義浄房御書
義浄房御書の概要 【文永十年五月二十八日、義浄房、聖寿】 御法門の事委しく承はり候ひ畢ぬ。 法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、十方分身の智恵も及ぶか及ばざるかの内証なり。 されば天台大師も妙の一字をば、妙とは妙は不可思議と名くと釈し給て候なるぞ。 前前御存知の如し。然れども此の経に於て重重の修行分れたり。天台・妙楽・伝教等計りしらせ給ふ法門なり。 就中、伝教大師は天台の後身にて渡らせ給へども、人の不審を晴さんとや思し食しけん、大唐へ決をつかはし給ふ事多し。 されば今経の所詮は、十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそ、ゆゆしき大事にては候なれ。此の法門は 次に 其の故は 叡山の大師渡唐して此の文の点を相伝し給ふ処なり。一とは一道清浄の義、心とは諸法なり。 されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星心果清浄」云云。 日蓮云く、一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり。 一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり。 無作の三身の仏果を成就せん事は、恐くは天台・伝教にも越へ、竜樹迦葉にも勝れたり。 相構へ相構へて、心の師とはなるとも心を師とすべからず、と仏は記し給ひしなり。 法華経の御為に、身をも捨て命をも惜まざれ、と強盛に申せしは是なり。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 文永十年五月二十八日 日蓮花押 義浄房御返事 |