KAZU Essay


住んでいる人が好きなまち

 福井新聞の「こだま」欄で、都会から故郷の若狭小浜に帰ってきた若者の寄稿を読んで感動した。岩崎正洋さんは、「小浜は田舎で何にもないと思っていたが、小浜には、癒しを求める世の中で、喜んでもらえるものがたくさんあることに気づいた」という。「魅力的な小浜を友人たち、全国の人たちにも紹介できるよう、故郷についてもっと知らなければ」と結んでいる。嘆きばかりが多く聞かれる中、意気を感じる発言だ。

 美しい風景はすべての人々の共有財産だ。その風景の中にいると、平安を感じる。人気韓国ドラマ「冬のソナタ」で、主人公の女性が「好きな人の心が一番の家」といった名せりふがあった。まちも同じだ。まず住んでいる人が好きなまちであればいい。「ここはいいところやで!」住む人にとって誇りのあるまちであれば、観光客も来る。

 北前船の倉庫群や古い町並みがまだ凛として残っているまち小浜。地下からは掘り抜きで美味い水が今も湧き出す。明治時代の酒蔵を改修して、ここを会場に津軽三味線や尺八のコンサート「灯りと和の夕べ」を企画して旧小浜の町並み保存や歴史的建造物の活用に取り組んでいる「小浜まち景観研究会」が企画したイベントが本紙でも紹介された。古い町並みには内なる秩序がある。家の前のお地蔵さんのお世話をしたり、家の前に打ち水をしたり生活の美しい風景がある。風景そのものがまちの人の心を象徴している。

 同紙の「旅で出会う本」欄で作家の森まゆみさんの文章を読んでいたら、松江城の掘を巡る遊覧船のことを書いておられた。数年前、私も松江を訪れこの堀川巡りを体験したことがある。前松江市長の名案で始めた事業らしい。水路を船で観光することにより、ゆったりした時間の中で風景がまた美しく見える。今まで体験したこのような船は、福岡の柳川、近江八幡の水郷巡りなどがある。堀川巡りの船には工夫がしてあった。簡易屋根がついているが、背の低い橋下を通るときは、油圧でこの屋根が下がり、低い橋桁も通れる。この船の仕掛けに感心した。

 小浜は水のまちである。松江に負けない水路がある。例えば小浜湾から丸山を通って羽賀へと続く江古川がある。羽賀寺再建の時、秋田杉を船で運んだとき使った運河だという。堀川巡りを楽しみながら、うとうとと小浜港から羽賀寺までこのような船で上っていく風景を想像していた。スロータウン、国宝巡りの船というのも情趣があるだろう。

 美しい風景と自然に流れる時間は至福の時空をつくり、癒しをもたらすのであろう。民俗学者の谷川健一先生をご案内したとき、先生は浜に立って「何か懐かしい風景だね。小浜湾のこの形が母の懐のような風景なのでそう感じるのかも知れないね。」そうつぶやかれた。包容力のある港を基点に、岩崎さんが発言したように、郷土の良さをもっと発見、発信していきたい。ホームページは

http://www.mitene.or.jp/~kazu-o/


一生懸命が響き合う太鼓の魅力

 日本の伝統音楽や伝統楽器が見直されてきている。県内でも太鼓人気が高まり、新聞紙上でも和太鼓グループの活躍や和楽器に関する情報が数多く紹介されている。太鼓の響きをまちづくりの風にして全国発信している市町村も多い。

 二十年程前、和太鼓はこんなに市民権を持っていただろうか。伝統太鼓は各地域に根をはって地道に継承されてきたが、一般市民の太鼓チームが組太鼓で登場するなどということはまれだった。

 今日の太鼓ブームの火付け役となったのは、七十年代に佐渡を拠点に活動を始めた鬼太鼓座であろう。鬼太鼓座は後に鼓童として生まれ変わった。五月二五日の本紙上でも「脈々ニッポンの技 世界に飛躍する和太鼓」といった見出しで紹介された。鼓童は、伝統太鼓を学びながら、伝統に縛られずに進化し和太鼓を舞台芸術まで高めた。

