私の座右の銘

 急にこんな話題を書いてみたくなりました。

 多分これを読んでいる皆さんも“座右の銘”という物をお持ちだと思います。一応私にもあるのですが、最近改めてその言葉を自分自身で噛みしめています。TVで1度聞いただけで(インターネット等で調べても)正確な原文や出典が分からない物なのですが、ここではそれに関する話をちょっと書いてみます。

 私の座右の銘、それはこんな言葉です。


「もし明日地球が滅ぶとしても、
今日僕は林檎の苗を植えよう。」

 人間は過去を引きずり未来を憂いながら生きている動物ですが、でもそれは決して生まれつきそうだった訳ではありません。生まれて間もない赤ちゃんが「昨日の寝小便、あれ格好悪かったよなぁ。俺に取っては人生で最大の汚点だぜ。」とか「どうせ今年の7月に人類は滅ぶんだから、今ミルクを飲んで大きくなってもしょうがねえよなぁ。」とか思いながら過ごしているはずはない訳で (^^; とにかく今という時間を自分なりに生きているのです。そういう生き方が今このご時世に正しいかどうかは別にして、少なくとも過去や未来の事に囚われて自分が何もしないというのはもったいないのです。

 今自分がやろうとしている事、それはひょっとすると明日には全くの無駄骨と終わる事なのかも知れません。でも自分がそれを正しいと信じるなら、とにかくやってみる(続けてみる)事なのです。別に無理をする必要はありません。自分に出来る範囲の事、あるいはそこから一歩踏み出した挑戦をする位でいいのです。そしてその事が後々自分のためだけでなく、より多くの人達のためになるのであれば、こんな良い事はありません。

 それと我々は何かすると「すぐ結果を求める」事をよくします。でも後世に名を残す科学者や芸術家の多くが、その功績が認められたのは没後だったりします。よく「その人の生前の評価は葬式の時に下される。」とか言いますが、そんなのもっと後だって構わないのです。今自分がしている事は何年も先でないと結果を生まないかも知れません。でも「今自分が植えた苗から育った林檎をどんな人達が食べるのか?」それを想像しながら日々を生きるのは案外楽しいものですし、そうする事で自分の仕事にも張り合いが生まれるのです。

 残念ながら人間という生き物は、結構先々の計画を立ててそれに従って行動しないと生きていけない文化をこの世に創り上げてしまいました。それが自分に取って喜ばしい物ばかりであればまだましなのですが、それは時として「これはここまでで終わり」等という悲しい物が少なくありません。だったら“本当にその日が来るまではその事を忘れて、今までと何ら変わらず(あるいは今まで以上に意欲的に)目の前の物に取り組んでいく。”という選択もあるはずです。それで今すぐ結果が出なくてもいいのです。今自分が植えた苗にやがて果実が実り、それを誰かが収穫してくれる事を信じて愚直に苗を植え続る、そういう生き方もありなのではないでしょうか?。

実はこの言葉の出典元をもう何年も調べているのですが、未だに分かっていません。「林檎」という言葉から多分欧米の物だと思うのですが、どなたか出典元あるいは原文をご存じでしたら あいせん までお知らせ下さい。 m(__)m


   
なお、このページの内容に関する文責はすべて私 あいせん にあります。