日道上人 三師御伝土代
御伝土代とは日蓮門下最初の史伝書です。日蓮大聖人のお誕生日二月十六日というのは、他門徒も全て、御伝土代の記述より、採用しており、他門徒も異論はないところです。 三師御伝土代 「日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は即安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。 八十六代後の堀川の院の御宇、貞応元年二月十六日誕生なり。 八十七代四条天王・天福元年(みつのとのみのとし)、御年十二の春同国清澄寺へ御登山道善房の弟子なり。 八十八代一院の御宇・建長五年(みつのとうし)三月二十八日・清澄寺道善房持仏堂の南面にて浄円房並に大衆当少々会合なして念仏無間地獄 南無妙法蓮華経と唱ひ始給ひ畢ヌ、然る間其日清澄寺を擯出せられ給ヒ畢、地頭東条左衛門景信大勢を卒して東条の松原に、待ち伏し奉つる、散々に射奉つる御身には左衛門太刀を抜切奉まつる御笠を切破ッて御頭に疵を被る、愈ての後も、疵の口四寸あり右の御額なり(文応元年きのへねとし十一月十一日さるときなり。) 而して、後鎌倉ゑ上り最明寺の入道殿に向つて 云く念仏真言禅律等の当世御帰依の仏法は今生に災難多し国を失い後生には無間地獄に堕べき由を度々諫められ畢んぬ正嘉元年八月二十三日戌亥の刻の大地震に諸経の文を勘へ一巻の論を註し立正安国論と名づく。 当今ノ御宇文応元年庚申、宿屋入道を使ひとして最明寺入道殿に奉る、然りと雖も、承引なきところに勘文の如く文永七年(つちのへたつ)閏正月十八日、大蒙古国より日本を攻べき牒状是あり。 御書に云ク文永五年後ノ正月十八日、西戎蒙古国より攻むべし日本国に蝶を渡す、日蓮去る文応元年太歳(庚申)勘がうる如く立正安国論に少しも違わず符合しぬ、此書は白楽天の楽府にも越エ仏の未来記にも劣らず末代の不思議何事か之に如かん。 文応元年七月十六日立正安国進覧の後弥々謗法の法師等怨嫉を成し讒奏讒言の間次の年弘長元年(かのとのとり)五月十二日御齢四十にして伊豆の国伊東の配流、其国の念仏等讎をなし毒害を思ひ、毒の菌を持来つて聖人に奉る、上人此を服して敢ゑて失なし、安楽行品ニ云ク毒不能害トこれを思ふべし、伊東の浦より海上より白髪の翁来リて聖人に向ひ奉り御赦免は今年にて候べしと云云。 弘長三年(みずのとのい)二月二十二日赦免畢ンヌ。 同年十一月廿三日亥の刻最明寺禅門死去。 建長五年此ノ法門出で来る以後同七年(きのとう)十月十一日、二日両日の戌の時大地震動、同八年秋八月九月十月十一月十二月京鎌倉併しながら、いなすりと云ふ病気に人死ル事数を知らず、同八年十月五日康元と改む元年は丙辰なり。 康元二年三月廿六日正嘉と改む。 正嘉元年丁み八月二十三日戌亥の刻大地震動一時なり、大飢饉日本国中人民皆死ス、先代在らざる地震なり。 正嘉三年三月廿三日正元と改む。 正元二年(かのへさる)四月十日文応と改む。 文応元年(かのえさる)七月十六日立正安国論進覧。 文応二年(かのとのとり)二月廿日弘長と改む。 弘長元年(かのとのとり)五月十二日聖人伊豆の国伊東配流。 同三年(みずのとい)二月二十二日御赦免。 弘長四年(きのへね)二月廿八日文永と改元。 文永元年七月四日大長星前代未聞一天に弥り満つ。 同五年(つちのえたつ)蒙古の牒状あり。聖人御申状ニ云ク。去ル正嘉元年(ひのとのみ)八月廿三日の戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之れを勘がうるに念仏集と禅宗とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を成して起す所の災なり、若し此を退治無くば他国のために此の国を破らるべき由勘文一通之を撰し正元二年(かのへさる)七月十六日御辺に付け奉り(宿屋入道)故最明寺殿に之を進覧す、其ノ後九ヶ年を経て今年大蒙古ノ国ノ牒状之レ有る由風聞ス等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責むべき事必定ナリ而ルニ日蓮一人彼ノ西戎ヲ調伏すべき仁に当る云云。 同七年(かのへむま)八月廿八日大風大火、廿九日夜又大雨、廿八日未の時地震、二十九日、又地震、閏九月十六日七度す、総八月廿八日より始て十月地震、閏九月は鎌倉の人々は長時に身を動スなりけり。 