一念三千法門
一念三千法門の概要 【正嘉二年、聖寿三十七歳】 法華経の余経に勝れたる事何事ぞ。此の経に一心三観・一念三千と云ふ事あり。 薬王菩薩漢土に出世して天台大師と云はれ、此の法門を覚り給ひしかども、先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども、此の一念三千の法門をば談じ給はず、百界千如の法門計りなり。 御年五十七の夏四月の比、荊州玉泉寺と申す処にて、御弟子章安大師に教へ給ふ止観と申す文十巻あり。 上四帖に猶秘し給て、但六即四種三昧等計りなり。五の巻に至て十境・十乗・一念三千の法門を立て「夫れ一心に具す」等云云。 是より二百年後に妙楽大師釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に遍し」云云。 此の一念三千・一心三観の法門は、法華経の一の巻の十如是より起れり。文の心は百界千如三千世間云云。 さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす。是れ僻事にて二義かけたり。天台・南岳の御義を知らざる故なり。されば当宗には天台の所釈の如く、三遍読に功徳まさる。 第一に是相如と相・性・体・力以下の十を如と云ふ。如と云ふは空の義なるが故に十法界皆空諦なり。是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり。八万四千又は般若とも申す。 第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり、是れ皆仮なり。相・性・体・力以下の十なれば、十法界皆仮諦と申して仮の義なり。是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり、又は解脱とも申す。 第三に相如是と云ふは中道と申して仏の法身の形なり。是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり。又は中道とも、法性とも、涅槃とも、寂滅とも申す。 此の三を法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。 此の三身如来全く外になし。我が身即三徳究竟の体にて、三身即一身の本覚の仏なり。 是をしるを如来とも聖人とも悟とも云ふ。知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。 十界の衆生各互に十界を具足す、合すれば百界なり。百界に各各十如を具すれば千如なり。此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり。 百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり。千如は総て空の義なれば空諦の一なり。三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり。 法門多しと雖も但三諦なり。此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり。 始の三如是は本覚の如来なり。終の七如是と一体にして無二無別なれば、本末究竟等とは申すなり。 本と申すは仏性、末と申すは未顕の仏、九界の名なり。究竟等と申すは妙覚究竟の如来と、理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも、平等大恵の法華経とも申すなり。 始の三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば、我等は妙覚の父母なり、仏は我等が所生の子なり。止の一に云く「止は則仏の母、観は即仏の父なり」云云。 譬へば人十人あらんずるが、面面に蔵蔵に宝をつみ、我が蔵に宝のある事を知らず、かつへ死しこごへ死す。 或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し。九人は終に知らず。然るに或は教へられて食し、或はくくめられて食するが如し。 弘の一の止観の二字は正しく聞体を示す、聞かざる者は本末究竟等も徒らか。 子なれども親にまさる事多し。重華はかたくなはしき父を敬て賢人の名を得たり。沛公は帝王と成て後も其の父を拝す。其の敬はれし父をば全く王といはず、敬ひし子をば王と仰ぐが如し。 其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出し給へり。凡夫は親なれども愚痴にして未だ悟らず。 委しき義を知らざる人、毘盧の頂上をふむなんど悪口す。大なる僻事なり。 一心三観に付て次第の三観・不次第の三観と云ふ事あり。委く申すに及ばず候。 此の三観を心得すまし成就したる処を、華厳経に三界唯一心と云云。天台は諸水入海とのぶ。 仏と我等と総て一切衆生理性一にてへだてなきを平等大恵と云ふなり。平等と書てはおしなべてと読む。 此の一心三観・一念三千の法門諸経にたえて之無し。法華経に遇はざれば争か成仏すべきや。余経には六界八界より十界を明せども、さらに具を明かさず。 法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出され、無明の雲晴れて法性の月明かに、妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具縛の身、即本有常住の如来となるべし。 此を即身成仏とも、煩悩即菩提とも、生死即涅槃とも申す。此の時法界を照し見れば、悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり。されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり。 此の時は十方世界皆寂光浄土にて、何れの処をか弥陀・薬師等の浄土とは云はん。 是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふ。 さては経をよまずとも、心地の観念計りにて成仏すべきかと思ひたれば、一念三千の観念も、一心三観の観法も、妙法蓮華経の五字に納れり。妙法蓮華経の五字は、又我等が一心に納て候けり 。 天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵、三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり。 さて此の妙法蓮華経を唱ふる時、心中の本覚の仏顕る。我等が身と心をば蔵に譬へ、妙の一字を印に譬へたり。 