼らは総本山の日達上人に公然と反抗しはじめたのです。

 表面に出た具体例を一、二挙げてみますと、当時の彼らの機関紙には、

  「あくまでも学会は謗法の団体、無慙集団であり、この期に及んで学会を責めぬ日和見主義者は大聖人の弟子にあらず。また学会を責める者を咎めることは、謗法者を庇い立てることであるから、かえって謗法になる」  (要旨・「継命」第二号)

等、日達上人のご指南に背反する檄が掲載され、また、これを注意すべく日達上人が彼らに宛てられた通告(院達第三〇四七号)に対しては、ただ「拝見しました」と書いただけの無礼きわまりない返書を送り付ける、といった具合でした。

 同年七月、日達上人のご遷化により六十七世日顕上人がご登座されると、彼らは、一時、状況分析のためか静まっておりましたが、新御法主の方針が日達上人と少しも変わらぬことを知るや、いよいよ正面きって御法主日顕上人猊下を誹謗攻撃しはじめたのであります。

 御法主上人猊下はたいへん御心を痛められ、再三にわたって彼らを説得されましたが頑として随おうとせず、かえって彼らに随う多数の檀徒を巧みに煽動して、活動を激化させてきました。

これでは大聖人様の法義の乱れを誘発し、一宗の統制と秩序が破壊されるため、やむなく昭和五十五年九月、宗門は彼らを懲戒するなどして事態を鎮めようとしました。しかしそれに対して彼らは、同年末から翌五十六年初めにかけ、ご先師日達上人から日顕上人への継承には疑義がある。日顕上人は正当な六十七世御法主ではない。ゆえに、日顕上人のなした懲戒は無効である等、とんでもない言い掛かりをつけ、あろうことか御法主日顕上人猊下を裁判所に告訴するという、およそ宗門人としては考えられぬ暴挙に出たのです。

 これは大聖人様の仏法の根幹を破失する重大な謗法であり、ここに至って彼らは本宗から擯斥(破門)されるところとなったのです。

 この経緯を概観すると、彼ら、正信会と称する人々には二つの大きな根本的誤りがありました。

   三、根本的二つの誤り

 まず第一は、手段と目的を取り違えて本末転倒した、ということです。そもそも全国の僧俗が学会の謗法を責めたのは、あくまでも根本の大御本尊と三宝を護り、総本山を護るためであった筈です。しかるに、いかに学会許しがたしの想いが昂じたからとて、学会を責めること自体が最重要目的であるかのごとき錯覚に陥り、そのためには総本山・御法主上人をも誹謗攻撃するというのでは、日蓮正宗の宗徒として本末顛倒の謗りを免れません。

 要するに彼らには、大御本尊・三秘・三宝を根本と仰ぎ奉る絶対信が希薄だったのです。

 第二は、正法を正しく信仰しておれば自ずと具わるべき慈悲心に欠けていた、ということです。正信会の人々は、ことあるごとに「真の慈悲は相手の謗法を責めてあげることであり、我々は、慈悲心に立つが故に学会の謗法を責めるのだ」と主張しておりました。しかし、五十九世日亨上人のご指南には、

  「宗祖聖人も、阿仏房尼に告げて、『謗法にも、浅深軽重の次第ありて、あながちに悉く取り返しのつかぬ重罪にあらず。軽き浅き謗法を知らず知らず行なうといえども、その人が色心相応の強信者ならば、強い信心のために弱い謗法は打ち消されて罪とはなる  べからず』というふうの仰せがありしは、まったく門外折伏、門内摂受の意もありて、信徒を将護し給う大慈なるべし。いわんや、末輩にありては、自他互いに警策し勧奨して、寛厳宜しきを得て異体同心の実を挙ぐべきなり。厳にも寛にも、折にも摂にも、根底に大慈大悲の溢るるあらずんば、万行いたずらに虚戯に帰せんのみ」 (有師化儀抄註解・富要一@一四九)

と仰せられ、すでに入信せる門内の人々に対しては、何よりも、その人の信心を守り育てる大慈悲心を根底に、寛容を表として(さらに必要に応じては寛容と厳格を適宜に用い)、異体同心の実を挙げるべきこと等を示されています。

 このご指南に照らすならば、いかに不審な点は残るにせよ、いちおう誤りを反省して改めていくと表明している者を、とことん謗法であるとして責め続ける正信会のごとき行き方は、どう考えてみても慈悲と呼べるようなものではなく、とうてい大聖人の御意に適うものではありません。むしろ、それは慈悲を隠れ蓑にした瞋恚・怨念の振舞いと言うべきであります。

