安国論御勘由来
安国論御勘由来の概要 【文永五年四月五日、法鑑房、聖寿、真筆−完存】 正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の時前代に超え大に地振す。 同二年〈戊午〉八月一日大風。同三年〈己未〉大飢饉。正元元年〈己未〉大疫病。 同二年〈庚申〉四季に亘て大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了ぬ。 而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験も無く、還て飢疫等を増長す。 日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還て凶悪を増長するの由、道理文証之を得了ぬ。 終に止むこと無く勘文一通を造り作して、其の名を立正安国論と号す。 文応元年〈庚申〉七月十六日〈辰時〉屋戸野入道に付けて古最明寺入道殿に奏進申し了ぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。 其の勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代・人王第三十代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り、桓武天皇の御宇に至る。 其の中間五十余代二百六十余年なり。其の間一切経並に六宗之れ有りと雖も天台・真言の二宗未だ之れ有らず。 桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄と云ふ小僧有り〈後に伝教大師と号す〉。 已前に渡る所の六宗並に禅宗之を極むと雖も未だ我が意に叶はず。 聖武天皇の御宇に大唐の鑑真和尚渡す所の天台の章疏、四十余年を経て已後始めて最澄之を披見し、粗仏法の玄旨を覚り了ぬ。 最澄、天長地久の為に 同 同 華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵三時の所立を破し了ぬ。但自宗を破らるるのみに非ず、皆謗法の者為ることを知る。 同じき二十九日、皇帝勅宣を下して之を詰る。十四人謝表を作て皇帝に捧げ奉る。 其の後代代の皇帝、叡山の御帰依は孝子の父母に仕ふるに超え、黎民の王威を恐るるに勝れり。或御時は宣明を捧げ、御時は非を以て理に処す等云云。 殊に清和天皇は、叡山の恵亮和尚の法威に依て位に即き、帝王の外祖父九条右丞相は誓状を叡山に捧ぐ。 源の右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず、叡山に違背せば天命恐れ有る者か。 然るに 悪鬼其の身に入て国中の上下を誑惑し、代を挙げて念仏者と成り、人毎に禅宗に趣く。 存の外に山門の御帰依浅薄なり、国中の法華真言の学者棄て置かれ了ぬ。 故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味をIわずして威光を失ひ、国土を捨て去り了ぬ。 悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相勘ふる所なり。 又其の後文永元年〈甲子〉七月五日、彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ。 此れ又世始まりてより、已来無き所の凶瑞なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず。予弥よ悲歎を増長す。 而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て、今年後の正月大蒙古国の国書を見る。日蓮が勘文に相叶ふこと宛かも符契の如し。 仏記して云く「我滅度の後一百余年を経て、阿育大王出世し我が舎利を弘めん」と。 周の第四昭王の御宇、大史蘇由が記に云く「一千年の外、声教此の土に被らしめん」と。聖徳太子の記に云く「我が滅度の後二百余年を経て、山城の国に平安城を立つべし」と。天台大師の記に云く「我が滅度二百余年の已後、東国に生れて我が正法を弘めん」等云云。皆果して記文の如し。 日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云く、他国より此の国を破るべき先相なりと。 自讃に似たりと雖も、若し此の国土を毀壊せば、復た仏法の破滅疑ひ無き者なり。 而るに当世の高僧等、謗法の者と同意の者なり。復た自宗の玄底を知らざる者なり。 定めて勅宣・御教書を給て此の凶悪を祈請するか。仏神弥よ瞋恚を作し、国土を破壊せん事疑ひ無き者なり。 日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除て日本国には但一人なり。譬へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。 若し此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん。但偏に国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず。 復禅門に対面を遂ぐ。故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし。恐恐謹言。 文永五月〈太歳戊辰〉四月五日 日蓮花押 法鑑御房 |