同ク八年(かのと未)聖人重て申状を上て云ク念仏真言禅律等の寺塔を焼失ひ彼の僧等が頚を切て由比の浜に懸ずは異国の責弥々強盛なるゴジべし云云。 極楽寺良観房行敏を代官として聖人を訴へ奉る。 状ニ云ク日蓮が造意の如きに至ては上古更に比類無く末代争て等輩有らん等云云。 之に依て文永八年(かのとのひつじ)九月十二日御申状有り。 承引なく竜の口にて切られ奉らんとす、江島より光物出来たり御所中様々恠あり、之に依つて切れず、其ノ夜相模の国依智と云ふ所に入らせ給ヒて軈て佐渡の国ヘ御配流畢ンヌ。日蓮聖人仰ニ云ク、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはば日本国の柱を倒すなり、百日の中ニ自界叛逆難起べし云云。御語に違はず文永九年(みずのへさる)二月十一日相模三郎殿乱を起し関東より討手を上せて謀叛人を禁めらる、三河愛知殿名越殿其外、人人数多禁らる。 同十五日京都合戦、六波羅南殿を北殿討奉まつる、式部殿も用意の合戦なれば北殿うちしらまされ給フ、南殿は落ちて吉野十津河の奥に御在しますと云云。 妙経勧持品ニ云ク悪口罵詈等シ刀杖を加ふ。 又云ク悪世中ノ比丘ハ邪智ニテ心諂曲二又云ク数数擯出せられん云云。 日蓮聖人三類の敵を受け一乗の法を弘め経文符合畢ぬ。 御書ニ云ク、仏滅後二千二百二十余年の間・迦葉阿難等馬鳴竜樹等南岳天台妙楽伝教だにも未だ弘め給ざる法華経の肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の初に一閻浮提に弘らせ給フ日蓮先知りたり、和党ども二陣三陣続いてq葉竜樹にも勝れ天台伝教にも越よかし。 文永八年(太歳かのとひつじ)九月十二日、御勘気を蒙る、平の左衛門の郎従少輔殿と申ス走り寄て日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して面を三度さいなみ散々と打ち散らし、又九の巻の法華経も兵者打ち散らして、或は足に踏ミ或は纏ヒ或は板敷き畳二三間に散らさぬ所もなし、大音声を以て只今日本国の柱倒るる云云。 十二日の夜武蔵殿の御領にて頚を切らん為に鎌倉を出ず、中務三郎左衛門尉と申ス物かたゑ熊王と申ス童子を遣はしたりしが急ぎ出ぬ、今夜頚切へ罷るなり、此の数年が間願つる事是なり、此ノ娑婆世界にして雉と成る時は鷹に掴まれ、鼠と成る時は猫に殺され或は妻子の敵に身を失う事大地微塵恆よりも多く、法華経の御為には一度も失う事無し、去れば日蓮貧道の身と生レて父母の孝養の心足らず国の恩報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に廻向せん、其の余りを弟子檀那等に省く可しと申セし是なりと申セしかば左衛門の尉兄弟四人・馬の口に取付いて腰越竜の口に行ぬ、爰にてぞあらんずらんと思ふ処に案の如く兵物ども打りしかば、左衛門尉只今なりと泣しかば、日蓮申ス様不覚の殿かな・是程の悦をば咲ヘかし、如何に約束をば違へるぞと申せし時、江島の方より月の如く光たる物鞠の様にて辰己の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日の夜の明闇人の面も見エざらしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁計り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏まり、或は馬の上にて蹲まる物もあり。 相模の依智とゆふ所へ入らせ給へと申ス、馬に任せて行く午の時計りに依智と申スに行キ付キぬ、本間の六郎左衛門の家に入る、九月十三夜なれば大に晴てありしに、大庭に出て月ニ向ヒ奉リて自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣法華経の文あらあら申シて、抑も今の月天は法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅を受け付属品にして、仏に頂きを摩られまいらせて如世尊敕当具奉行と誓状を立し人ぞかし、仏前の誓ひは日蓮なくば虚しくてこそおわすべけれ、今斯る事出で来たれば急ぎ悦ヒをなして法華経の行者にも代わり仏勅をも遂げさせ給ハん、いかにいまに験しのなきは不思議に候ものかな、いかなる事も国に無くしては鎌倉へも帰るとも思わず、験こそなくとも嬉顔に澄渡らせ給フはいかに、大集経には日月も明を現ぜずと説れ、仁王経には日月度を失ひと説れ、最勝王経には三十三天各生瞋恨とこそ見へたるに、いかに月天月天と責しかば其験しにや天より明静の如くなる星落て前の梅の木の枝にあたりしかば、武士ども皆?