宝軽法重事

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宝軽法重事の概要

【建治二年五月十一日、大内某、聖寿、真筆−完存】 
笋百本・又二十本追給ひ了ぬ。
妙法蓮華経第七に云く「若し復人有て七宝を以て、三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん。是の人の所得の功徳も此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きには如かじ」云云。
文句の十に「七宝を四聖に奉るは一偈を持つに如かずと云ふは、法は是れ聖の師なり。能生・能養・能成・能栄、法に過ぎたるは莫し。故に人は軽く法は重きなり」云云。
記の十に云く「父母必ず四の護を以て子を護るが如し。今発心は法に由るを生と為し、始終随逐するを養と為し、極果を満ぜしむるを成と為し、能く法界に応ずるを栄と為す。四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」云云。
経並に天台・妙楽の心は、一切衆生を供養せんと、阿羅漢を供養せんと、乃至一切の仏を尽くして七宝の財を三千大千世界にもりみてて供養せんよりは、法華経を一偈、或は受持し、或は護持せんはすぐれたりと云云。
経に云く「此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きには如かず」。
天台云く「人は軽く法は重きなり」。妙楽云く「四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」云云。
九界の一切衆生を仏に相対して此をはかるに、一切衆生のふく(福)は一毛のかろく、仏の御ふくは大山のをもきがごとし。
一切の仏の御ふくは梵天三銖の衣のかろきがごとし。法華経の一字の御ふくの重き事は大地のをもきがごとし。
人軽しと申すは仏を人と申す。法重しと申すは法華経なり。夫れ法華已前の諸経並に諸論は仏の功徳をほめて候、仏のごとし。此の法華経は経の功徳をほめたり、仏の父母のごとし。
華厳経・大日経等の法華経に劣る事は一毛と大山と三銖と大地とのごとし。
乃至法華経の最下の行者と華厳・真言の最上の僧とくらぶれば、帝釈と■猴と師子と兎との勝劣なり。
而るをたみ(民)が王とののしればかならず命となる。諸経の行者が法華経の行者に勝れたりと申せば、必ず国もほろび、地獄へ入り候なり。
但かたきのなき時はいつわりをろかにて候。譬へば将門・貞任も貞盛・頼義がなかりし時は国をしり、妻子安穏なり云云。
敵なき時はつゆ(露)も空へのぼり、雨も地に下り、逆風の時は雨も空へあがり、日出の時はつゆも地にをちぬ。
されば華厳等の六宗は伝教なかりし時はつゆのごとし。真言宗も又かくのごとし。
強敵出現して法華経をもつてつよくせむるならば、叡山の座主・東寺の小室等も日輪の露にあへるがごとしとをぼしめすべし。
法華経は仏滅後二千二百余年に、いまだ経のごとく説ききわめてひろむる人なし。
天台・伝教もしろしめさざるにはあらず、時も来らず、機もなかりしかば、かききわめずしてをわらせ給へり。日蓮が弟子とならむ人々はやすくしりぬべし。
一閻浮提(いちえんぶだい)の内に法華経の寿量品(じゅりょうほん) の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。しげければとどめ候。
たけのこは百二十本、法華経は二千余年にあらわれ候ぬ。布施はかろけれども志重き故なり。
当時はくわんのう(勧農)と申し、大宮づくりと申し、かたがた民のいとまなし。御心ざしふかければ法もあらわれ候にや。恐恐謹言。
五月十一日  日蓮花押 
西山殿御返事 

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