 このような心根であるから、正信会の人々には、ご信徒お一人おひとりにタイする日達上人と日顕上人の大慈悲が拝しきれず、あたかも両猊下が学会の権力・財力に屈したかのごとき、とんでもない思い違いをしたのです。

 ともあれ、この二つの基本的誤りが元となって、ついに正信会の者たちは、ご相承を否定し、三宝を破壊し、戒壇の大御本尊を蔑ろにする等の数々の大謗法を犯すに至ったのです。ここでは、その主なものを挙げて破折することにします。

   四、相承を否定・三宝を破壊・戒壇の大御本尊を蔑如の大謗法、そして異流儀へ

┌──────────────────────────────────┐

  1、│ 「日達上人から日顕上人への継承には疑義がある。日顕上人は正当な六十七│

│ 世御法主ではない」 │

└──────────────────────────────────┘

  【破 折】

 これは彼らが、御法主日顕上人猊下から受けた懲戒処分を無効にしようとして持ち出した疑難です。まったく無節操な保身のための言い掛かり、妄説にすぎません。

 日達上人から日顕上人へのご継承は、昭和五十三年四月当時すでに、日達上人より「次期御法主を日顕上人に決めておられる旨」を、直々に伺った側近僧侶もおり、何ら疑う余地はありません。

 実際、現在の正信会メンバーたちも、日顕上人猊下のご登座に際しては、日顕上人を六十七世御法主と仰ぎ、認めておりました。当時、彼らに従う某檀徒が、週刊誌上で日顕上人の継承を疑う発言をしたことに対し、彼らは、   「最近、某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、また恐れ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを得意になって云々している記事が目につきました。  私ども指導教師といたしまして、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、大変情けない  想いをいたしました。これは、もはや檀徒でもなければ、信徒でもありません。(中略)  御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承あそばす御法主、代々の上人を悉く大聖人と拝し奉り、その御内証・御法体を御書写あそばされたる御本尊に南無し奉るの  でございます。    これに異をはさんで、なんで信徒と申せましょう。またなんで成仏がありましょう。  師敵対、大謗法の者でございます。」 (昭和五十四年八月二十五日・第三回檀徒大会)とまで断定しているのであります。

 しかるに、その後一年数ヶ月が経過し、宗門から懲戒処分を受けるに及ぶや彼らはにわかに一転して、それまで自分たちも「ある」と認めていた日達上人から日顕上人への血脈相承を、「なかった」ことにしてしまいました。

 これは明らかに、御法主日顕上人猊下による懲戒処分を無効にしようとの狙いによるものであり、自己の保身のためには白も黒にしてしまう、無節操な妄説であります。これは信心でもなければ仏法でもない、汚れた謗法者の感覚そのものです。かかる妄説をもって、僧宝の座に連なる御法主上人を否定せんとした正信会は、まさしく、彼ら自身の言う師敵対・大謗法の者と成り果てたのであります。

 さて日蓮大聖人は、

  「譬へば人に皆五臓あり。一臓も損ずれば其の臓より病出来して余の臓を破り、終に命を失ふが如し」     (新池御書・新編一四五六)

と仰せられ、謗法罪を改めなければ、次第に罪が拡散してさらに多くの謗法を誘発する、と戒められていますが、その後の正信会は、本宗の伝統法義に次々と異義を差し挟み、ついに、本宗で立てる三宝の悉くを破るに至りました。

┌──────────────────────────────────┐

  2、│ 「法主から法主へと伝えられる血脈相承は形式的なものであって、真実の │

│ 血脈相承というのは、信の一字により、大聖人から正信の僧俗大衆に与え│

│ られるものである。したがって、代々の法主の血脈相承が断絶したときに│

│ は、正信の大衆の中に血脈が保持されるのであり、今日においては、正信│

│ 会にのみ血脈が受け継がれている」 │

└──────────────────────────────────┘

  【破 折】

 彼らは、日顕上人猊下の継承を否定し、その延長として、御法主上人猊下以外の僧俗にも血脈相承が流れ伝わる、などという陳腐な説を主張しだしたのです。

 そもそも本宗では、大聖人より血脈相承された二祖日興上人、さらにそれを順次継承される、三祖日目上人以来ご歴代上人方を僧宝と仰ぐわけですから、この正信会の主張は、結局のところ日興上人以下ご歴代上人を形式的な僧宝と下し、僧俗大衆(なかんずく今日では正信会)こそが真実の僧宝である、とするものです。

