寂日房御書
寂日房御書の概要 【弘安二年九月十六日、寂日房日家、聖寿】 是まで御をとづれ(音信)、かたじけなく候。 夫れ人身をうくる事はまれなるなり。已にまれなる人身をうけたり。又あひがたきは仏法、是も又あへり。 同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。 日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり。 八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし。 かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は、日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。 父母となり其の子となるも必ず宿習なり。若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其の故なからんや。例せば 釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給ふか。然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給ふか。又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か。不思議に覚え候。 一切の物にわたりて名の大切なるなり。さてこそ天台大師五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。 日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞えたれども、道理のさすところさもやあらん。 経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と、此の文の心よくよく案じさせ給へ。 斯人行世間の五の文字は、上行菩薩末法の始の五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。 日蓮は、此の上行菩薩の御使として、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり。此の山にしてもをこたらず候なり。 今の経文の次下に説て云く「我が滅度の後に於て、応に此の経を受持すべし、是の人仏道に於て、決定して疑ひ有ること無けん」云云。 かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思て、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。 法華経の行者といはれぬる事はや不祥なり。まぬかれがたき身なり。 彼のはんくわい(樊■)・ちやうりやう(張良)・まさかど(将門)・すみとも(純友)といはれたる者は、名ををしむ故に、はぢを思ふ故に、ついに臆したることはなし。 同じはぢなれども今生のはぢはもののかずならず。ただ後生のはぢこそ大切なれ。 獄卒だつえば(奪衣婆)・懸衣翁が三途河のはた(端)にて、いしやう(衣装)をはがん時を思食して、法華経の道場へまいり給ふべし。 法華経は後生のはぢをかくす衣なり。経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。 此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ。よくよく信じ給ふべし。 をとこ(男)のはだへ(膚)をかくさざる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるをや(親)あるべしや。釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ。 日蓮をたすけ給ふ事、今生の恥をかくし給ふ人なり。後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし。 昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめ(嫁)のしうとめ(姑)になる事候ぞ。信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。 度度の御音信申しつくしがたく候ぞ。此の事寂日房くわしくかたり給へ。 九月十六日 日蓮花押 |