兵衛志殿御返事
兵衛志殿御返事建治三年八月二十一日の概要 【建治三年八月二十一日、池上宗長、聖寿、真筆−完存】 鵞目二貫文、武蔵房円日を使にて給ひ候ひ畢ぬ。 人王三十六代皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき。其の時入鹿の臣と申す者あり。 あまりをごりのものぐるわしさに王位をうばはんとふるまいしを、天皇・王子等不思議とはをぼせしかども、いかにも力及ばざりしほどに、 大兄の王子軽の王子等なげかせ給て、中臣の鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給ひしかば、臣申さく、いかにも人力はかなうべしとはみへ候はず。 馬子が例をひきて教主釈尊の御力ならずば叶がたしと申せしかば、さらばとて釈尊を造り奉ていのりしかば、入鹿ほどなく打れにき。 此の中臣の鎌子と申す人は後には姓をかへて藤原の鎌足と申し、内大臣になり、大職冠と申す人今の一(藤原)の人の御先祖なり。此の釈迦仏は今の興福寺の本尊なり。 されば王の王たるも釈迦仏、臣の臣たるも釈迦仏、神国の仏国となりし事、えもん(右衛門)のたいう(大夫)殿の御文と引き合せて心へさせ給へ。 今代の他国にうばわれんとする事、釈尊をいるがせにする故なり。神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。 各各は二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給ふは、ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりとをぼすらむ。又此れにもをもひ候。後生のたのもしさ申すばかりなし。 此れより後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。設ひ命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。あなかしこあなかしこ。恐恐謹言。 八月二十一日 日蓮花押 兵衛志殿御返事 |