慈覚大師事

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慈覚大師事の概要

弘安三年正月 五十九歳御作 与大田入道 於身延

 鵞眼三貫絹の袈裟一帖給い候い了んぬ、法門の事は秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少少注して候御覧有るべく候、なによりも受け難き人身値い難き仏法に値いて候に五尺の身に一尺の面あり其の面の中三寸の眼二つあり、一歳より六十に及んで多くの物を見る中に悦ばしき事は法華最第一の経文なり、あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云、此の釈の心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頚を切つて蝦の頚に付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頚も切れぬと見え候、此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ、三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此れを見る。

 究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさんなり、一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候、慈覚大師の御はかはいづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか、明雲座主は義仲に頚を切られたり、天台座主を見候へば伝教大師はさてをきまいらせ候いぬ、第一義真第二円澄此の両人は法華経を正とし真言を傍とせり、第三の座主慈覚大師は真言を正とし法華経を傍とせり、其の已後代代の座主は相論にて思い定むる事無し、第五十五並びに五十七の二代は明雲大僧正座主なり、

此の座主は安元三年五月日院勘を蒙りて伊豆の国へ配流、山僧大津にて奪い取りて後治承三年十一月に座主となりて源の右将軍頼朝を調伏せし程に寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う、此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、

生(しょう)の難は仏法の定例(じょうれい)聖賢(しょうけん)の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人愚人誹謗正法(ひぼうしょうほう)の人招くわざわいなり、所謂(いわゆる)大慢ばら門須利等なり。

 粗此れを勘えたるに明雲より一向に真言の座主となりて後今三十余代一百余年が間一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり、しかれば此等の人人は釈迦多宝十方の諸仏の大怨敵梵釈日月四天天照太神正八幡大菩薩の御讎敵なりと見えて候ぞ、我が弟子等此の旨を存じて法門を案じ給うべし、恐恐。

 正月二十七日  日蓮花押

 太田入道殿御返事

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