ルイ17世
1785年3月27日、ルイ16世と、マリー・アントワネットの間に産まれた悲劇の王子です。
そして、彼の死には多くの謎が残っているのでした。

1789年6月、バスティーユ牢獄の占領により火蓋が切られたフランス革命によって、この王家の運命は一変しました。
そして、革命派によって捕らえられた国王一家はパリへ連行され、タンプル塔に幽閉されました。

1795年6月8日、ルイ17世は急死しました。(毒殺説が有力です。)
ルイ17世の解剖は翌朝、ふたりの医師とふたりの助手によって行われました。
この時、市会の役人ダモンが、彼の髪の毛を分けもらい、持ち帰ったのでした。

ルイ17世の埋葬はごく簡単に行われ、柩は共同墓地に葬られました。
しかし、ここに、重大な疑問が潜んでいました。
というのは、ルイ17世の身長でした。記録によると、ルイ17世の遺体は長さ162cmの柩に納められていたそうです。
しかし、後にタンプル塔が壊されたときに、王妃によって書かれた彼の身長を示す数字が見つかったのです。
それによると8歳の時点で1m少々しかなかったというのでした。
彼が死亡したのは10歳と2ヶ月であるが、いくら成長期とはいえ、2年で60cm近く身長が伸びるものだろうか?
しかも、ここでは、肉親による遺体の検証も行われなかった。
つまり、死んだ少年がルイ17世であるという証拠はどこにもなかったのです。

さて、タンプル塔で少年の髪の毛を手に入れたダモンは、王政復古後の1817年、
ルイ17世の姉、マダム・ロワイヤルにこの髪の毛を手渡そうとしました。
そして、マダム・ロワイヤルの護衛隊長であるグラモン公に、髪の毛を差し出したのでした。
しかし、返ってきたのは、「これは、ルイ17世の髪ではありません。彼の髪はもっと明るいブロンドです。」
という、思いもかけぬ言葉でした。

そして、1833年5月28日、ルイ17世を自称するノーンドルフという男がフランスに現れました。

この男の出生を証明するものは何もありませんでした。というより、1810年以前の記録がいっさいありませんでした。
1825年、贋金作り嫌疑で牢に放り込まれた際、警察が彼の身元調査を行ったが、その出生についてはいっさい謎のままでした。
そんな彼を、引退判事ド・アルブーイがフランスに招いたのでした。

さて、その真偽はというと、驚くことに、ノーンドルフを見た20人余の元従者達は、彼を本物と認めたのでした。
また、ノーンドルフは、ルイ17世としての幼少時の記憶を、詳細に語ったと言います。

しかし、ルイ17世のことを一番知っている姉のマダム・ロワイヤルは決して彼に会おうとはしませんでした。
そして、一向に自分がルイ17世であると認めない国王一族に対して、ノーンドルフ身分要求の訴訟を起こしました。
だが、その途中で、国王は調査の中止を命令しました。
そして、ノーンドルフは捕らえられ、いっさいの書類を押収され、イギリスに強制移送されたのでした。
その後、彼は、悲惨な晩年を迎えるのでした。そして、1845年8月10日、オランダで死亡しました。

その後、マリー・アントワネットの遺品が発見された際、その中にルイ17世の髪の毛が発見されました。
そして、ダモンが所持していた少年の髪の毛とを、リヨン市の鑑識専門実験所所長で、
鑑定学者として世界的に名高いロカール教授が鑑定しました。
結果は、全くの別人だったそうです。
そして、俄然期待されたのが、ノーンドルフの髪の毛(死後100年経過)との鑑識結果です。
しかし、ルイ17世の髪に見られる特徴が、ノーンドルフの髪には見られないという、期待はずれの結果でした。

ところが、ノーンドルフがルイ17世ではないのか?というと、一概にはそう言いきれないのでした。
というのも、前に書いた、ルイ17世しか知らない、幼少期の記憶や、筆跡鑑定の結果(こちらは同一人物だと認めています)、彼の体のアザ、そして、何よりも、第一次対戦後に発見された、ル・コックのノーンドルフ=ルイ17世を証明する書類の存在であります。
ただし、この書類は、現在は行方不明とのことです。

そして、何より興味深いのが、姉のマダム・ロワイヤルの遺書であります。
この遺書は、ロワイヤルの死後100年目に公表するよう遺言されました。
しかし、期限が過ぎた現在にあっても、それはフランス外務省に眠ったままで、公表されていません。
もしかしたら、ここに、全ての真実が隠されているのかもしれませんね。
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