このような説は、創価学会の言っている「今日における僧宝としては創価学会がある」という妄説と軌を一にするもので、本宗における僧宝の立て方を破失する邪義に他なりません。

次に彼らは、何としても猊座の尊厳を失わしめんがため、血脈相承の本源である日蓮大聖人にまで遡って、

  「鎌倉時代に生まれた人間日蓮は本仏ではない。人間日蓮を本仏と立てるから、弘安五年には本仏がお隠れになって、現在は本仏がおられないことになる。そこで今日蓮が必  要となって、法主が本仏のごとく崇められることになるのである。これは根本が間違っており、本来の当家法門では、生身の大聖人ではなく、大聖人の永遠不滅の魂魄をもっ  て本仏とするのである」

等の説を構えました。

 しかしながら、これは、まったく法華経の教えすら弁えぬ、初学者並みの妄説です。

 大聖人は、

  「我等が色心の二法を無常とと説くは権教なり、常住と説くは法華経なり」 (御義口伝・新編一七四五)

  「凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門と云ふなり」(御義口伝・新編一八一一)

すなわち、生身の他に永遠の魂魄を考えることは誤った見解であり、法華経では、生身そのものが生・死を繰り返しながら常住する永遠の存在である、と説くのである、と仰せられています。

 したがって本宗で立てる宗祖本仏義も、こうした法華経の深理を踏まえ、生身のほかに永遠不滅の魂魄なるものを求めるのではなく、生身の日蓮大聖人をそのままご本仏と仰ぎ奉るのであります。このことは、また二十六世日寛上人の『末法相応抄』にも明確にお示しであり、これこそが本来の当家法門です。

 正信会はひとえに、猊座の尊厳を損ねよう、との邪心をもって法門を展開したが故に、前のごとき初学者並みの妄説に堕し、本宗における仏宝の立て方を破失してしまったのです。 さて、こうして仏宝の立て方を誤った正信会は、さらに仏宝と一体の関係にある法宝=大御本尊についても、

┌──────────────────────────────────┐

  3、│ 「ダイナマイト一本で吹っ飛ぶような物が、大聖人の究極の本尊であるわ│

│ けがない。それは唯物の次元に堕した本尊観である。我々は、色法の御本 │

│ 尊の奥に、眼には見えない御本仏の心法を拝するのであり、その仏の心法 │

│ こそが常住不滅の真実の大御本尊である」 │

└──────────────────────────────────┘

  【破 折】

 これも、まったく法華経に説かれる法理を弁えない、仏宝習いそこねの妄説です。大聖人は、

  「文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。(中略)然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり」 (諸宗問答抄・新編三六)

「口決に云はく『草にも木にも成る仏なり』云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。(中略)一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり」 (草木成仏口決・新編五二二)

等、要するに、御本尊のお文字は単なる形(色法)ではなく、ご本仏の悟り(心法)を顕わした、色心不二の仏のお姿であり、板であれ紙幅であれ、そこに御本仏の悟りがお文字をもって認められれば、御本尊の当体と顕われるのである、とご教示くださっています。

 こうした法理も弁えず、大御本尊を唯物呼ばわりする正信会の妄説は、七百年前に袂を分かった身延派日蓮宗の邪義と何ら変わりがなく、その誤りは、すでに六十五世日淳上人も、「彼等は、また、・日蓮正宗では御本尊を板や紙に執われているから唯物的思想だ・といっておるが、事ここに至っては、開いた口がふさがらない。彼等には、草木成仏・非  情成仏等、仏法の重大法門が少しもわかっていない。それでは、法華を学んだとは、とうてい、いえないことである」   (何故に日蓮大聖人が御本仏であらせられるか) と指摘されているのであります。

 では何故、正信会はこのように誤った法宝の立て方をしたのか、といえば、つまるところ、「眼には見えない仏の心法を大御本尊として信じておれば、あえて大石寺に参詣して大御本尊を拝む必要はない」といいたいがためであり、それは、また正信会が、大石寺から離れた後も異流義宗団として存続していくための邪な布石であった、といえます。

  4、「今の本山には、既に大聖人、日興上人の御魂は住まわれず、と断ずるも  のである」                    (継命・五十一号)

「どうしても日蓮正宗が駄目なら、『我々で新生の正宗を作っていけばい  い』そのぐらいの余裕と腹づもりで行きましょう」                        (継命・二百二十九号・元渡辺広済議長指導)

