カスパール・ハウザーは「19世紀最大の謎」と称される人物であります。
1828年5月26日夕刻、一人の少年がバイエルン王国のニュルンベルク市に現れました。
彼は、「ニュルンベルク第六騎兵隊、第四隊、フォン・ヴィスニヒ大尉殿」と書かれた、二通の手紙だけを持っており、第一の手紙には、
「私はしがない日雇い労働者です。1812年に母親から預かって以来、この子を我が子のように育ててきました。しかし、この子が、将来は父親のような騎兵になりたいというので。そちらに差し向けます。・・・略・・・」
そして、もう一通の手紙には、女中がこの労働者に宛てたものらしいもので、
「このこは、カスパールといい、騎兵だった父親を継ぎたがっています。十六になったら、どうかニュルンベルクに連れて行ってやってください。」
これを読んだヴィスニヒ大尉は、カスパールの寝ている厩に行き、少年をたたき起こしていろいろ問いただしましたが、帰って来る言葉は、「ボク、キヘイ、ナリタイ」「シラナイ」「ウマ」の三語だけでした。
苛立った大尉は、少年を警察へ連れて行かせました。
少年は、そこでも、例の言葉を繰り返すだけでした。
彼は、そのまま、監獄であるルーギンスラント塔に入れられました。
カスパールはとにかく奇妙な少年でした。歩き方は、生後まもない幼児のようなよちよち歩き。
足の裏は地面につけたことがないようにすべすべしている。夜は背をまっすぐにして、座して眠る。
また、16歳にしては異常とも思えるほど無知で、何もかも生まれて初めて見るものばかりのようで、たとえば、ロウソクの炎を指でつまもうとしたり、鏡に映る自分の姿を不思議がって、鏡の後ろにまわってみたりする。
しかも、彼は異常な能力を持っており、例えば、いつどこにいても、北と南を即座に指差すことが出来る。
タバコのにおいは、100歩以上先から嗅ぎ分けられる。真っ暗な中でも、ものをはっきり見分けることが出来る・・・。
また、例の二通の手紙も、改めて調べると、不審な点が多すぎるのでした。文体は変えてあるが、同じ人物が書いたことは明らかでした。
そして、カスパールがだんだん言葉を覚えると、彼は自分のことを話し始めました。
これをもとに、ニュルンベルクのビンダー市長が発表した公式報告は。
「少年はこれまで、彼が『穴』と呼ぶ、日も射さない狭い一室に閉じ込められていた。 ・・・中略・・・彼は牢獄内で、2頭の白い木馬と遊んだ。ところがある夜、突然男から外に連れ出され、歩き方と自分の名前の書き方を教えられた。 男は彼をニュルンベルクまで連れてくると、後は一人で行くように命じてどこかに消えてしまった・・・」
この「野生児現る」のニュースは、またたくまに広がり、人々はその謎解きゲームに熱中しました。
少年についての情報には懸賞金が与えられるというビラが何千枚もくばられ、
少年がいる塔には朝から晩まで物見客が詰め掛け、質問攻めにされました。
彼はついにノイローゼになってしまい、王国政府は彼をダウマー教授の家に預けることにしました。
少年はそこで順調に回復し、数ヶ月で、読み書きや計算は言うに及ばず、やさしいピアノ曲を弾き、馬も乗りこなすようになりました。
少年が短期間でここまで進歩したということは、彼は幼いころすでに乗馬や語学を習ったことがあるのではないか?という憶測を呼びました。
そして、どこか気品がある顔立ちから、もしかしたら高貴な家柄の落とし子ではないかという噂も流れ始めました。
そして、カスパール出現の翌1829年の秋、彼の身に奇妙な事件が起こりました。
地下室で額から血を流して倒れているところを発見されたのです。
なんと、黒い覆面をした男に、いきなり刃物で切りつけられたのでした。
人々の事件への反応はさまざまでした。
カスパールを監禁していた男が、秘密がばれるのを恐れて殺そうとしたのだと言うものもいれば、カスパール自身が人気取りのために仕組んだ狂言だと言うものもいました。
その後、何事もなく2年間が過ぎ去りました。
