富士宗学要集第三巻
臨終用心抄
一、祖判卅二十一に云く、夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候しが、念願すらく、人の寿命は無常也、出る気は入る気を待つ事なし、風の前の燈尚譬にあらず、かしこきもはかなきも老たるも若きも定めなき習ひ也、されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと云云。 一、臨終の事を属●之期と曰ふ事。 愚案二六に云く、臨終の事を属●之期と云ふは●はわた也。臨終の時息が絶へるか絶へざるかを知らん為にわたのつみたるを鼻の口に当てて見るに息絶へぬればわたがゆるがざる也云云。意を取て思ふ可し。 一、多念の臨終、刹那の臨終の事。 愚案二八に云く多念の臨終と云ふは日は今日、時は唯今と意に懸けて往生坐臥に題目を唱ふるを云ふ也。次に刹那の臨終と云ふは最期臨終の時也、是れ最も肝心心也。臨終の一念は多年の行功を依ると申して不断の意懸けに依る也。樹の先づ倒るるに必ず曲れるに随ふが如し等之を思へ、臨終に報を受くる亦復強きに従て牽く弘一中四十四文也。故に多年刹那に是を具足すべき事肝要也。 一、臨終の時心乱るるに三の子細有る事。 一には断末魔の苦の故。断末魔の風が身中に出来する時骨と肉と離るるなり、正法念経に云く命終の時風皆動ず千の尖き刀其の身の上を刺すが如し。十六分中尚を一に及ばず。若し善業有れば苦悩多からず云云、顕宗論に云く、人の為に言を発し他人を譏刺することを好み、実不実に随つて人の心を傷切するは当に風刀の苦を招くべき也。 二には魔の所以。沙石集四廿三に云く、或る山寺の法師世に落ちて有る女人をかたらひ相ひ住みける程に此の僧病ひに臥して月日をへにけるに、此の妻ねんごろに看病なんどし○故に意易く臨終もしてんずと思ける程に○本より道心有て念仏の数返なんどしける者にて最後と覚ければ端座合掌して西方に向ひ高声念仏しけるを此の妻我を捨てて何くへをはずとあら悲しやとて首にいだき付て引臥せけり、あら口惜し、心安く臨終せさせよと起ち上りて念仏すれば亦引臥せ引臥せしけり○引臥せられてをはりにけり、魔障の致す所にや。又道念ありける僧、世に落ちて妻をかたらひ庵室にこもり居て妻に知られずして持仏堂に入り端坐して目出度くをはりにけるを妻後に見付てあら口惜し拘留孫仏の時より付そひて取つめたる物をにがしけるとてをそろしげなる気色に成て手を打ちて飛びて失せにけり已上。爾前権門の行者さへ是れ如し況や本門寿量文底の行者は別して魔障有る可し、必ず生死を離るる故也。 三には妻子従類の歎きの声、財宝等に執着するの故云云。大蔵一覧五十五沙石四廿六に云く、一生五戒を持てる優婆塞、臨終に妻をあはれむ愛執有りけるが妻の鼻の中に虫に生れたり、此も聖者に値て此れを知れり。致悔集下九に云く廬山寺の明道上人は三大部の抄に執着有て聖教の上に小蛇となつて居れりと。或る長者金の釜を持ちたりしが臨終にをしゝと思ひし故に大蛇と成て釜の辺りに蟠る云云。元亨釈書十九十三に引く或る律師は天井に銭廿貫文を持て臨終に一念思出して蛇と成て彼の銭の中に住むと、檀方の夢に告ぐ彼の銭三宝へ供養すべしと。告げの如く彼の銭の中に小蛇あり、哀に思ひ法華経を書て供養してあれば後に夢に得脱せり云云。去れば臨終には妻子或は心の留る財宝見すべからず。華を愛する者は小蝶と生れ鳥を愛する者は畜生に生る等云云。本朝語園四八八廿八。釈書十九十四。 一、問ふ断末魔の時心乱れざる用心如何。 答ふ、平生覚悟すべき事也。一には顕宗論の意に准ぜば他人を譏刺すべからず、人心を傷切すべからず、此れ常の用心也。二には玄四廿三に云く身本と鳴有ならず、先世の妄想、今の四天を招く、虚空を囲むを仮りに名けて身と為す文。 