本抄は広義に見れば門家全体に示された法門書であるが、直接的には師匠道善房の死去に伴い、その報恩の為めに記されたものである。次項224「報恩抄送文」には「道善房の御死去之由去月粗承候。」とあり、六月に訃報を受けたことがわかり、それは真蹟御書、建治二年三月の 番号213「光日房御書」に「師匠のありやうをもとひをとづれざりけんとなげかしくて、」とあり、この時はまだ道善房は死去していないことによって裏付けられる。とすれば「報恩抄」は死去の報を得て、短い期間に一気呵成に書かれたことがわかる。本抄は大きく三段に分けることが出来る。すなわち第一に総じて十宗の勝劣、ことに権実に約して爾前の七宗と天台法華宗の勝劣が示される。第二に別して真言宗及び台密の破折。第三に末法適時の大法たる本門の三大秘法が示される。 先ず第一の十宗の勝劣について。冒頭仏教的真の報恩とは、父母・師匠・国主の意に背いても仏法研鑽の時間を作りそれを極めることであると定義される。次で仏法研鑽の成果として十宗の勝劣が示される。十宗とは倶舎・成実・律(以上小乗)・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅・天台法華である。小乗の三宗はさておき、大乗の七宗においてその勝劣は『涅槃経』の四依の文、『法師品』の「已今当」の文により『法華経』が最勝であることは明らかであるとし、その上で諸宗諸経の流布と、法華宗よりの破折と値難の歴史が示される。すなわち釈尊時代には釈尊は九横の大難を蒙り、天台の時は光宅寺法雲を始めとする南三北七の邪義を破す故に大難を蒙ったが、震旦のみならず五天竺に「法華経第一」の法義が流布し、妙楽の時には新来の法相・真言・新華厳を破折し、日本の伝教の時は、南都六宗を破折して天台法華宗に帰伏させたことが示される。 第二の別して真言・台密の破折は、全体の半分の紙数を費やして念入りになされている。前半は善無畏が『大日経』を渡して以来の日本の真言弘通の様相が取り上げられる。すなわち伝来は善無畏によってなされたが、実質的な伝来者は伝教であり、天台宗の一部として組み込み取り入れ宗とはされなかった。然るに弘法が平城天皇の帰依を受けて真言宗を開き、天台宗にては慈覚・智証が伝教の『依憑集』の意に背いて「理同事勝」の邪義を立てたことが挙げられ、その罪をいえば邪義歴然としている弘法より、わかりにくい慈覚智証の方が重いと指摘されている。また、真言・台密の悪法たる現証として、山門寺門の抗争、高野山の本寺と伝法院との抗争を挙げられている。後半は更に真言の悪法たる現証が事細かに挙げられる。すなわち遠くは三三蔵の祈雨が大災害をもたらし、近くは文永十一年阿弥陀堂法印の祈雨にても同じく大災害をもたらしたこと、慈覚の日輪を射たという夢は吉夢ではなく天下第一の凶事であること、 弘法の徳を示す伝説は根拠の乏しい信用に足らぬものであること、たとえ奇瑞があっても(天台・伝教には奇瑞があるが)それによって法の邪正が決せられるのではないこと、承久の変が真言の祈祷により悲惨な結果をまねいたこと、などが事細かに示されている。 第三の末法適時の大法が示される段では、先ず正法を弘通する故に競い起こった大難の数々を挙げられ、その弟子を見放した師である故道善房の後生を案じられ、それに引き換え宗祖を守った浄顕房・義浄房の行為は天下第一の『法華経』へのご奉公であると称賛されている。次で『法華経』の肝要とは、『方便品』・『寿量品』・「諸法実相」等ではなく、如是我聞の上の妙法五字であることが示され、その妙法五字が今日まで弘められなかった現実と意味を知るために三時弘教の次第が示される。そして、天台伝教等が示されなかった末法適時の正法の具体相は如何との問いに対し、本門の本尊(その内実は「観心本尊抄」に示された霊山虚空会の儀式を上行菩薩が末法に再現された「観心本尊」である)と本門の戒壇(その内実は示されず)と本門の題目(法華経の広略ではなく肝要の妙法五字)であることが示される。また、広大無辺にして天台伝教にも越える日蓮の慈悲により、この妙法は末法万年尽未来際に流布するであろうと述べられ、最後にその功徳は師道善房に及ぶであろうと結ばれている。 なお、真言・台密の念入りな破折は、当時蒙古の再度の襲撃が間近であるとの予測があり、その調伏がまたしても真言密教によってなされるであろうとの見通しから、それに対する警告の意味があったものと思われるが、より直接的には清澄寺が密教色の濃い天台寺院であったことによると思われる。当時の清澄寺が求聞持法の霊場であり、且つ密教的文書が多かったことは、金沢文庫所蔵の清澄寺文書に明らかである(『日蓮大聖人の思想』一 『興風』8号42頁参照)。また、天台伝教が残された末法適時の大法が、本門の本尊・戒壇・題目であることが示されるのは、先の 番号181「撰時抄」にて「問、いかなる秘法ぞ。先名をきき、次に義をきかんとをもう。」(『定本』1029頁)とされながら明確に示されなかった課題に、答えるという意味を持っていたものと思われる。そういう意味では両書は姉妹編といえるであろう。 |