強仁状御返事

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強仁状御返事の概要

            【建治元年十二月二十六日、強仁、聖寿、真筆−完存】 
強仁上人十月二十五日の御勘状、同十二月二十六日に到来す。
此の事余も年来欝訴する所なり。忽に返状を書て自他の疑氷を釈かんと欲す。
但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば、暗中に錦を服して遊行し、澗底の長松匠を知らざるか。兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり。
貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て、露点を申し下し是非を糾明せば、上一人咲を含み、下万民疑を散ぜんか。
其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり。世出世の邪正を決断せんこと必ず公場なるべきなり。
就中、当時我が朝の体為る二難を盛んにす。所謂自界叛逆(じかいほんぎゃく)難と他国侵逼(たこくしんぴつ)難となり。
此の大難を以て大蔵経に引き向へて之を見るに、定めて国家と仏法との中に大禍有るか。
仍て予正嘉・二箇年の大地震と大長星とに驚て一切経を開き見るに、此の国の中に前代未起の二難有るべし。所謂自他叛逼の両難なり。
是れ併ながら真言・禅門・念仏・持斎等、権小の邪法を以て法華真実の正法を滅失する故に、招き出す所の大災なり。
只今他国より我が国を逼むべき由兼ねて之を知る。故に身命を仏神の宝前に捨棄して、刀剣武家の責を恐れず、昼は国主に奏し、夜は弟子等に語る。

然りと雖も真言・禅門・念仏者・律僧等、種種の誑言を構へ、重重の讒訴を企つるが故に、叙用せられざるの間、処処に於て刀杖を加へられ、両度まで御勘気を蒙る。剰へ頭を刎ねんと擬する是の事なり。
夫れ以れば月支・漢土の仏法の邪正は且らく之を置く。大日本国亡国と為るべき由来之を勘ふるに、真言宗の元祖たる東寺の弘法、天台山第三の座主慈覚、此の両大師、法華経と大日経との勝劣に迷惑し、日本第一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来、
叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き、神護七大寺は弘法の僻見に随ふ。其れより已来、王臣邪師を仰ぎ、万民僻見に帰す。
是くの如き諂曲既に久しく、経歴すること四百余年。国漸く衰へ王法も亦尽きんとす。
彼の月支の弗沙弥多羅王の八万四千の寺塔を焚焼し、無量仏子の頚を刎ねし、此の漢土の会昌天子の寺院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる、此等大悪人為りと雖も我が朝の大謗法には過ぎず。

故に青天は眼を瞋らして我が国を睨み、黄地は憤を含て動もすれば夭■を発す。
国主聖主に非れば謂れ之を知らず。諸臣儒家に非れば事之を勘へず。
剰へ此の災夭を消さんが為に真言師を渇仰し、大難を却けんが為に持斎等を供養す。譬へば火に薪を加へ氷に水を増すが如し。
悪法は弥貴まれ大難は益々来る。只今此の国滅亡せんとす。予粗先ず此の子細を勘ふるの間、身命を捨棄し国恩を報ぜんとす。
而るに愚人の習ひ遠きを尊び近きを蔑るか。将又多人を信じて一人を捨つるか。故に終に空しく年月を送る。
今幸に強仁上人、御勘状を以て日蓮を暁諭す。然るべくは此の次でに天聴を驚かし奉て決せん。
誠に又御勘文の体為、非を以て先と為す。若し上人黙止して空しく一生を過せば、定めて師檀共に泥梨の大苦を招かん。
一期の大慢を以て永劫の迷因を殖ること勿れ。速速天奏を経て疾疾対面を遂げ邪見を翻し給へ。書は言を尽さず、言は心を尽さず、悉悉公場を期す。恐恐謹言。
十二月二十六日                                             日蓮花押 
強仁上人座下 

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