引きよせてむすべば柴の庵にて解れば本の野原なりけり。 水は水火の本は火に帰りけり思ひしことよすはさればこそ 。 水は水とは、水は本の水と云ふ心也、引よせては先世の妄想也、よせられし物は地水火風の四大也、死しても心法に妄想の足の緒が付て亦結び合せて身を受くる也。此れを十二因縁の流転と云ふ。一身の四大所成なる姿は堅湿●動とて骨肉のかたまりたるは地大也、身に潤ひ有るは水大也、あたたかなるは火大也、動くは風大也、此の四が虚空を囲みまはすが此の身也。板柱等集りて家を作る如く也。死後の身の冷るは火大の去る也、逗留有ればくさるは地大、去る故也、切れども血の出でざるは水大の去る故也、動かぬは風大去る故也、死ぬる苦しきは家を槌にて頽るが如く四大の板柱材木面々に取り離す故に苦るしむ也、断末魔とは之れを云ふ。此の離散の五陰と云ふ如く離散の四大也。すはさればこそと読たるは苦なり、驚きたる処なり。解れば本の野原と読るも解にが離散する事本のと云ふが法界の四大に帰りたる事也云云。 是の如く兼て覚悟すれば驚かざる也。驚く事無ければ心乱るべからず。三には常に本尊と我と一躰也と思惟して口唱を励むべし。御書十四四十七実に己心と仏心と一心なりと悟りなば臨終を礙ふるべき悪業も有らず、生死に留るべき妄念も有らず云云、又廿三卅七縦ひ首をば鋸にて引き切り乃至霊山へはしり玉ふ文、金山二末卅二。 一、魔の所以の用心如何。 答ふ平生覚悟有るべし、黄檗禅師の伝心法要に云く臨終の時若し諸仏来て種々の善相有るとも随喜を生ずべからず、若し諸悪現じて種々の相有るとも恐畏の意を生ず可からず。心に亡じて円なら令む、是れ臨終の要也云云。随喜恐畏の意を亡じて但妙法を唱ふ可き也。蜷川臨終に、三尊来迎せるを弓を以て之れを射る則ち庭上に落つ、果して古狸也云云。之れを思へ。御書廿八卅二に云く、止観に三障四魔と申すは権教を行ずる行人を障るにはあらず、今日蓮が時具に起れり乃至御臨終の時迄御心得有るべき也文。 一、妻子財宝等の用心如何。 答ふ、楽天が云く、筋骸本と実無し、一束の芭蕉草、眷属偶相依る、一夕林鳥を聞く文。三四の句は心地観経の意也、彼第三に宿鳥平旦各分飛す、命終別離亦是くの如し云云。 一覧五廿四、五無反石復経、沙石七九に云く昔し仏法を求むる道人有りけり、山中を行くに二人の山左あり、一人は臥して一人は畠を作るあり。父子ならんと立寄て見れば其の子毒蛇にさされて俄かに死せり。父嘆く色なくて此の道人に語て曰く、其のをはする道に家あり、是れ我家也。其より食を持ち来るべし、唯今此の子俄かに死せり、一人の分の食を持ち来れと告げたべ、道人の云く父子の別れは悲しかるべし、何ぞ歎く色なきやと問ふ、答へて云く親子はわづかの契り也、鳥の夜る林に寄り合ひて明くれば方々に飛び去るが如し、皆業に任せて別かる何ぞ歎かあらん。扨て彼家に至りて見れば女人食物を持て門に出づ、右の次第を語れば扨はとて一人が食を止む、家の内に老女あり、僧云く彼の死するは其の御子かと、老女爾也と云ふ、何ぞ歎く色なきや、母の云く何ぞ歎くべき、母子の契りは渡しの舟に乗り行くが如く、岸に付けば散々になるが如し、各業に任せて行く也。又此女人に死ぬる人は其の為に何ぞ。答ふ我が男也。何ぞ歎く色なきや。何故に歎く可き、夫妻の中は市に行き合ふ人の如し、用事すぎぬれば方々へ散るが如しと云へり。時に道人万法の因縁仮なる事ぞと悟れり云云。 又財宝の事は在家出家ともに存生の時に書き置く可き事也、されば在家は財宝に意懸けり。とやせん角やせんと思ふて心乱るる也、出家は袈裟・衣・聖教等、彼れに譲り此れに譲らんと思ふて心乱る、依て慥に書き記す可き也。此等の妄念有る可からず、然れば唯後世の事のみ成らんと存す可き事肝心也云云。 