隠岐へ
海道をゆく 海は人を隔てない 人をつなぐ 1 1998(上)
ゆったりと胸に風を吸い込んでデッキに立つと、若狭湾の半島たちが出迎えてくれる。冠島、鋸岬、松ヶ崎を眺めながら海道の旅は終着。両手を広げるように包容力をもって受け入れてくれる小浜湾。光る海を風が撫で、雲龍丸はその上を滑るように進んでゆく。
講座「海道をゆく」隠岐への航海に参加。若狭からは遠いと思っていた隠岐が以外に近いことを体感した。小浜港から西郷港まで一気に行けば8時間。沖でイカ釣り実習をし、朝焼けの海を西へ走って隠岐に入港する。西郷港は天然の良港。北前船の時代も風待ち港として船乗りたちの安堵の港であった。
隠岐での現地講師、歴史民俗研究家の藤田茂正さんの話は興味深い。「対馬海流は隠岐を通って、若狭湾に達する。昔から隠岐で遭難した漁師が若狭に漂着することが多くあった。隠岐では葬式をすませて悲しみに沈んでいると若狭から連絡があり、生きている知らせ。隠岐で死んだ人が若狭で生き返る。」と。
朝鮮半島から出航した人たちが、遭難し隠岐に漂着救護されたという話も聞いた。他国から流れてきた者を助けてやりたい、海上安全を祈願したい一心で、隠岐に渡って寺を建てた道澄という僧侶もいる。この愛弟子が柿本人麿の息子の躬都良(みずら)。隠岐に流され、島の娘と恋仲になる。二人の熱愛もつかの間、躬都良が病死。娘は黒髪を切って都にある生家に彼の母を訪ね、終始を語り泣きながらに遺骨を渡す。この美談が都から広まり、彼女が隠岐に帰るため立ち寄った小浜港では話を乞う者が後をたたず。娘は小浜に残る。これが、隠岐に伝わる八百比丘尼の一説である。
西郷にある玉若酢命神社の境内には樹齢二千年で幹周り20メートルもある杉がある。「八百杉と呼ばれ、若狭の八百比丘尼が植えたと伝えられています。」億岐正彦宮司が丁寧に説明してくださった。小浜の空印寺から預かってきた八百比丘尼縁の「白玉椿」を参加者の一人で八百姫神社の沢田辰雄氏から手渡した。「800年たったらまた来ますよ。」そんな冗談をいいながら、対馬海流と八百比丘尼伝説で若狭とつながっている人情の島を後にした。
海道をゆく 海は人を隔てない 人をつなぐ 2 1998(中)
若狭湾の漂着物はハングル文字で書かれたものが多い。速い潮に乗ると3〜4日で朝鮮半島から到着するという話も聞いた。韓国で遭難し死んだと諦めていたら若狭で生還した話が身近にある。明治33年小浜市泊に漂着した韓国船「四仁伴載」の乗船者である。今から97年前、ウラジオストクから大韓国咸鏡道明川沙浦に向かって帰る途中の大韓帝国籍の船が暴風に遭い、真冬の日本海を2週間漂流して漂着したのである。船には鄭在官船長以下93人の韓国人乗船していた。水も火もなく餓死寸前のところであった。泊の村人は総出で救出し、湯を沸かし村中の飯を集めて食事をさせ、懸命に救護し、1週間の滞在の後、全員無事で故国に帰ることができたのである。韓国人と区民は言葉は一言も通じなかったが、慈しみの情も深くなり、浜で分かれる時には、「別れを告げるがその様子は実に親子の別れと同じであった。韓国人が目に涙すると区民も共に涙を流し、袖を絞るほどに泣きながら別れを告げた。」と、当時の区長が書き残している。救護を通して心を結んだ民衆。韓国併合の10年前の出来事であった。当時、水難救護法等も出来ていたが、国はこの遭難救護に対して何ら積極的な援助を示さなかった。海は人を隔てることはないのに、国が海を隔てていた。海は人の出会いをつくってきた。同じ海を抱き会う民と民が手をつなぐ時代が来ている。2002年日韓の共催でワールドサッカーが開かれる。小さな村でも、そんな時代のために風になりたい。そんな思いで、村の入り口にハングル文字で表記した看板を立てた。
「若狭」という発音に近い言葉が朝鮮語にある。それは「ワッサカッサ」=「行ったり来たり」という意味の朝鮮語だと韓国出身のロジンパーク氏が教えてくれた。古代から行き来した海道。海は人を隔てない、海は人をつなぐ。97年前の祖先たちが、国境を越えて心通わせた歴史をもとに21世紀の民同士もまた交流できるはずだ。
海道をゆく 海は人を隔てない 人をつなぐ 3 1998(下)
海、むしょうに心惹かれる海。筏をつくって遊んだ少年時代。あの日の海の色も臭いも全部覚えているのは不思議だ。昨今、うまし小浜の浜はテトラポットや埋め立てでその美しい海岸線を失ってきている。海がそこにあっても、海で遊ばなくなった子供達のこと。15年前の冒険の海が記憶に新しい。
「ぼくらの出航」と題して6年生の学級41名で三ヶ月がかりで取り組み、いかだを作って出航した日のこと。国語の時間は「コンチキ号の漂流」「ジョン万次郎漂流記」など40冊読破を目指し、算数は測量、図工、海の絵を描き、木を削ってオールを作る。音楽は出航の音楽を練習し、給食は海で食べた。学級会では、いかだづくりの目的についてとことん話し合う。「もし遭難したらどうする?」と女の子達。「僕らが助ける」と男の子。「頼りない男子やと不安や。」と女の子達が反論。納得させるために模型制作、浮力実験を真剣に始める男の子たち。自分の命を守れるように「全員500メートルを泳げるようになろう」を合い言葉に猛練習も開始した。
8月3日、台風の去った後の海岸に学級全員が集まり、竹、木、ロープなどを材料に筏の組立を開始。5メートルもある帆も作り「熱風」と書き込んだ。マストの滑車にロープを通して帆を上げると歓声が上がる。うねりの残る海に、手作り筏で出航することは、大冒険である。いろんなピンチも脱出して無事このプログラムを実行しきった子供達の横顔がたくましかった。
各教科の学習を総合する目標が「ぼくらの出航」であった。最近、生活科や総合学習の重要性が叫ばれ、生きる力を育てる教育が緊急課題になっているが、そんな風もない当時は子供達と覚悟を決めての挑戦だった。子供達と海を取り戻したかった。「我は海の子、小浜の子」海の歌を高らかに歌える子にしたかった。卒業の時、あの日の航海グッズや記録を後瀬山にタイムカプセルに入れて埋めた。「2000年がきたら、掘り出して再会しよう。その日に後瀬山がみどりで、小浜の海が青い海のままでありますように。このオールで人生をのりきろう。」そう誓い合って旅立った。もうじき2000年、彼らは、あの時の僕の年。父親からナポレオンをもらってきてタイムカプセルの中に埋めたお茶目な子もいた。酒は山の中で、彼らの人生と同じようにいい味になっているだろう。再会し、車座になってこの酒を酌み交わし人生を語りあう日が楽しみだ。