顕謗法抄
顕謗法抄の概要 【弘長二年、聖寿、真筆−曽存】 本朝沙門日蓮撰 第一に八大地獄の因果を明し、第二に無間地獄の因果の軽重を明し、第三に問答料簡を明し、第四に行者弘経の用心を明す。 第一に八大地獄の因果を明さば、第一に等活地獄とは、此の閻浮提の地の下一千由旬にあり。此の地獄は縦広斉等にして一万由旬なり。 此の中の罪人はたがいに害心をいだく。若たまたま相見れば犬と■とのあえるがごとし。各鉄の爪をもて互につかみさく。血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり。 或は獄卒手に鉄杖を取て頭より足にいたるまで皆打くだく。身体くだけて沙のごとし。或は利刀をもつて分分に肉をさく。然れども又よみがへりよみがへりするなり。 此の地獄の寿命は、人間の昼夜五十年をもつて第一四王天の一日一夜として、四王天の天人の寿命五百歳なり。四王天の五百歳を此れ等活地獄の一日一夜として、其の寿命五百歳なり。 此の地獄の業因をいはば、ものの命をたつもの此の地獄に堕つ。螻蟻蚊■等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず此の地獄に堕つべし。譬へばはりなれども水の上にをけば沈まざることなきが如し。 又懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし。 譬へばぬすみをして獄に入りぬるものの、しばらく経て後に御免を蒙て獄を出ずれども、又重ねて盗をして獄に入りぬれば出ゆるされがたきが如し。 されば当世の日本国の人は上一人より下万民に至まで、此の地獄をまぬがるる人は一人もありがたかるべし。 何に持戒のをぼへをとれる持律の僧たりとも、蟻虱なんどを殺さず、蚊■をあやまたざるべきか。 況や其外、山野の鳥鹿、江海の魚鱗を日日に殺すものをや。何に況や牛馬人等を殺す者や。 第二に、黒縄地獄とは、等活地獄の下にあり、縦広は等活地獄の如し。 獄卒・罪人をとらえて熱鉄の地にふせて、熱鉄の縄をもつて身にすみうつて、熱鉄の斧をもつて縄に随てきりさきけづる。又鋸を以てひく。 又左右に大なる鉄の山あり。山の上に鉄の幢を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山をををせて、縄の上よりわたす。 縄より落てくだけ、或は鉄のかなえに堕し入れてにらる。此の苦は上の等活地獄の苦よりも十倍なり。 人間の一百歳は第二の利天の一日一夜なり。其の寿一千歳なり。此の天の寿一千歳を一日一夜として、此の第二の地獄の寿命一千歳なり。 殺生の上に偸盗とて、ぬすみをかさねたるもの此の地獄にをつ。当世の偸盗のもの、ものをぬすむ上、物の主を殺すもの此の地獄に堕つべし。 第三に衆合地獄とは、黒縄地獄の下にあり。縦広は上の如し。多くの鉄の山二つづつに相向へり。牛頭・馬頭等の獄卒、手に棒を取て罪人を駈て山の間に入らしむ。此の時両の山迫り来て合せ押す。身体くだけて血流れて地にみつ。又種種の苦あり。 人間の二百歳を第三の夜摩天の一日一夜として此の天の寿二千歳なり。此の天の寿を一日一夜として此の地獄の寿命二千歳なり。 殺生・偸盗の罪の上に、邪婬とて他人のつまを犯す者此の地獄の中に堕つべし。 而るに当世の僧尼士女、多分は此の罪を犯す。殊に僧にこの罪多し。士女は各各互にまほり、又人目をつつまざる故に此の罪ををかさず。 僧は一人ある故に、婬欲とぼしきところに、若し有身ば、父ただされあらはれぬべきゆへに、独ある女人ををかさず。もしやかくるると、他人の妻をうかがひ、ふかくかくれんとをもうなり。 当世のほかたうとげなる僧の中に、ことに此の罪又多くあるらんとをぼゆ。されば多分は当世たうとげなる僧此の地獄に堕つべし。 第四に叫喚地獄とは、衆合の下にあり。縦広前に同じ。獄卒悪声出して弓箭をもつて罪人をいる。又鉄の棒を以て頭を打て、熱鉄の地をはしらしむ。 或は熱鉄のいりだなにうちかへしうちかへし此の罪人をあぶる。或は口を開てわける銅のゆを入るれば、五臓やけて下より直に出ず。 寿命をいはば人間の四百歳を第四の都率天の一日一夜とす。又都率天の四千歳なり。都率天の四千歳の寿を一日一夜として、此の地獄の寿命四千歳なり。 此の地獄の業因をいはば、殺生・偸盗・邪婬の上に、飲酒とて酒のむもの此の地獄に堕つべし。 当世の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆の大酒なる者、此の地獄の苦免れがたきか。 大論には酒に三十六の失をいだし、梵網経には酒盃をすすめる者、五百生に手なき身と生るととかせ給ふ。人師の釈にはみみずていの者となるとみへたり。 況や酒をうりて人にあたえたる者をや。何に況や酒に水を入れてうるものをや。当世の在家の人人この地獄の苦まぬがれがたし。 第五に大叫喚地獄とは、叫喚の下にあり。縦広前に同じ。其の苦の相は上の四の地獄の諸の苦に十倍して重くこれをうく。 寿命の長短を云はば、人間の八百歳は第五の化楽天の一日一夜なり。此の天の寿八千歳なり。此の天の八千歳を一日一夜として、此の地獄の寿命八千歳なり。 殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者此の地獄に堕つべし。 当世の諸人は設ひ賢人上人なんどいはるる人人も、妄語せざる時はありとも、妄語をせざる日はあるべからず。 