愚案記二八、沙九十二、経に云く妻子珍宝及び王位は命終に臨む時は随はず、唯戒及び施と不放逸とは今世後世の伴侶と為るなり云云。 人王六十五代の帝華山院は小野の宮殿の御女、弘徽殿の女御に後れさせ玉ひて世の中は御意細く思食しみたれたるころ粟田の関白未だ殿上人にてをはしける時、扇に此の文を書きて有るを御覧有りて御意を発し、世の楽しみは夢幻の程也、国の位も益無し、十善万乗の位を捨て永く一乗菩提の道に入らせ玉ひける、既に内裏を出でさせ玉ひける、夜は寛和二年六月廿三日有明の月くまなかりけるに流石御なごりも残りけるにや、村雲の月に掛りければ、我が願ひ既に満つとて貞視殿の高妻戸よりをりさせ玉ひける、夫より彼の妻戸を打付られける有難き御発心也、承るも哀れに侍り候云云。常に此の経文信受せば着心有らんや、着心無くんば心乱るる事有る可からず云云。 臨終の事常に頼み置く可き事也。 愚案二八、常に臨終を心に懸くる事肝心也、在家は妻子亦は帰依の僧に能く云ひ入れて臨終と見れば能く勧めて給はれと、出家は弟子等亦善知識と覚しき人に常に頼み約束して置く可き也。 多くは其の期に及んで其の人気よはらんと云つて死期を用捨する事謂れざる事也。若しよはりて一日二日一時二時早く死にたらば大事と思ふて勧むる者は大善知識なるべし云云。たまたま経を読むも祈祷になどと云ひ病人に唱題を勧むるを祈祷にならんと云ふは愚の至り也。 臨終を勧むる肝心なる事。 致悔集下八に云く臨終は勧むる人が肝要也。譬へば牧の馬を取るには必ず乗り得て取る也、乗るには必ずうつむかねば必ず落馬する故に是非ともうつむかんと思ふとも廃忘してうつむく事を忘るを、そばより勧ればうつむきて取りすます、其の如く病苦死期に責られて臨終の事を失念するをば勧むるが肝心也。其の勧め様は唯題目を唱ふる也。 一、臨終の作法は其の所を清浄にして本尊を掛け香華燈明を奉る可き事。 一、遅からず速からず惟久く惟長く、鈴の声を絶へ令むる事勿れ、気尽くるを以て期とする事。 一、世間の雑談一切語り申す可からず。 一、病人の執心に留るべき事を一切語る可からざる事。 一、看病人の腹立て候事、貧愛する事語る可からず。 一、病人問ふ事あらば心に障らざる様に物語る可し。 一、病人の近所に心留る可き資材等置く可からず。 一、唯病人に対して何事も夢也と忘れ玉へ南無妙法蓮華経と勧め申す可き事肝心也。 一、病人の心に違ひたる人努々近付く可からざる事。惣じて問ひ来る人の一々病人に知らすべからざる事。 一、病人の近所には三四人には過ぐ可からず、人多ければ騒がしく心乱るる事あり。 一、魚鳥五辛を服し酒に酔ひたる人何程親しき人なりとも門内に入る可からず、天魔便りを得て心乱れ悪道へ引き入る故也。 一、家中に魚を焼き病人に嗅気及ぶ可からざる事。 一、臨終の時には喉乾く故に清紙に水をひたして時々少々宛潤す可し、誰か水などと名づけてあら●●しく多くしぼり入る可からざる事。 一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。 一、死後の五時も六時も動かす可からず、此れ古人の深き誡め也。 一、看病人等あらく当る可からず、或はかがめをとする事、反す●●有る可からず。 一、断末魔と云ふ風が身中に出来する時、骨と肉と離るる也、死苦病苦の時也、此の時指にても当る事なかれ、指一本にても大盤石をなげかくる如くに覚ゆる也。人目には左程には見へねども肉親のいたみ云ふ計りなし、一生の昵み只今限り也、善知識も看病人も悲しむ心に住すべし、疎略の心存す可からず、古人の誡也。惣じて本尊にあらずば他の物を見す可からず、妙法にあらずば他の音を聞かす可からず云云。 一、臨終に一念の瞋恚に依つて悪趣に入る事。 