より下りて或ひは大庭に平臥し或は家の後に逃ぬ、やがて即天かき曇り大風吹きて江島の鳴とて空響事大なる鼓を打が如し。 佐渡の島に放され北国の雪の下に埋まれ、北山の嶽の山おろしに命も扶すくべしとも覚へず、年来の同朋にも捨てられ故郷へ帰る事は大海の底の千引の石の思にして流石に凡夫なれば古の人々も恋しく、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及び留難重畳せり、仏法中怨の誡責我早々免る、然れば今山林に路を入る々事を進みおもひしに、人人語る様々なりしかども、存スる旨あるによりて当国当山に入リて已に七年の春ををくる。 報恩抄ニ云ク、文永八年佐渡国ヘ行ク、同ク十一念(きのへいぬ)二月十四日に赦されて同ク三月廿六日鎌倉ゑ入ル、同四月八日平の金吾に見参、今蒙古一定寄べしト申シぬ。 同五月十二日鎌倉を出で此の山に入ル是偏へに父母の恩三宝の怨国恩を報ぜんが為に身を破り命を捨ツとも破れずさでこそ候へ。 文永十一年きのへいぬ十月蒙古国寄す。 同十二年きのとい正月下旬蒙古国人鎌倉へ下ル後又五人下ル。 同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頚斬れ畢んぬ。 建治元年きのとい六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。 弘安元年つちのへとら建治四年二月二十九日改元。 弘安五年みつのへうま十月十三日辰の時聖人御遷化、此ノ時に大地震動す、此ノ時鎌倉万民一同に日蓮の御房他界と云云、ふしぎふしぎ、一閻浮提之内、仏の御言を扶けたる人唯日蓮一人也。 撰時抄下ニ云ク外典ニ云ク未萌ヲ知ルヲ是ヲ聖人と云う内典に云く三世を知るを聖人と云う予に三どの高名あり、一には去ル文応元年太歳かのえさる七月十六日立正安国論を故最明寺入道につげ奉リて、宿屋入道に向テ云ク、禅宗念仏宗をうしなひ給フべしと申させ給へ、この事を御用ひなきならばこの一門より事起こつて他国に責められさせ給フべしこれ一。 二には去ル文永八年九月十二日さるとき左衛門尉ニ向テ云ク、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはゞ日本国の柱を倒すなり。 只今自界叛逆難とて同士打して他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるゝのみならず、多くは生取にせらるゝべし、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺等の念仏者禅宗等が寺塔を急ぎ焼払つて彼等が頚を由比の浜にて悉く切べし、然ラずは日本国は必ズ亡ぶべきなりと申シけり。 第三に文永十一年四月八日平ノ左衛門の尉に語りて云ク、王地に、うまれなば身は従ひ奉まつるべからず、念仏の無間地獄禅の天まの所為なる事は疑がひなし、ことに真言宗がこの国の大なる禍いにて候なり、大蒙古国を調伏せん事真言師等に仰せ付べからず、若仰付らば急いで此国亡ぶべしと申せしかば、頼綱問テ云ク何つの頃一定寄候べきや、予が語経文にはいづれの日とは見ゑ候はねども天の御気色怒り少なからず急に見ゑて候、今年は過し候はじと語申シたりき、此ノ三の大事は日蓮が申シたるにはあらず、只偏へに釈迦如来の御使い我カ身に入リかわらせ給ヒけるこそ、わが身ながら悦ヒ身にあまれり、法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり、経ニ云ク所謂諸法如是相と申スは何事ぞ、十如是のはじめの如是相ガ第一の大事にて候へば仏は世にいで給フ、智人起りを知る蛇は自から蛇を知るとはこれなり。 