しかし、カスパールの謎をさらに深める、決定的な事件が起こりました。
1833年12月14日、午後3時ごろ、またもや何者かに左胸を刃物で刺されたのでした。
警察がカスパールに尋問した結果、男が彼に財布を渡すふりをして、隠し持っていたナイフで突然刺したということが分かりました。
そして、カスパールが刺された公園から、それらしい財布が見つかりました。そして、中には紙切れが入っていました。
「ハウザーは俺がだれかも、どこから来たかも言えるはずだ。だが、手間を省くため、俺が代わりに言ってやろう。
俺は来た・・・バイエルンの国境から・・・俺の名は m・l・o だ。」
奇妙にもその紙片は、左右反対の鏡文字で書かれていました。
そして、事件から3日後の17日午後10時、ついにカスパールは、謎に満ちた短い生涯を閉じました。まだ21歳という若さで。
その後、カスパールの出生の謎を探る本が、次々と出版されました。
そして、彼の生前を知るフォイエルバッハ控訴院長は、彼が身分の高い貴族の落とし子だという説を高々に唱えました。
そして、その推理とぴったりあう国が、同じドイツ国内から浮かび上がったのでした。
バイエルン王国と一国を挟んで隣り合うバーデン大公国でした。
バーデン大公カール・フリードリヒには3人の王子がいましたが、王妃カロリーネが死んだため。
その4年後に17歳の少女ルイーゼ・ガイヤーと結婚し、そして、4人の子を産みました。
しかし、実はこの4人の子の父親は、前大公妃の第三王子ルートヴィヒだろうと噂されていました。
そのせいか、19世紀初めから、大公家には不審な死が頻繁に起こり始めました。
1801年、第一王子が旅先で事故死して、第一王子の子カールが筆頭継承者となり、1811年に老大公が死ぬと、大公に即位しました。
翌年、この新大公に第一王子が生まれましたが、王子は17日目にベッドのなかで冷たくなっていました。
1816年に産まれた第二王子も翌年に死に、カール大公自身も1818年に32歳の若さでこの世を去りました。
前年には、老大公の第二王子も死んでおり、この王子には子がないため、大公位は自動的に第三王子のルートヴィヒのものとなりました。
しかし、1830年にはルートヴィヒ大公も急死し、ついに、ルイーゼの長男レオポルトがバーデン大公位についたのでした。
で、問題なのが、1812年に生後17日目で死んだという、カール大公の第一王子であります。
というのも、実は、カスパールが産まれたのもこの年なのです。
そこで、次のような推測が成り立ったのです。大公位乗っ取りを企むルイーゼの一味は、王子を誘拐してほかの赤ん坊の死体とすりかえたのではないか?。
事実、この赤ん坊が死んだ際、赤ん坊の顔を誰よりもよく知る、
母親のステファニーと乳母ヨゼファの二人とも死に顔を拝ませては貰えませんでした。
そして、63年後に公開された診察・解剖記録も全く不審なもので、どうみても、他人の赤ん坊のようでした。
そして、奇妙な事実が明らかになりました。
この第一王子の産まれる3日前に、バーデン大公国の首都カールスルーエのブロッホマン家に1人の子が生まれました。
赤ん坊は、ヨーハン・ヤーコブ・エルンストと名づけられ、洗礼日の10月4日に、洗礼名簿に出生登録されていました。
しかし、産まれたから120年たっているにもかかわらず、死亡年時が記録されていませんでした。
しかも、ヨーハン・エルンストの父クリストフは、あのルイーゼ・ガイヤーの経営する織物工場で働いていたのです。
さらに、彼は第一王子の死から6年後に、突然ただの工員から宮廷勤めに大出世しているのでした。
以上の事から、この赤ん坊がカスパールの替え玉ではないかという推定が成り立つのです。
それから百年後の1907年、ニュルンベルクの南東40kにあるバイエルンのピルザッハ城から、カスパールの記憶の中の『穴』らしきものが発見されました。
そこには、白木の木馬もあったといいます。