天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す。権実の正軌を示す故に号して法と為す。久遠の本果を指す之を喩ふるに蓮を以てす。不二の円道に会す之を譬ふるに華を以てす。声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給ひ、 又「妙とは不可思議の法を褒美するなり。又妙とは十界十如権実の法なり」云云。 経の題目を唱ふると観念と一なる事心得がたしと、愚痴の人は思ひ給ふべし。 されども天台止の二に而於説黙と云へり。説とは経、黙とは観念なり。 又四教義の一に云く「但功の唐捐ならざるのみに非ず、亦能く理に契ふの要なるをや」云云。 天台大師と申すは薬王菩薩なり。此の大師、説而観而と釈し給ふ。元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり。 四種の重を知らずして、一しなを見たる人、一向本迹をむねとし、一向観心を面とす。 法華経に法・譬・因縁と云ふ事あり。法説の段に至て諸仏出世の本懐、一切衆生成仏の直道と定む。 我のみならず、一切衆生直至道場の因縁なりと定め給ひしは題目なり。 されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と。広大と申すは残らず引導し給ふを申すなり。 仮使釈尊一人本懐と宣べ給ふとも、等覚以下は仰て此の経を信ずべし。況や諸仏出世の本懐なり。 禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども、其は四種の一面なり。 一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば、題目に十如是を置くべき処に、題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず。 又当世の禅宗は 智者は読誦に観念をも並ぶべし。愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会ふべし。 此の妙法蓮華経とは我等が心性、総じては一切衆生の心性八葉の白蓮華の名なり。是を教へ給ふ仏の御詞なり。 無始より以来、我が身中の心性に迷て生死を流転せし身、今此の経に値ひ奉て、三身即一の本覚の如来を唱ふるに顕れて、現世に其内証成仏するを即身成仏と申す。 死すれば光を放つ、是れ外用の成仏と申す。来世得作仏とは是なり。 「略挙経題玄収一部」とて一遍は一部云云。妙法蓮華経と唱ふる時、心性の如来顕る。耳にふれし類は、無量阿僧祇劫の罪を滅す。一念も随喜する時即身成仏す。 縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り、必ず之に依て成仏す。妙楽大師の云く「若は取、若は捨、耳に経て縁と成る。或は順、或は違、終いに斯れに因て脱す」云云。 日蓮云く、若取・若捨・或順・或違の文肝に銘ずる詞なり。法華経に「若有聞法者」等と説れたるは是か。 既に聞く者と説れたり、観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし。 只天台の御料簡に十如是と云ふは十界なり。此の十界は一念より事起り、十界の衆生は出来たりけり。此の十如是と云ふは妙法蓮華経にて有けり。 此の娑婆世界は耳根得道の国なり。以前に申す如く「当知身土」云云。 一切衆生の身に百界千如三千世間を納むる謂を明すが故に、是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり。 一切衆生と申すは、草木瓦礫も一切衆生の内なるか〈有情非情〉。抑も草木は何ぞ。金■論に云く「一草一木、一礫一塵、各一仏性、各一因果、具足縁了」等云云。 法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩■羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼。妙法蓮華経の一偈一句を聞て乃至一念も随喜せん者は我皆阿耨多羅三藐三菩提の記を与へ授く」云云。 非人とは総じて人界の外、一切有情界とて心あるものなり。況や人界をや。 法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬へば春夏田を作るに早晩あれども、一年の中には必ず之を納む。 法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す。玄の一に云く「上中下根皆記■を与ふ」云云。 観心計りにて成仏せんと思ふ人は、一方かけたる人なり。況や 法師品に云く「薬王多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能はずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず。 若し是の経典を聞くこと得ること有らば、乃ち能善菩薩の道を行ずるなり」云云。 観心計りにて成仏すべくんば、争か見聞読誦と云はんや。此の経は専ら聞を以て本と為す。 凡そ此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大恵とも云ふ。 善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。 義を知らざる人なれども、唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ。「我即歓喜諸仏亦然」云云。 百千合せたる薬も、口にのまざれば病愈えず、蔵に宝を持ども開く事をしらずしてかつへ、懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し。 如意宝珠と云ふ玉は、五百弟子品の此の経の徳も又此くの如し。観心を並べて読めば申すに及ばず。 観念せずと雖も始に申しつるごとく、「所謂諸法 如是相如」云云と読む時は、如は空の義なれば、我が身の先業にうくる所の相性体力、其の具する所の八十八使の見惑、八十一品の思惑、其の空は報身如来なり。 「所謂諸法 如是相」云云とよめば、是れ仮の義なれば、我が此の身先業に依て受けたる相性体力云云。其の具したる塵沙の惑、悉く即身応身如来なり。 「所謂諸法如是」と読む時は、是れ中道の義に順じて、業に依て受くる所の相性等云云。其れに随ひたる無明皆退て即身法身の如来と心を開く。 此の十如是三転によまるる事、三身即一身・一身即三身の義なり。三に分るれども一なり、一に定まれども三なり。 |