常 忍 抄
常 忍 抄の概要 【弘安元年十月一日、富木常忍、聖寿、真筆完存】 御文粗拝見仕り候ひ了ぬ。御状に云く、常忍の云く、記の九に云く「権を稟けて界を出づるを名けて虚出と為す」云云。了性房云く、全く以て其の釈無し云云。 記の九に云く〈 文句の九に云く「虚より出でて而も実に入らざる者有ること無し。故に知ぬ、昔の虚は去声実の為の故なり」云云。 此の経文は、初成道の華厳の別円、乃至、法華経の迹門十四品を、或は小法と云ひ、或は徳薄垢重、或は虚出等と説ける経文なり。 若し然らば、華厳経の華厳宗、深密経の法相宗、般若経の三論宗、大日経の真言宗、観経の浄土宗、楞伽経の禅宗等の諸経の諸宗は、依経の如く其の経を読誦すとも三界を出でず、三途を出でざる者なり。 何に況や、或は彼を実と称し、或は勝ぐる等云云。此の人人、天に向て唾を吐き、地を■んで忿を為す者か。 此の法門に於て、如来滅後月氏一千五百余年、付法蔵の二十四人、竜樹・天親等知て未だ此れを顕さず。 漢土一千余年の余人も未だ之を知らず。但天台・妙楽等粗之を演ぶ。然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか。伝教大師以て是くの如し。 今日蓮粗之を勘ふるに、法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く「若し三法に於て異の想を修する者は、当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処無く、所有の禁戒皆具足せず。終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することを得ず」等云云。 此の経文は正しく法華経の 経文に又之有り。五時八教・当分跨節・大小の益は影の如し、本門の法門は木の如し云云。 又 又不信は謗法に非ずと申す事。又云く、不信の者地獄に堕ちずと云云。 五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は、則ち当に悪道に堕つべし」云云。 総じて御心へ候へ。法華経と爾前と引き向へて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節の事に三つの様有り。 日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども、第三をば申さず候。 第三の法門は、天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳は是なり。 但し此の法門の御論談は余は承らず候。彼は広学多聞の者なり。はばかりはばかりみたみたと候ひしかば、此の方のまけなんども申しつけられなばいかんがし候べき。 但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬはさてをき候ひぬ。六十巻にな(無)しなんど申すは天のせめなり。謗法の科の法華経の御使に値て顕はれ候なり。 又此の沙汰の事を定めてゆへありて出来せり。かしま(賀島)の大田・次郎兵衛・大進房、又本院主もいかにとや申すぞ。よくよくきかせ給ひ候へ。此れ等は経文に子細ある事なり。 【大進房】、又本 法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障ふべきにて候。十境の中の魔境此れなり。 魔の習ひは善を障へて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候。強て悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ。 又二乗の行をなす物をば、あながちに怨をなして善をすすむるなり。又菩薩の行をなす物をば遮て二乗の行をすすむ。 是後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕すなり。止観の八等を御らむあるべし。 又彼が云く、止観の行者は持戒等云云。文句の九には初・二・三の行者の持戒をば此れをせいす。経文又分明なり。 止観に相違の事は、妙楽の問答之有り。記の九を見るべし。 初随喜に二有り。利根の行者は持戒を兼ねたり。鈍根は持戒之を制止す。 又正・像・末の不同もあり。摂受・折伏の異あり。伝教大師の市の虎の事思ひ合はすべし。 此れより後は下総にては御法門候べからず。了性・思念をつめつる上は、他人と御論候はばかへりてあさくなりなん。 彼の了性と思念とは、年来日蓮をそしるとうけ給はる。彼等程の蚊虻の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずして、うはのそらにそしる程のをこじん(嗚呼人)なり。 天台法華宗の者ならば、我は南無妙法蓮華経と唱へて、念仏なんど申す者をばあれはさる事なんど申すだにもきくわい(奇怪)なるべきに、其の義なき上、偶申す人をそしるでう、あらふしぎふしぎ。 大進房が事、さきざきかきつかわして候やうに、つよづよとかき上申させ給ひ候へ。 【大進房】が事、 大進房には十羅刹のつかせ給て引きかへしせさせ給ふとをぼへ候ぞ。 【大進房】には十 又魔王の使者なんどがつきて候ひけるが、はなれて候とをぼへ候ぞ。悪鬼入其身はよもそら事にては候はじ。 事事重く候へども、此の使いそぎ候へばよる(夜)かきて候ぞ。恐恐謹言。 十月一日 日蓮花押 |