しかし、これらはすべて仮設であり、事実は未だに謎とされています。
1828年5月26日夕刻、一人の少年がバイエルン王国のニュルンベルク市に現れました。
彼は、「ニュルンベルク第六騎兵隊、第四隊、フォン・ヴィスニヒ大尉殿」と書かれた、二通の手紙だけを持っており、第一の手紙には、
「私はしがない日雇い労働者です。1812年に母親から預かって以来、この子を我が子のように育ててきました。しかし、この子が、将来は父親のような騎兵になりたいというので。そちらに差し向けます。・・・略・・・」
そして、もう一通の手紙には、女中がこの労働者に宛てたものらしいもので、
「このこは、カスパールといい、騎兵だった父親を継ぎたがっています。十六になったら、どうかニュルンベルクに連れて行ってやってください。」
これを読んだヴィスニヒ大尉は、カスパールの寝ている厩に行き、少年をたたき起こしていろいろ問いただしましたが、帰って来る言葉は、「ボク、キヘイ、ナリタイ」「シラナイ」「ウマ」の三語だけでした。
苛立った大尉は、少年を警察へ連れて行かせました。
少年は、そこでも、例の言葉を繰り返すだけでした。
彼は、そのまま、監獄であるルーギンスラント塔に入れられました。
カスパールはとにかく奇妙な少年でした。歩き方は、生後まもない幼児のようなよちよち歩き。
足の裏は地面につけたことがないようにすべすべしている。夜は背をまっすぐにして、座して眠る。
また、16歳にしては異常とも思えるほど無知で、何もかも生まれて初めて見るものばかりのようで、たとえば、ロウソクの炎を指でつまもうとしたり、鏡に映る自分の姿を不思議がって、鏡の後ろにまわってみたりする。
しかも、彼は異常な能力を持っており、例えば、いつどこにいても、北と南を即座に指差すことが出来る。
タバコのにおいは、100歩以上先から嗅ぎ分けられる。真っ暗な中でも、ものをはっきり見分けることが出来る・・・。
また、例の二通の手紙も、改めて調べると、不審な点が多すぎるのでした。文体は変えてあるが、同じ人物が書いたことは明らかでした。
そして、カスパールがだんだん言葉を覚えると、彼は自分のことを話し始めました。
これをもとに、ニュルンベルクのビンダー市長が発表した公式報告は。
「少年はこれまで、彼が『穴』と呼ぶ、日も射さない狭い一室に閉じ込められていた。 ・・・中略・・・彼は牢獄内で、2頭の白い木馬と遊んだ。ところがある夜、突然男から外に連れ出され、歩き方と自分の名前の書き方を教えられた。 男は彼をニュルンベルクまで連れてくると、後は一人で行くように命じてどこかに消えてしまった・・・」
この「野生児現る」のニュースは、またたくまに広がり、人々はその謎解きゲームに熱中しました。
少年についての情報には懸賞金が与えられるというビラが何千枚もくばられ、
少年がいる塔には朝から晩まで物見客が詰め掛け、質問攻めにされました。
彼はついにノイローゼになってしまい、王国政府は彼をダウマー教授の家に預けることにしました。
少年はそこで順調に回復し、数ヶ月で、読み書きや計算は言うに及ばず、やさしいピアノ曲を弾き、馬も乗りこなすようになりました。
少年が短期間でここまで進歩したということは、彼は幼いころすでに乗馬や語学を習ったことがあるのではないか?という憶測を呼びました。
そして、どこか気品がある顔立ちから、もしかしたら高貴な家柄の落とし子ではないかという噂も流れ始めました。
そして、カスパール出現の翌1829年の秋、彼の身に奇妙な事件が起こりました。
地下室で額から血を流して倒れているところを発見されたのです。
なんと、黒い覆面をした男に、いきなり刃物で切りつけられたのでした。
人々の事件への反応はさまざまでした。
カスパールを監禁していた男が、秘密がばれるのを恐れて殺そうとしたのだと言うものもいれば、カスパール自身が人気取りのために仕組んだ狂言だと言うものもいました。
その後、何事もなく2年間が過ぎ去りました。