 鼓童との出会いは、小浜公演を見て感動したことがきっかけである。鬼太鼓座から鼓童

に生まれ変わった直後であった。それまで体感したことのない迫力音だった。

 若狭湾少年自然の家に勤務している時、冬の荒れ狂う海を見ていると、太鼓の音が聞こえてきた。大自然のエネルギーを太鼓の音を通して体に取り込めないかと太鼓教室のプログラムを考えた。鼓童研修所の近藤克次所長に手紙を出して相談した。

 ハマナスが咲き誇る五月、佐渡へ向かった。小木から車で二時間、日本海を見渡す場

所に研修所はあった。廃校の校舎でプロをめざした研修生が五名、太鼓に打ち込んでいた。

 研修生と同じ生活をする。早朝五時起床、体操をしてから十キロ走り込む。帰って長い廊下を水拭き。朝食を作り食事。午前中は、ストレッチング、民舞の練習。午後は、夕方まで太鼓を打ち込む。床に水をまいたように汗が流れる。夕食の後は、個人の自由時間だが、全員が自主練習で太鼓をたたく。凄まじい太鼓道、五日間で体重が六キロも落ちた。研修生はこの生活を1年間続けるのだ。太鼓をたたく以前の体作り、中でも走り込みは基礎的なトレーニングである。足音、心臓のビートがそのまま太鼓の音に聞こえてくる。小手先で太鼓をたたいていても本当の音が出ない。

 それにしても、太鼓の魅力とは何であろうか。太鼓の音は心臓の鼓動に拍車をかける。体が熱くなってくる。四二名の学級の子どもたちと太鼓に取り組んだ時、それまでバラバラだった子どもたちの気持ちがひとつになっていった。「体がとても動くのです。自分でものってきたのです。」最初、太鼓なんか古くさいと興味をもたなかった女の子が日記に書いてきた。

 最近、学校でも日本の伝統音楽、和楽器がようやく見直されてきた。子どもたちの心臓のビートが太鼓の音になる。体から入る音楽の体験は心地よい。太鼓を練習している会場で幼児がすやすや眠ってしまうこともあった。太鼓の音はいのちのリズムと共振するのだろうか。単純な音だが、その一打で思いも体力も気力も性格さえも音になって響く。最初なかなか音が出ない子が、最後に一番いい音になっていくことに感動する。子どもたちの一生懸命が音になって響き合う。内から伸びる子どもたちを引き出す教具としても太鼓を学校に揃えておきたい。


 あいの風〜六畳半の宇宙

        

 四月九日の福井新聞に、全身の筋肉が麻痺し自分で呼吸も困難な難病ALS患者の舩後靖彦さんが小学校で講演をし、児童が感動した様子が記事で紹介されていた。舩後さんは趣味の音楽活動や作詞もしているとのこと。最近、障害者の現況や活動を伝える記事が少ないように思う。こうした記事がどれだけ大きな力になることか。

 小浜湾に「あいの風」が吹く。北と東の間(あい)から吹く風をこう呼ぶ。この風が吹くと、天気が良くなる。時化の西風を押し返す風だ。障害者にとって、現実は時化の風が吹くことが多い。

 小浜市深谷にある身体障害者療護施設友愛園の一室で始まった創作活動が、「あいの風コンサート」に広がった。歌が時化の西風を押し返す風になればと願ってつけた名前だ。小浜市社協主催で、文化会館が満席のコンサートになり十年余も続いた。

