本書は釈尊一代五十年の説法を自行化他に立て分け、その教相の廃立を論じたものである。まず化他の経について、『法華経』以前の爾前経は随他意化他の経であり、夢中迷妄の衆生を誘引するために仏自ら夢中に入って説いたものであって、そこでは十界互具円融相即の義が説かれていないから成仏の人はいないとされる。
そして爾前経が化他一往の経である証拠は『無量義経』に「四十余年未顕真実」と仏自ら説かれた勘文に明らかであるとしている。次に自行の法については、まさに後八年の『法華経』であり、爾前経が夢中の権説であるに対し現(うつつ)の実説であるとする。その実説たるゆえんは、我ら凡愚の心身が即本覚の如来であること、心・仏・衆生は一体であり、依正も不二であることが示されていることにあるとしている。それ故に我等はけして消滅無常の存在ではなく、時空を越えて不変である五大種を備えた本有常住・本覚の如来、金剛不壊の体であると知ることが肝要であると述べられている。またその法は結要付嘱により末代の我ら衆生に慥かなる譲状をもって授与されているとし、爾前経を依経とし、『法華経』を蔑ろにする諸宗は三世諸仏の惣勘文に背く者であるとしている。 本書は恵心の『自行略記』覚超の『自行略記註』を依拠として構成され、且つ智証の『授決集』が肯定引文されることから、弘安二年の系年は不可としなければならない。しかし系年のみならず、「造悪無礙」的表現が見られたり、宗祖の信頼しうる御書に見られない「本覚の如来」などの語が頻出するなど、宗祖の述作ということ自体に疑問を持たざるを得ない。 |