日興上人御伝草案 日興上人は八十八代一院ノ御宇、寛元四ひのへうま御誕生、俗姓は紀師、甲州大井ノ庄の人なり、幼少にして駿州四十九院寺ニ上リ修学あり、同国富士山ノ麓須津の庄良覚美作阿闍梨に謁して外典の奥義を極め、須津の庄の地頭冷泉中将に謁して歌道を極はめ給フ。 文永八年かのとひつじ九月十二日大聖人御勘気の時佐渡の嶋へ御供あり御年二十六歳なり、御名ハ伯耆房、配所四ヶ年給仕あつて同十一年きのへいぬ二月十四日赦免有ツて三月十六日鎌倉え聖人御供して入リ給フ、同五月十二日に聖人鎌倉を御出あり、聖人仰せに云フ国を三度諫めつ用いずば山中に入ル事聖賢の法なりとて、日興上人の御檀那たる甲州ノ飯野、御牧、波木井郷身延山え入リ給フ、(南部六郎入道)聖人波木井に御座あり其ノ間常随給仕あり。 日興上人の御弟子駿河国富士の郡リ熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門の庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平ノ左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢ぬ、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給フ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるはなし、又上人号なし、是レ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給フ。 斯て日興上人は大聖御遷化の後身延山にて弘法を致し公家関東の奏聞をなして三カ年が間身延山に御住あり、而テ大聖御滅後六人ノ上足奏状を捧ゲ給フに五人は天台の沙門ト云云、興上は日蓮聖人弟子某ト申状書キ畢ヌ、これに依つて五人は一同して、興上一人正義を立つ、鬱憤して不和の間 、波木井殿も五人の方に心寄せなるによつて、興上は身延山出テ給ヒて南条次郎左衛門時光が領駿州富士上野の郷ニ越エ給フ、大聖人より時光が給はる御書に云ク賢人殿ト云云、これに依りて此地を占メ寺を立て給フ。 日朗上人御申状ニ云ク天台ノ沙門日朗謹テ言上、法華の道場を構え長日の勤行を致す云云。富山仰ニ云ク、大聖は法光寺禅門、西ノ御門の東郷入道屋形の跡に坊作ツて帰依せんとの給フ、諸宗の首を切り諸堂を焼キ払へ、念仏者等と相祈リせんとて山中え入リ給フぞかし、長日勤行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化天地雲泥ノ相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながらま誤つて天台沙門というや。 日昭上人御申状ニ云ク、天台ノ沙門日昭謹テ言ス、天台の余流を酌み、地慮の研鑽を尽くす兵戈永息の為副将安全の為法華の道場を構え長日の勤行を致す等云云。 富山ノ所破前ノ如し 日興日頂一紙ノ申状ニ云ク、天台ノ沙門日向日頂等謹テ言ス、桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を酌む、祖師伝教大師叡山に登り法華宗を弘通する時、権門の邪見に於て取り砕くが如し、自余の正義に至つては泉の如く涌ク以来日本一州ノ山寺叡山ノ末寺タル条世以テ隠れなし人亦これを知る、而ルニ近年諸宗賞せらると雖此宗一宗?没スト云云。 富山云ク、此ノ申状は三千人カ申状也全ク当宗にはあらず、所以ハ者何ゾ叡山廃れたるを興せんと云云。 日時蓮華阿闍梨ハ本ト興上の弟子六人に入らる、然りと雖も師匠の興上ニ背き鎌倉方に同す所立さきのごとし。 日興上人御申状ニ云ク、日蓮聖人ノ弟子日興謹テ言ス、爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立て云云、天台伝教の像法所弘ノ法華は迹門也、日蓮聖人弘通ノ法華ハ本門也云云。 大聖人滅後。は五十二年の間公家関東奏聞あッて九十七代の御門、持明院帝ノ御宇、正慶二年二月七日夜半ニ御入滅、臨寿の御説法平常より勝れ遺言ノ御歌二首あり。 ついに我住むべきの野辺の方見れば、かねて露けき草枕かな。 総づをば棄て入ルにも山の端に、月と花との残りけるかな。 日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之レを記す。 