本書は「種々御振舞御書」に「去年の十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。」とあるように、佐渡の塚原三昧堂に到着して(「種々御振舞御書」によれば塚原には十一月一日に到着)直に執筆にとりかかられている。それはこの時宗祖並びに門下が抱えられていた問題について、一刻も早く回答を与える必要があったからに他ならない。 その問題とは第一に「八宗違目抄」に見られる本尊論(仏身論)と成道論について、天台法華宗の伝統的立場を一念三千法門から説き起こし、それと似て非なる真言・華厳両宗を破折すること、第二に「転重軽受法門」「寺泊御書」に見られる如く、法華経の行者が何故に法難に値うのか、その理由をしっかりとした理論的根拠を以って内外に示すこと、以上二点が挙げられるであろう。 第一の問題については冒頭一切衆生の尊敬すべきものとして、主師親三徳兼備の教主釈尊が挙げられる。これは「八宗違目抄」に見られるように、各宗の本尊は三身相即三徳兼備の教主釈尊ではなく、それ自体父を知らぬ禽獣に同ずる者であることを示す意味があるものと思われる。次で儒家・外道、仏教と浅きより深きに至り、『法華経』こそ一代説教の肝要であ り、更にその本門『寿量品』より天台は一念三千法門を開出されていることが順次示されている。そして『法華経』の肝要は迹門二乗作仏と本門久遠実成であり、一念三千法門は迹門の十界互具十如実相から説き起こされ、久遠実成本仏の本因本果が顕われる本門 『寿量品』を俟って始めて成り立つものであることが示される。これは天台法華宗の伝統的本仏論・一念三千論を示すと同時に@久遠実成の三身相即三徳兼備の釈尊を無視し、或いは同等に置く真言・華厳両宗の法身仏を破折する意味と、A本仏が定まらぬ故に下種が定まらず、況や二乗作仏という凡夫成道の理論的根拠を持たぬ華厳・真言の名ばかりの即身成仏論を破折する意味とを合わせ持っている。 第二の問題である大難の意義については@勧持品の色読A不軽菩薩の折伏B不軽菩薩の罪業観(転重軽受法門)C神天上法門の四項に集約することができる。@『勧持品』の色読については、『宝塔品』の三箇の勅宣並びに『提婆品』の二箇の諫暁(五箇の鳳詔)を受けての、『勧持品』の八十万億那由陀の菩薩の滅後此土弘経の誓願が示された上で、特に三類の強敵が具体的に示され(第一俗衆増上慢は第二第三の檀越 ・第二道門増上慢は法然等邪見の僧・第三僣聖増上慢は現前の良観・聖一・念阿等)、それらが経文の如くに現前にある以上、法華経の行者も現に無くてはならず、日蓮とその一門こそがそれにあたるとの確信が示されている。A不軽菩薩の折伏については、国主が正法受持を拒絶した故に、その勢力による折伏を望むことが不可能となった現実を踏まえられ、そうした謗法の国においては、不軽菩薩の如く難を忍び下種結縁することを本としなければならず、日蓮が一門はそれを行っているというのである。B不軽菩薩の転重軽受は「転重軽受法門」に示された如く、過去法華経誹謗の罪により本来地獄に堕つべきを、『法華経』に縁し、弘経の故に諸難を受けることによってそれを逃れるというものである。宗祖が罪の意識に立たれていることに(自身逆縁の機であることの認識)注意すべきである。 C神天上法門は、「立正安国論」以来の、謗法の国故に善神国を去り、たよりを受けて悪鬼が乱入する故に、法華経の行者は難を受け諸天善神もそれを助けることができないというものである。これは難を受ける理由もさることながら、現在の日本国が逆縁謗法の国であるとの認識を確定する意味を併せ持っている。すなわちこれ以降宗祖の法義は、日本国が逆縁の国であり、衆生も逆縁の機であるという前提に立って建立されているのである。以上を述べ来たり、宗祖は自身と門下に諸難が競い起ころうとも、このような確信を持ち疑う心を捨てて精進するならば、成仏は疑いないものであると強く訴えられ、更に自身日本国の主師親であるとの自覚を披瀝して筆を置かれている。 本書は 番号275「三沢抄」に「又法門の事はさどの国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(『定本』2巻1446頁)といわれるように、折伏において新たな境地に立たれ、天台法華宗の一念三千論を法華経本迹二箇の大事により具体的に示され、日本国を逆縁と規定されるなど、その後の法義の重要な基点となっている。但し、未だ叡山天台宗の立場であること、本化上行の自覚には立っていないこと、従って台当異目はなく本門思想も台家の立場において示されていることは、注意しておくべきである。 |