「七百年以前に宗祖御入滅・地頭不法・身延離山・大石寺開山とたどられ  た正法厳護の歴史は、奇しくも今日ここに再現され、若輩たりとはいえ、 正信会の僧俗に日興上人の法脈を受け継ぐ使命を担わされた。(中略)今後 は、なおいっそう行体をつつしみ、『いづくにても聖人の御義を相継ぎ進 らせて世に立て候はん事こそ詮にて候へ』の遺訓を守り…」                        (継命・二百六十三号)

  【破 折】

 本宗における三宝の立て方を悉く破壊した正信会は、ここに日蓮正宗富士大石寺から離脱・異流義化したことを自認すると共に、一宗一派の旗上げ構想をもっていることまで表明したのです。

 また、元正信会会長である久保川法章のごときは、あろうことか、

  「日蓮正宗に於いて信仰の最大究極としている戒壇の本尊が偽りであった。(中略)正本堂の板本尊は、日興上人の云われる弘安二年の御本尊ではない」 (弘安二年の大御本尊)

などと、大石寺に安置し奉る大御本尊を全面否定する大謗法に及びました。

 こうなれば、もはや日蓮正宗とは異質な宗旨でありますから、この際、日蓮正宗の宗名を詐称するのはやめてほしいものですが、それでは、いかにも自らの変質・異流義化が明らかになるようで、内外の眼が憚られるのでしょう。まったく哀れなものであります。

   お わ り に

 日蓮大聖人は、

  「請ひ願はくは道俗法の邪正を分別して其の後正法に付いて後世を願へ」 (守護国家論・新編一五三)

と仰せられ、まず法の正邪を決することの重大さを指摘されています。

 また、其の邪正峻別の方法として、大聖人は、

  「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」    (三三蔵祈雨事・新編八七四)

と仰せられ、仏法の正邪を判断していくためには、まず「道理と証文」の上から、その教えの内容を見極め正邪の分別をつけていくことが大切である、そのうえで、最終的な確認として「現証」に照らし合わせ、正邪を判断するのである、と示されています。

 このご金言のごとくに判断していくならば、正信会もすでにその立てるところの教義が「道理と証文」に照らして邪義でありますから、「現証」として仏罰の相が現れることは必然であります。

 この時にあたって、日蓮正宗の信徒たるべき者は、仏法の道理に則った正しい信心を志し、「漁夫の利」を狙う異流義の徒輩等を寄せつけず、また邪心による情報操作に惑わされず、どこまでも、大御本尊・三秘・三宝を擁する富士大石寺を根本としていかねばなりません。 ともあれ、御法主日顕上人猊下も、昨年の夏期講習会の砌、

  「大聖人の御聖訓に照らして、私共も『今まではいい加減だった』と思うべきです。『今まで信心してきたけれども、どうもいい加減だった』と自覚すれば、『では、これから  しっかりやろう』ということになります。(中略)いい加減に考えていた人は、三年、五年経っても一人も折伏できなかった。やらなかったわけです。大聖人様の仏法を我が身に、自ら実践する心を固めるところに大功徳がある。いわゆる『いい加減ではだめだ』  ということです」  (大白法五一四)

と仰せられて、私達の信心を励まされています。

 もとより、いまだかつて、何の熱意も情熱なくして成し遂げられた偉業は、一つもありません。皆さま方の御本尊様への真剣な唱題と、その祈りにもとづく着実な折伏行の実践によって、今、法華講が立ち上がる、この時、一人ひとりが必ず三世にわたって揺るぎない絶対的な幸福境界を築き上げることができ、そこにおのずと平成十四年の三十万総登山におけるそれぞれの目標達成もなされるものと確信いたします。

 よって、今こそ、御法主上人猊下ご指南の平成十四年・三十万総登山達成に向けて、一人ひとりが全力を傾け、折伏行に邁進していただきたいと存じます。

 そして、その信心姿勢にこそ、富士の清流は脈々と流れ通うのであります。

イヤハヤ、なんとも、欺瞞と、捏造と、事実関係のすり替えに徹して作られた、文書である、ここまで、すり替えするには神奈川教区僧侶も相当苦労されたことであろう。以下正信会側よりの反論文書を紹介しよう。
  • 富士の清流を問う目次へ戻る
  • ホームへ
  • コンテンツ
    nb 資料室 富士門流の再興を考えよう nbの独り言の部屋
    nbリンク集 正信掲示板 nb 掲示板
    メール 愚者・迷者談義 雑談掲示板