一、大聖人ノ御書ハ和字たるべき事 一、鎌倉五人ノ天台沙門ハ謂レなき事 一、一部五種ノ行ハ時過たる事 一、一躰仏ノ事 一、天目房ノ方便品読ム可からずと立ルハ大謗法ノ事 倩ラ天目一途の邪義を案ずるに専ら地涌千界の正法に背く者なり。 右以条々鎌倉方五人并ニ天目等之誤多しと雖ども先十七ヶ条を以てこれを難破す、十七の仲に此ノ五の条等第一ノ大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云。 一、日朗上人去ル正中の頃富士山ニ入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし貴とむべし。 又日頂上人ノ舎弟寂仙房日澄鎌倉五人中の燈と思て眼目と仰ぐところに日興上人に帰依申シて富士に居住す、檀那弟子等皆富士ヘ、まいり給フ、下山三位房日順秋山与一入道大妙これらなり。 一、天台沙門ト仰せらる申状ハ大謗法ノ事 地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗ハ者智禅師の所立迹門行者ノ所判なり、既ニ上行菩薩の血脈を?す、争カ下方大士ノ相承と云はん、本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり、迹門の教主を尋れば大通以来三千塵点始成の迹仏なり、教ハ是レ法華経の前十四品迹門也、弘通の時を云へば像法の御使いなり、付嘱を云へば四巻法師品にして迹門の付嘱を稟ケ給フ、因薬王菩薩告八万大士乃至薬王在々処々ト云云、勧持品にして本門弘経を申シ給フと云へども、涌出品にして止善男子と止められ給ふ、上行菩薩をめしいだされ候、その機を論ずれば此ノ菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。 日蓮聖人云ク本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子なり。 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧祇劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍成数の本仏なり。 法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり何ぞ日蓮聖人の弟子となつて拙くも天台の沙門と号せんや。文句ニ云ク迹門ハ二乗鈍恨の菩薩を以て怨嫉となし本門ハ菩薩の中ノ近成を楽う者を以て怨嫉とす、御書ニ云ク本迹ノ教主を論すれば猿と帝釈とのごとし、迹は池中の月本は天月なり、其機を論スれば畜生に同し、又云ク逆臣が旗をば官兵指スことなし、干食の祭には火を禁ずるぞかし、小善還ッて大悪トなり親の讎還ッて怨敵となる、薬変じて毒となる云云。 しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は、天台と云フ寺字を禁ずべきものなり、本門迹門ノ付嘱すでに異なり、下方他方弘通何ゾを同ジカランや、すでに、号する全く地涌千界の眷属にあらず。 一、大聖御書を和字たるべき事。 右天竺には梵字を以て音信を通ず、震旦には漢字を以て語を伝う、日本には和名を以て心緒を述ぶ、此レ則天然法爾の世界悉檀の風俗也、然に大聖人出世の本懐を記し給フに和名を以て之を注す処に、門徒の中に滅後に及び或は漢字に改め或いは和名をせうす、頗ル以テ愚暗の甚キなり、所以は何となれば悉檀赴機の化儀利益衆生の方便無学の俗女、愚痴下劣の者之を知るべからず、是を読むべからず、和名に於ては賢愚倶知の上下同じくこれを読む、下機を本とす上行菩薩の御本懐は由緒あるかな。 難ジテ云ク伝教大師は日本人なり何ぞ真名を用る云云、答フ云ク天台は漢土の人なり、かの余流を酌むに依つて日本なりと雖も漢字を用う、日向日頂等は御書を真名に改め給ヒ天台沙門と名乗り給フゆへなりこれを思うべし云云。 