一覧五十五云く阿耆陀王と云ひし人国王にて善知識にてをはしけるが、臨終の時看病人扇を顔にをとせしに、瞋恚を生じ、死して大蛇と生れて迦旋廷にあいて此の由を語ると云云、沙石四廿六に引く。私に云く此意に依て死期に顔に物をかくるに荒々と掛く可からず、或はかけずとも云云。 一、御書十八廿二又不不慮に臨終なんどの近き候はんには、魚鳥なんどを服せさせ玉ひても候へ、よみぬべくば経をもよみ及び南無妙法蓮華経とも唱へさせ玉ひ候べしと云云。已に不慮の時之れを許すを以て知んぬ。兼て臨終と見ば之れを服す可からず、尚是れ臭気なり況んや直ちに服せんや。 一、臨終の相に依つて後の生所を知る事。 金山二末卅五に諸文を引く、往見。御書卅二十一に云く、法華経に云く如是相乃至究竟等云云、大論に云く臨終に黒色なるは地獄に堕つ等云云、守護経に云く地獄に堕つるに十五の相あり、餓鬼に七種の相あり、畜生に五種の相あり等云云、天台大師摩訶止観に云く身の黒色をば地獄の陰に譬ふ等云云乃至天台の云く白は天に譬ふ等云云、大論に云く赤白端正なる者は天上を得ると云云、天台大師臨終の記に云く色白と云云、玄●三蔵御臨終の記に云く色白と云云、一代聖教を定むる名目に云く、黒業は六道に止り、白業は四聖となる云云。 一、他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事。 中正論八六十に云く、縦ひ正念称名にして死すとも法華謗法の大罪在る故に阿鼻獄に入る事疑ひ無しと云云。私に云く禅宗の三階は現に声を失ひて死す、真言の善無畏は皮黒く、浄土の善導は顛倒狂乱す、他宗の祖師已に其れ此くの如し末弟の輩其の義知る可し、師は是れ針の如し弟子檀那は糸の如し、其の人命終して阿鼻獄に入るとは此れ也云云。 一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事。 安心録十六問ふ若し臨終の時或は重病に依り正念を失却し、唱題すること能はず、空しく死亡せば悪趣に堕ちん哉。答ふ一たび妙法を信じて謗法せざる者は、無量億劫にも悪趣に堕ちず。涅槃経に云く、四依品の会疏六十二我れ涅槃の後若し此くの如き大乗微妙の経典を聞くことを得、信敬の心を生ずること有らん、当に知るべし是れ等は未来世百千億劫に於て悪道に堕ちず已上。廿巻徳王品会疏廿十八若し衆生有り一経を耳に振れば却後七劫悪趣に堕せず已上。涅槃尚然也、況や法華をや。経力甚深なる事仰で信敬すべし、況や提婆品に云く浄心に信敬し疑惑を生ぜざる者は地獄・餓鬼・畜生に堕せず、十万の仏前に生れん云云。信敬と云ふは五種の中には受持の行に当る、況や行を加へて妙法を唱へんをや、御書十一初一期生の中に但だ一返の口唱すら悪道に堕ちず、深く信受すべし云云。 私に云く神力品に云く我が滅度の後に於て応さに此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無し云云。 一、臨終に唱題する者は必ず成仏する事。 先づ平生に心に懸け造次顛沛にも最も唱題すべし。亦三宝に祈ること肝要也。又善知識の教を得て兼て死期を知り臨終正念証大菩提と祈るべき也。多年の行功に依り三宝の加護に依り必ず臨終正念する也、臨終正念にして妙法を口唱すれば決定無有疑也。 一、伝教大師一大事の秘書修禅寺決四丁臨終の一念三観は人臨終に断末魔の苦速かに来て身体に迫る時心神昏昧にして是事非事を弁ぜず、若し臨終の時に於て出離の要法を修せずんば、平生の習学何の詮か有らん。故に此の位に於て法具の一心三観を修す可しとは即ち妙法蓮華経是れ也。臨終の時南無妙法蓮華経と唱へば妙法の功に由て速かに菩提を成じ、生死の身を受けざらしむ、是れ爾し仏力・法力・信力也。 