本書は始めて台当異目が示され、上行自覚から末法愚悪の衆生利益の為の、宗祖己証の観心本尊が示された法門書である。 本書は大きく前後二段に分けることができ、前段は一念三千観心論が展開され、後段は本門の本尊の相貌が示され、且つ宗祖の己証の上に立った観心本尊が示されている。 まず前段は冒頭『止観』第五の一念三千の依文が掲げられ、次に一念三千の出処はこの『止観』第五に限ることが示され、次に一念三千と百界千如の根本的相違について、百界千如が有情に限るに対し一念三千は有情非情に亘ること、そして一念三千観心の法門たる非情草木成仏は、木画二像開眼の不可欠要素であることが示される。 次に『法華経』や天台妙楽伝教等の経釈により、一念三千法門の基礎となる十界互具が明かされる。十界互具についての難問中の難問である、久遠実成の教主釈尊が我等凡夫の己心にいかようにして具されるのかとの問いに対しては、妙法五字に釈尊の因行果徳は具足し、我等はその妙法を受持すれば自然にそれが譲与されるという所謂「自然譲与」が示されている。 次に妙楽『弘決』の「身土一念三千……遍於法界」の文により身土依正不二なること、それ故に先に自然譲与により本因本果を具したように、ここでは本国土たる本時の娑婆世界が具され、妙法受持の行者の一念三千が理論的に示されるのである。そしてその一念三千の具体相として、教相上の本門の虚空会の儀式が示される。後段は前段の一念三千理論、教相上の本門本尊を受けて、舞台が現実の末法の世に移され、宗祖独自の新見解が示される。 先ず、五重三段から在滅相対、すなわち『法華経』は元々在世のためではなく、滅後末法就中末法の始めの五百年たる今を正中の正とすることが示され、在世の本門と滅後末法の始めはともに純円であるが、在世は脱益滅後は下種という種脱の相違があることが示される。次に天台の一念三千は迹面本裏の理具の一念三千であり、未だ事行の題目及び本門の本尊は弘通されていないとして、台当本迹違目が始めて示される。 そして今、末法の始めという時を得て、上行菩薩によって一閻浮提第一の本門の本尊が建立されることが示される。勿論それは上行再誕たる宗祖が、法華経の行者としてその己心に感得した観心を以って、本門の本尊を末法の世に事相化することに他ならない。これをもって宗祖は表題の如く「観心本尊」と称され、本書以降多く十界曼荼羅本尊として建立されるのである。なお、後段において「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王、行摂受時成僧弘時正法。」と述べて、摂受折伏論に関しても本化出現という新たな境地に立っての所論を展開されている。 すなわち、自身は上行菩薩再誕として、国主が正法を持たぬ逆縁の世に出現し、不軽菩薩の利益を以って正法を弘持するが、将来上行菩薩再誕の賢王が出現し愚王を誡責して広宣流布が成就するというのである。ここで「開目抄」に折伏と規定された不軽菩薩の利益が摂受といわれるのは、上行菩薩再誕の賢王の折伏に対してのことであって、内実は折伏であることは論をまたない。 |