一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法ノ事 小乗釈迦ハ舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門ノ釈迦ハ普賢文殊を脇士となす、法華本門ノ釈迦ハ上行等ノ四菩薩ヲ脇士となす云云、一躰ノ小釈迦をば三蔵を修する釈迦と申スなり、御書ニ云ク劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同シきなり、一体の仏を崇る事旁々をもつて謂はれなき事なり誤りが中の誤まりなり。 仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ゾ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。 本尊問答抄ニ云ク。 一、一部八巻ノ如法経ハ末法に入つて謗法となるべき事。 神力品ニ云ク上行菩薩の御言ニ我等亦是の真淨の大法を得て受持読誦解説書写シテこれを供養せん云云、又云ク要を以て之を言えば、如来ノ一切ノ所有ノ法、如来一切ノ自在ノ神力、如来ノ一切ノ秘要ノ蔵、如来一切ノ甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説ス是ノ故ニ汝等如来滅後に於て応に一身ニ受持読誦解説書写して説の如く修行すべし文、末法には五字に限り修行すべしと見たり、取要抄ニ云ク日蓮ハ広略を捨てゝ肝要を好む所謂上行菩薩所伝ノ妙法蓮華経是レなり、肝要を取り末代に当て五字を授与す、当世異議あるべからず文。 数ヶ条御書の中一部の五種ノ行都テ見えず、たとい之ありと雖モ佐渡已前乃至未勘の時ノ事は仏も四十余年権経をとき天台も止観の前四巻には念仏ヲ唱うべき様もあり、権者大聖も初メ行儀はかくの如くなれども経文に符合し己証とし給はん御書を用ゆべきなり。 日目上人御伝土代 右上人は八十九代当今御宇文応元年(かのへさる)御誕生なり、胎内に処する一十二ヶ月上宮太子の如し、豆州に仁田郡畠郷ノ人なり、俗姓ハ藤氏、御堂関白道長廟音行、下野ノ国、下野ノ国小野寺十郎道房ノ嫡子五郎重綱ノ五男なり、母方は南条兵衛入道行増ノ孫子なり。 文永九年(みづのえさる)十三才にて走湯山円蔵坊に御登山、同十一年(きのへいぬ)日興上人に値ひ奉リ常随給仕ス、十七才なり。 弘安五年(壬午)夏ノ始大聖人甲州自り武州池上へ入御供奉して池上に参ル処に、二階堂伊勢入道ノ子息伊勢法印、山門衆徒たるが聖人と問答申ス可しとて同宿十余人若党三十余人相具してまいる大学匠なり、誰ガ問答すべきと老僧達中老俗方固唾を呑む、大聖仰ニ云ク卿公問答せよと云云、ときに日目上人廿三才すなはち御問答十重あり、第一即往安楽世界阿弥陀仏なり、十重一一に詰て帰リ畢ヌ、冨木禅門已下聖人の御前にて問答の躰上聞す、聖感あつて云クさればこそ日蓮が見知リてこそ卿公をば出シたれと云云。 永仁元、七、大仏殿の陸奥守にて探題の時十宗房と問答あり。西脇の道智房と号して云うなり、尾張進士を始として奉行す人の衆なり。十宗房云ク念仏無間とは何れの経文ぞ、目反詰シテ云ク何宗の人ぞと云云。道智暫ク案シて浄土宗浄土宗と云云、目云ク法華を抛つは何ノ経文ぞと云云。 道智云ク全ク申サず聖道門ヲ抛ツと法然は書る云云、目云ク聖道門とは何ぞ、道智云ク真言仏心天台云云、目云ク天台とは何ぞ。 道智云天台とは法華なり、目云クさては法華を抛つと云わるる云云。 道智打ち詰て語らず。 暫クありて道智云ク法然已後ノ念仏をば暫ク置イて已前を沙汰せんと云云、目暫ク置クべくば法然已前の念仏時過キたるに、万人あれ道理と称美讃嘆ス云云。其時の御教書に云ク明日御参早且為るべく候次に依つて執達件の如し。 正安元年六月晦日 忠識 判 編者曰く本山蔵日道上人正筆に依つて之を写す、二三誤字を訂正し訓点及び送リ仮名を加ふ、其他は総べて正本に従ふ、此書未完なり目師御天奏をも記せず、思ふに入文中の「元徳四年正月十三日日道記之」とあるに依るに其直後に筆を止められしが如く見ゆるも、御開山伝の下には其の御?化までも記せり、故に目師伝の大追加を思ひながら此を果さざりしか、又は追記が散失したりしか、又正本には此次に申状の案文ありて未完なり、其次に時師本山六世の筆にて「在世一代乃至于時応永十年癸予九月廿二日」の三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く。 本伝の始には仮名字書き多く却つて難解なれば重版に当りて本文仮名に傍訓したる漢字を以って組み替へたるは、是レ偏に易読の便を計りたるなり。 |