しかし、カスパールの謎をさらに深める、決定的な事件が起こりました。
1833年12月14日、午後3時ごろ、またもや何者かに左胸を刃物で刺されたのでした。
警察がカスパールに尋問した結果、男が彼に財布を渡すふりをして、隠し持っていたナイフで突然刺したということが分かりました。
そして、カスパールが刺された公園から、それらしい財布が見つかりました。そして、中には紙切れが入っていました。
「ハウザーは俺がだれかも、どこから来たかも言えるはずだ。だが、手間を省くため、俺が代わりに言ってやろう。
俺は来た・・・バイエルンの国境から・・・俺の名は m・l・o だ。」
奇妙にもその紙片は、左右反対の鏡文字で書かれていました。
そして、事件から3日後の17日午後10時、ついにカスパールは、謎に満ちた短い生涯を閉じました。まだ21歳という若さで。
その後、カスパールの出生の謎を探る本が、次々と出版されました。
そして、彼の生前を知るフォイエルバッハ控訴院長は、彼が身分の高い貴族の落とし子だという説を高々に唱えました。
そして、その推理とぴったりあう国が、同じドイツ国内から浮かび上がったのでした。
バイエルン王国と一国を挟んで隣り合うバーデン大公国でした。
バーデン大公カール・フリードリヒには3人の王子がいましたが、王妃カロリーネが死んだため。
その4年後に17歳の少女ルイーゼ・ガイヤーと結婚し、そして、4人の子を産みました。
しかし、実はこの4人の子の父親は、前大公妃の第三王子ルートヴィヒだろうと噂されていました。
そのせいか、19世紀初めから、大公家には不審な死が頻繁に起こり始めました。
1801年、第一王子が旅先で事故死して、第一王子の子カールが筆頭継承者となり、1811年に老大公が死ぬと、大公に即位しました。
翌年、この新大公に第一王子が生まれましたが、王子は17日目にベッドのなかで冷たくなっていました。
1816年に産まれた第二王子も翌年に死に、カール大公自身も1818年に32歳の若さでこの世を去りました。
前年には、老大公の第二王子も死んでおり、この王子には子がないため、大公位は自動的に第三王子のルートヴィヒのものとなりました。
しかし、1830年にはルートヴィヒ大公も急死し、ついに、ルイーゼの長男レオポルトがバーデン大公位についたのでした。
で、問題なのが、1812年に生後17日目で死んだという、カール大公の第一王子であります。
というのも、実は、カスパールが産まれたのもこの年なのです。
そこで、次のような推測が成り立ったのです。大公位乗っ取りを企むルイーゼの一味は、王子を誘拐してほかの赤ん坊の死体とすりかえたのではないか?。
事実、この赤ん坊が死んだ際、赤ん坊の顔を誰よりもよく知る、
母親のステファニーと乳母ヨゼファの二人とも死に顔を拝ませては貰えませんでした。
そして、63年後に公開された診察・解剖記録も全く不審なもので、どうみても、他人の赤ん坊のようでした。
そして、奇妙な事実が明らかになりました。
この第一王子の産まれる3日前に、バーデン大公国の首都カールスルーエのブロッホマン家に1人の子が生まれました。
赤ん坊は、ヨーハン・ヤーコブ・エルンストと名づけられ、洗礼日の10月4日に、洗礼名簿に出生登録されていました。
しかし、産まれたから120年たっているにもかかわらず、死亡年時が記録されていませんでした。
しかも、ヨーハン・エルンストの父クリストフは、あのルイーゼ・ガイヤーの経営する織物工場で働いていたのです。
さらに、彼は第一王子の死から6年後に、突然ただの工員から宮廷勤めに大出世しているのでした。
以上の事から、この赤ん坊がカスパールの替え玉ではないかという推定が成り立つのです。
それから百年後の1907年、ニュルンベルクの南東40kにあるバイエルンのピルザッハ城から、カスパールの記憶の中の『穴』らしきものが発見されました。
そこには、白木の木馬もあったといいます。
しかし、これらはすべて仮設であり、事実は未だに謎とされています。