「立正安国論」とほぼ同時期の執筆。当時の宗祖の法義を知る上で貴重な御書である。 本書は十五番の問答から成る。第一から第九までは問者の浄土信仰を破折する。先ず一番から五番の問答にて、問者が、『法華経』は上根の聖者の為の経であり、下根の者にとってはせいぜい結縁によって三悪道を免れるぐらいが関の山で六道生死を離れることがでず、それにひきかえ浄土教は易行にして下根でも往生ができると主張するに対し、『法華経』は下根の五十展転随喜の者ですらなお爾前の上根上智の功徳に勝るのであり、その『法華経』を誹謗することは重罪であり、三類の悪知識にたぼらかされて浄土教を信じ『法華経』を誹謗するは堕獄破国の因であると述べている。 第六問答からは依法不依人の精神から、教判により『法華経』が真実経且つ下根をも救う経であり、浄土教は爾前権経であって、権実を雑乱する法然『選択集』は大謗法であると述べられる。 注意すべきは教判を示す段で、『法華経』を中心に置きつつも『涅槃経』・『大日経』・『法華経』が同列に置かれており、これは「一代聖教大意」「守護国家論」と同じである。次に第十番問答は『法華経』を信ずる者の本尊、並びに常の行法が示される。 本尊は『法華経』の題目、行儀は唱題であるが、後年のような徹底したものではなく、耐えたる者には仏菩薩の造立、更に読誦や一念三千観法も奨励している。第十一番問答では下根唱題の功徳が示され、『法華経』の肝心たる方便・寿量の一念三千法門は妙法の二字に収まることが示される。第十二番問答は弘教の方軌が示される。すなわち本已有善の衆生のためには仏の如く悲をもって将護し、今末代の本未有善の衆生に対しては、不軽菩薩や喜根菩薩のように、強いて説き聞かせ毒鼓の縁を結ばせることを本義とすべきであるとしている。 これは「立正安国論」の国主の勢力による折伏に対して、国主も含めた一切衆生に対する宗祖および門下の弘教の在り方を示したものであり、後年「開目抄」に示される「不軽品の折伏」に通ずるものである。最後に十四番十五番問答では、唐土の奇特の人師が何故権実を弁えず『法華経』を詮としなかったのかとの問いに対し、彼らは権経に宿習ある故に実経に入らぬのであるとし、彼らがいかに奇特を示したとしてもそれにとらわれるべきではなく、ものの判断はそのような利根や通力よるのではなく、ただ法門の邪正に依るべきとして本抄を結んでいる。く |