 同園の島邑三智子さんの詩に出会い、曲をつけたことから音楽交流が始まった。「車椅子」の歌の作者の溝口茂さんや園の仲間が詩を書き、多くの歌が生まれた。

 同園の川北浩之さんは、障害者の完全参加と平等をに仲間に呼びかけて精力的にコンサートを企画し、市内の喫茶店でも実現した。膝を交える雰囲気の小さなコンサートで、親密な交流の輪ができた。川北さんは自らも詩を書き多くの歌を生み出した。そんな彼が突然、自立を目ざして施設を出て自宅に帰ってから九年が過ぎた。

 二冊目の詩集「六畳半の宇宙」を自費出版すると最近連絡があった。早速、綾部の自宅の六畳半を訪ねて久しぶりに話をした。彼は自立の道を選んだものの悶々とした日々が続き、詩を書くのをやめていた時期があった。「こんな僕が詩を書くなんておこがましい。」と自分に対して否定的になっていたらしい。

 出生時よりアテトーゼ型の重度脳性麻痺で自立生活は容易ではない。お母さんが体を悪くされた時、自分の介護が負担になっていると自責した。その時、お母さんのためにも詩集を出したいと思い続けたそうだ。彼は顔当てのマウスを使ってパソコンを操作し再び詩を書き始めた。小さな空間の中で感じた笑い、怒り、楽しさや悲しさを表現、そして六畳半の窓を開けて少しでも広い世界へ飛びだそうと出版を決意した。

 「ジャンプジャンプジャンプ 今日より高く 明日より遠くに」彼が作詞した歌の一節である。この歌を詩集に入れたいと電話をもらい、彼らしいと思った。 

 彼の詩にいつも母が登場する。「やさしさを絵にしたら母さんの寝顔になった 親不孝をするために 生まれてきたようなこの僕が こんなこと言うとへそが茶を沸かすって言われそうだけど 母さんとは喜んだ顔にして見たい人」

 詩は彼のあごがたたき出した生命の発露。詩集「六畳半の宇宙」は彼自身のホームページでも紹介している。http://www5.nkansai.ne.jp/users/conan/


 海は人をつなぐ母の如し

 人名に使えなかった「曽」という漢字を法務省が認めたという記事を読んだ時、佐渡の曽我ひとみさんのことを思い浮かべていた。

 帰国当時、言葉少な目の彼女が会見で語った言葉は詩のようだった。僕の頭をぐるぐる回り、メロディーが浮かんだ。昨春、佐渡で同級生や音楽仲間が主催するコンサートに参加し、曽我さんと「帰ってきましたありがとう」を歌った。佐渡の真野湾を見ていたら、両手広げて包んでくれる母のふところに感じた。曽我さんの前で「母さんとは」を歌った。曽我さんの目に涙があふれていた。小浜に帰って数日後、曽我さんから手紙をいただいた。「母の歌もう一度聞かせてください。」

 連日、魯迅展の話題が報じられ、「百年の絆」も連載中。魯迅と藤野厳九郎先生の出会い、師弟愛が国をつないだ。福井県縁の誇りある歴史だ。  

 私の住む村にも百三年前に大韓帝国から漂着した韓国船の歴史がある。真冬の日本海で生死の境を彷徨った九三人の韓国人たちが、餓死寸前で村人に救護され全員無事に帰還した。日清から日露の戦争の渦中、民衆は国境を越えて心をつなぎあい、別れるとき親子のように涙を流した。この歴史から百年目の二000年、小浜市泊の海岸に小さな記念碑を建て「海は人をつなぐ母の如し」と刻んだ。

 北朝鮮から帰国したばかりの地村さんご夫婦をここへご案内した。地村さんのお子様が帰国する日のことを思い描いた。若者はやがて二つの国をつなぐに違いない。「海は人をつなぐ 海は人をへだてない やさしい母のような大きな海…」歴史と思いを歌にした。

 金総書記は音楽がお好きと聞いた。エリック・クラプトンの「Tears in Heaven」という曲がお気に入りだとか。大切な息子を失った父親の悲しみを歌ったこの曲がお好きなら、この歌も心に届くかも知れない。昨年十月、市民千人が結集して小浜で「拉致家族早期帰国を願う会」が行われた。この会場で「海は人をつなぐ母の如し」を歌った。海を越えてとどけと日本語とハングルで歌った。