一、文句四七十二云く那先経に云く人死に臨み南無仏と称すれば泥梨を免るることを得とは如何人一石を持して水上に置けば石必ず没すること疑ひ無し、若し能く百の石子を持て船上に置けば必ず没せざるが如し、若し直爾に死すれば必ず泥梨に入る石を水に置くが如し、若し死に臨みて南無仏と称すれば、仏力の故に泥梨に入らざら令む、船力の故に石をして没せざら使むるが如しと云云、種脱云云。 御書五廿九に云く、提婆達多は世尊の御身より血を出だせしかども、臨終の時には南無と唱へたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりし云云。 又卅二十二云く法華経の題目を臨終の時二返唱へ玉ふ云云、法華経第七に云く於我滅度後○無有疑云云、妄語の経々すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力に責められて実語と成り候、況や法華経の題目をや。白粉の力には漆を変じて雪の如く白くなす、須弥山に近く衆鳥は皆金色也、法華経の題目を持つ人は一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善と成る、況んや無始の善根皆変じて金色となり候、然るに故聖霊は最期臨終に南無妙法蓮華経と唱へさせ玉ひしかば一生乃至無始の悪業変じて仏種と成り玉ふ、煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門は是也云云、此の文法力也大論廿四十四臨終の一念は百年の行力に勝れたり、心力決定して猛利なること火の如く毒の如し、少なりと雖も大事を成す、人の陣に入りて身命を惜まざるを名て健と為すが如しと云云、臨終には信力猛利の故に仏力・法力も、ともに弥々顕れ即身成仏するなり、譬へば好き火打と石の角とほくちと此の三寄り合て火を用ゆるが如し云云。廿二十四、又廿八三に云く此の道に入りぬる人にも上中下三根はあれども同じく一生の内に顕るる也、上根の人は聞く処にて覚り極つて顕す、中根の人は若しは一日若しは一月若しは一年に顕す也、下根の人は、のびゆく所がなくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至つて諸の見へつる夢も覚めてうつつになりぬるが如く、只今迄見ゆる処の生死妄想の邪が思ひ、ひがめの理りはあと形もなくなりて本覚のうつつの覚りにかへりて法界を見れば皆寂光の極楽にて日来賤しと思ふ我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべき也。 御書卅二廿二日蓮が法門だに僻事に候はゞ臨終には正念に住し候はじ文。 御書十三廿八我が弟子の中に信心薄く浅き者は、臨終の時阿鼻の相を現ずべし、其の時我を恨むべからず等云云。 一、末法本未有善云云十一四十七云云。 一、末法在世下種一人もなき事廿五四を云云。 外廿四教行証御書に云く、今末法に入り在世結縁の者一人も無く権実の二機悉く失せり、此の時は濁世たる当世の逆謗の二人に初めて本門寿量品の肝心南無妙法蓮華経を以て下種とす、是好良薬、今留在此は是也文。 私に云く一には在世を去る事遠きが故に、二には現の濁悪の衆生なる故に、三には仏●て本化を以て下種の導師と定むる故に、四には威音王仏の像法と釈尊の末法と同じき故に文已上。 臨終用心抄終。 寛延元戌辰暦八月廿七日在山之砌り書写し奉り畢んぬ。 大日蓮華山門流優婆塞 了哲日心 弘化三丙午八月栗木仁兵衛敬本には題に臨終用心抄とありて、奥に富士日寛師説法也とあり、嘉永五年壬二月中旬広察本には寛師の名なし、臨終用心抄とはあり、此の二本共に了哲本とは同じからず、又転写の為の相違にあらず、或は聴聞者の覚書なるが故に互ひに繁簡あるものか、更詳。 昭和十一年十月七日朱校を加へ原本になり了ぬ。 日亨在判。 |