則天武后
武氏(のちの武后)は最初、唐の二代皇帝太宗の妾のひとりでした。
太宗の死とともに尼となり、習慣通り尼寺へ入ったのですが、実はその前から、ひそかに太宗の息子の高宗と通じていたのでした。
649年、帝位についた高宗は、尼寺で武氏が彼の種を宿したことを知ると、強引に彼女を側室の一人に加えてしまいました。
これには皇后の援助の手もはたらいていました。
というのも、皇后には息子がなく、皇帝の寵が妃の蕭氏に移りかけていたので、蕭氏に対して共同戦線を張りたいと考えていたからでした。
そういう次第で、最初は皇后王氏と武氏とのあいだは、きわめて親密でした。

やがて武氏は女児を産みました。そしてこの機を利用して、皇后王氏を失脚させてやろうと彼女はたくらんだのでした。
女児が産まれて10日ほどすると、子供にめぐまれない皇后が見にやってきました。
皇后は赤ん坊を抱いて、しばらくあやし、それから揺藍にもどしました。
皇后が立ち去ると、入れ替りにこっそり武氏が部屋にやってきて、赤ん坊を窒息させて殺し、その上に蒲団をかけておきました。
皇帝が発見して大いに驚き、武氏も声をあげて泣きわめきました。
結局、嬰児殺しの罪ほ皇后にかぶせられました。

皇后のために張られた罠は、そればかりではありませんでした。
皇后が妖術を用いて帝の生命を絶とうと企んでいる、という噂が流されました。
むろん、これは武后の策謀でした。
先帝時代以来の忠臣であった遂良や無忌などが、必死になって事態を収拾しようと努力したにもかかわらず、
ついに皇后王氏は、宮中に監禁されてしまいました。
かわって武氏が皇后の座についたのでした。
廃后王氏はその後、蕭氏とともに、百回の鞭打を受けました。
それから武氏の命により、2人の女は手足を切断され、腕と脚を背の方にねじ曲げられて、大きな酒樽の中にどっぷり漬けられました。
「あの下司女どもを、骨の髄までとろけるくらい酔っぱらわせてやるがよい」
と武氏はいいました。2日ほどして、2人の女は死んだといいます。

武后の妖妬ぶかさには並みはずれており、皇帝の気に入りの女性は、いつも何か毒物を食べさせられて原因不明の死をとげたのでした。
武后の姉の韓国夫人は、ある日、食事の席で奇怪な痙攣を起して死にました。
またその娘の魏国夫人も、やはり母と同じ症状を示して、あえなく死んでいきました。
高宗には、武后以外の女に産ませた息子が四人いました。
その4人の異母子たちのうち、3人までが叛逆罪や収賄罪の汚名を着せられて、次々に死刑を宣言されました。
皇太子であった武后自身の2人の実子も、毒殺されたり死刑にされたりしました。
集計すると、異母子もふくめて武氏の八人の息子のうち、一人は夭折しましたが、じつに5人までが母親によって殺されているのです。
残る2人も12年以上監禁されました。そのほか、例の窒息死させられた幼児がいることは前述の通りです。
皇子哲の妻(つまり武后の嫁)も、理由なく武后の憎悪の的になり、宮中に監禁されて死にました。
何日か経って扉が押し破られてみると、彼女は餓死していたのでした。
そのほか3人の嫁が、それぞれ屈辱死、密殺などの手段によって生命を絶たれ、二人の異母兄が死刑に処せられて死んでいます。
また2人の甥が謀殺され、二人の孫が笞刑によって殺害され、甥孫、甥の妻、伯母もそれぞれ殺されています。
ごく大ざっぱに、武后はその在位期間30年の間に、太宗、高宗の兄弟一族70余人、宰相、大臣級の高官36人を皆殺しにしてしまったのです。

ところで、高宗は、次第に健康を害し、ひどい神経痛や痺れや息切れに悩まされるようになりました。
皇帝の健康が憂慮されてくると、武后はかわって政務を行い、674年、年号を上元と改元し、みずから「天后」と名乗りました。
高宗が長い病いの末に死んだのは683年、55歳のときでした。

帝の死とともに、20歳になる太子哲(武后の実子)が即位しましたが、彼はたった54日間で、ただちにその位を追われることになりました。
皇太后の武后が口実をもうけて彼を廃位し、幽閉してしまったのでした。武后が息子を廃したのは、これで四度目です。
人々は当然、末子の旦が帝位を継ぐものと思っていましたが、彼もまた捕えられて宮中に監禁され、帝位はいつまでも空いたままでした。
かくて武后は単独の支配者となり、やがてみずから皇帝を称するにいたるまで、大わらわで唐朝の一族を滅ぼしにかかりました。
684年に始まるこの時代は、ふつう則天武后の治世と呼ばれることになっています。
それは怖るべき粛清政治と密告制度に基礎を置いた、恐怖の時代、暗黒の時代でありました。
機を見るに敏な武后が、矢つぎばやに粛清の鉄槌をふり下ろすので、世間は息つく暇もないほどでありました。

688年には、みずから「聖母神皇」と称するようになりました。
690年9月、数百羽の赤い雀が明堂の屋根でさえずったとか、鳳凰が宮廷の西の苑に飛んできたとか、さまざまな瑞兆を告げる噂が流されました。
9月9日、ついに布告が発せられた。今後唐朝は廃せられて、新しい国は「周」と呼ばれることになりました。年号は「天授」と改められました。
9月12日、武后は「聖神皇帝」という称号を名のることになりました。「聖母神皇」からさらに一段昇格したわけです。
名実ともに、史上最初の女独裁者となたんでした。

晩年の武后については、歴史家の意見もいろいろに分れています。
とにかく最後の十年間、彼女が殺数をふっつりとやめ、正しい人物を重く登用して、国家をゆるぎなく統治したのは事実です。
彼女が偽造させて国中に流布させたという大雲経にしても、一部の学者の意見によれば、
たしかに原典のあるものであって、決してでたらめに作り上げられた偽書ではないといいます。
彼女の仏教に対する帰依にも、あながち政策上のものだけとはいえない面があって、
仏教を基礎とした一大帝国を建設しようという真面目な気持があったのではないか、とも思われています。
いずれにせよ、70歳をすぎた武后の心には、なすべきことをすべて実現した者の満ち足りた感情が、徐々に芽生えかけていたようです。
朝政は信頼できる有能な人物にまかせて、わが世の晩年の春を心ゆくまで楽しもう、という気持だったのかもしれません。

死の1年前、704年ごろから、武后は病床につくことが多くなりました。
二人の若い愛人・張兄弟につき添われて、自室にひきこもったままのこともありました。
すでに82歳でした。
張兄弟はいたるところで憎悪の的になり、ようやく唐王室復興の機運が熟し、武力革命が起ったのは705年1月でした。
張兄弟は革命軍の兵士に首を斬られて死にました。
無力になった老齢の独裁者は、首都の西方の離宮に移され、そこで監禁される身となり、そして11月、孤独のうちに世を去りました。
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