本書は佐渡流嫡の翌文永九年正月、浄土宗の僧弁成の立義に対し宗祖が破折を加えたものである。先ず弁成が提示したと思われる「法華宗立六即」と「浄土宗所立六即」の図を掲げ、以下問答が示される。第一に弁成の、我が身は聖道門は叶い難き故にそれを捨閉閣抛し、念仏によって浄土に往生しそこで『法華経』によって無生を得悟するとの立義が示される。 それに対し宗祖は『法華経』を捨閉閣抛せよという経文と、冒頭の図から天台宗の報土が分真即・究竟即で、浄土宗の報土が名字即以降の五即である証拠を示せと難ずる。弁成は『無量寿経』の文を提示し、浄土教と無量寿仏のみを持てとあるは捨閉閣抛の証文であり、浄土往生して『法華経』を聞く件に関しては同経に、観音勢至が諸法実相を説いたとの文をあげるが、宗祖は已説の観経に未だ説法されていない『法華経』を捨閉閣抛せよと説かれるわけがなく、また、実相といっても『法華経』の諸法実相とは内実が違うと反論し、確かな証拠を出して堕獄の法然を救うべしと迫る。 弁成はこれに対し、再度『無量寿経』の文を出し、法然はあくまで末代の衆生のために慈悲を以って経文に任せて捨閉閣抛をいわれたのであって、堕獄するべからずと述べる。宗祖これを受けて法然の慈悲とは所詮『法華経』と教主釈尊を捨閉閣抛することであり、法然とその弟子檀越はその謗法行為によって、弥陀の本願にも漏れ『法華経』の「入阿鼻地獄」の文に適合するものであると厳しく批判している。 |