 三月五日の記事、韓国の大統領が対日関係に未来志向を強調していた。日韓共同歴史研究の成果を双方の教科書に反映することを日本政府に促していく姿勢だ。この国もアジアの国々に向かって、海のように大きな精神で向かって欲いきたい。日本地図を逆さにして見ると、日本は島であり、海からすぐにアクセスできる位置に見える。日本海は東アジアの内海に見える。多くの人や物の交流があったこの海が「隔てられた」のは歴史の中で短い時間である。

 小浜水産高校の実習船「雲龍丸」に高校生が乗船して韓国へ。今度は韓国の浦項海洋科学高校が実習船で二000年に小浜にやってきた。海を介した交流がもう四年も交流を続いている。教科書問題で国同士がこじれていたときも交流は続いてきた。海は人をつなぐ、海は人をへだてない。海のある町小浜から発信し続けたい。


 ふるさとの風景〜ちんちんぐるまの音が聞こえる〜

 一月五日の福井新聞の論説「混迷の時代 心の豊かさ感じていますか」を読んで、ある村の風景が浮かんだ。私の中でスチール写真のように時間が止まったままの村である。

 私は、十六年前、民謡調査で滋賀県朽木村木地山の平楽鉄之助さん・トヨさん老夫婦に出会った。小浜市上根来を訪問したとき「峠の向こうの村に三味線を弾くじいがおる」と地元の大家清さんに教えていただいて早速訪ねたのである。

 鉄之助さんは初対面の私に屈託なく、三味線を出してきて「高島音頭」を弾き語りしてくださった。九十才とは思えない張りのある声だった。

 鉄之助さんの民謡談義を聞かせていただいているうちに、雪が降り積もり、その日は泊めていただくことになった。トヨさんが作ったワサビの葉漬に一升瓶が出てきた。鉄之助さんの三味線と歌は最高潮。トヨさんの手拍子と踊りも入って、何故か懐かしい家に帰ってきたような時間が流れた。

 山間で老夫婦二人暮らしは寂しくないのだろうか。ご夫婦のこの陽気さはどこからくるのだろうか。

 春夏秋冬時々遊びに訪れるようになって、ようやく分かった。盆踊りの櫓に駆け上がって三味線を弾く鉄之助さんの勇姿。春の野で山菜を摘んではしゃぐトヨさん。大屋根に上って雪下ろしもしていた。山に生かされ山に生きる夫婦の暮らしと祈りがあった。 

 春三月、まだ根雪のこの村を訪ねると、小川にフキの茎でつくった「ちんちんぐるま」を回してトヨさんが待っていてくれた。「もうじきダムの工事が始まって、この家も水の底に沈む。」という。一代で築いた家が水底に沈むことを寂しがっていた。その年、鉄之助さんの故郷上根来で音楽会を開催、鉄之助さんをゲストに呼んだ。半世紀ぶりに踊りの輪ができた。

 数年後、ダムの建設が始まり、村は消えた。鉄之助さんは家を解体する前の年、三味線を抱いて九六歳で永眠。トヨさんは川下の町で息子さん夫婦と生活をしておられたが、昨年、九一才で永眠。二人は風となり、川の流れとなって、山の風景の中で遊んでいるにちがいない。三味線とちんちんぐるまの音は今も私の耳に聞こえてくる。

 日本全国をくまなく歩き、辺境の地で黙々と力強く生きる日本人の存在を書かれた宮本常一先生の「忘れられた日本人」を読んだ時、鉄之助さん・トヨさんの生き方や人生もこれに相当すると思った。

 変わっていく日本の風景。時代とともに変わっていかなければならないこともある。しかし失ってはいけない、失いたくないこともある。最近聞いた話では、ダムの建設は見直し中らしい。