設ひ日はありとも、月はあるべからず。設ひ月はありとも、年はあるべからず。設ひ年はありとも、一期生妄語せざる者はあるべからず。若ししからば当世の諸人一人もこの地獄をまぬがれがたきか。 第六に焦熱地獄とは、大叫喚地獄の下にあり。縦広前にをなじ。此の地獄に種種の苦あり。若し此の地獄の豆計りの火を閻浮提にをけらんに、一時にやけ尽きなん。況や罪人の身の■なることわたのごとくなるをや。 此の地獄の人は前の五つの地獄の火を見る事雪の如し。譬へば人間の火の薪の火よりも鉄銅の火の熱きが如し。 寿命の長短は人間の千六百歳を第六の他化天の一日一夜として、此の天の寿千六百歳なり。此の天の千六百歳を一日一夜として、此の地獄の寿命一千六百歳なり。 業因を云はば、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語の上、邪見とて因果なしという者此の中に堕つべし。 邪見とは、有人の云く、人飢ゑて死ぬれば天に生るべし等云云。総じて因果をしらぬ者を邪見と申すなり。世間の法には慈悲なき者を邪見の者という。当世の人人此の地獄を免れがたきか。 第七に大焦熱地獄とは、焦熱の下にあり。縦広前の如し。前の六つの地獄の一切の諸苦に十倍して重く受るなり。其の寿命は半中劫なり。 業因を云はば、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語・邪見の上に浄戒の比丘尼ををかせるもの、此の中に堕つべし。 又比丘、酒をもつて不邪婬戒を持てる婦女をたぼらかし、或は財物をあたへて犯せるもの此の中に堕つべし。当世の僧の中に多く此の重罪あるなり。 大悲経の文に「末代には士女は多くは天に生じ、僧尼は多くは地獄に堕つべし」ととかれたるはこれていの事か。心あらん人人ははづべしはづべし。 総じて上の七大地獄の業因は諸経論をもつて勘へ、当世日本国の四衆にあて見るに、此の七大地獄をはなるべき人を見ず、又きかず。 涅槃経に云く「末代に入て人間に生ぜん者は爪上の土の如し。三悪道に堕つるものは十方世界の微塵の如し」と説かれたり。 若爾らば、我等が父母兄弟等の死ぬる人は皆上の七大地獄にこそ堕ち給ては候らめ。あさましともいうばかりなし。 竜と蛇と鬼神と仏・菩薩・聖人をば未だ見ず。ただをとにのみこれをきく。 当世に上の七大地獄の業を造らざるものをば未だ見ず。又をとにもきかず。 而るに我が身よりはじめて、一切衆生七大地獄に堕つべしとをもえる者一人もなし。 設ひ言には堕つべきよしをさえづれども、心には堕つべしともをもわず。 又僧尼士女、地獄の業をば犯すとはをもえども、或は地蔵菩薩等の菩薩を信じ、或は阿弥陀仏等の仏を恃み、或は種種の善根を修したる者もあり。 皆をもはく、我はかかる善根をもてればなんど、うちをもひて地獄をもをぢず。 或は宗宗を習へる人人は、各各の智分をたのみて、又地獄の因ををぢず。 而るに仏菩薩を信じたるも、愛子夫婦なんどをあいし、父母主君なんどをうやまうには雲泥なり。仏菩薩等をばかろくをもえるなり。 されば当世の人人の、仏菩薩を恃ぬれば、宗宗を学したれば地獄の苦はまぬがれなんなんどをもえるは僻案にや。心あらん人人はよくよくはかりをもうべきか。 第八に大阿鼻地獄とは、又は無間地獄と申すなり。欲界の最底大焦熱地獄の下にあり。此の地獄は縦広八万由旬なり。外に七重の鉄の城あり。地獄の極苦は且く之を略す。 前の七大地獄並に別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり。此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事、他化自在天の楽みの如し。 此の地獄の香のくささを人かくならば、四天下・欲界・六天の天人皆ししなん。 されども出山・没山と申す山、此の地獄の臭き気ををさへて、人間へ来らせざるなり。故に此の世界の者死せずと見へぬ。 若し仏此の地獄の苦を具に説かせ給はば、人聴て血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみへたり。 此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり。一中劫と申すは、此の人寿無量歳なりしが百年に一寿を減じ、又百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減と申す。 又十歳より百年に一寿を増し、又百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増と申す。此の一増一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫とは申すなり。 此の地獄に堕ちたる者、これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり。 業因を云はば、五逆罪を造る人此の地獄に堕つべし。五逆罪と申すは、一に殺父、二に殺母、三に殺阿羅漢、四に出仏身血、五に破和合僧なり。 今の世には仏ましまさず。しかれば出仏身血あるべからず。和合僧なければ破和合僧なし。阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし。 但殺父殺母の罪のみありぬべし。しかれども王法のいましめきびしくあるゆへに、此の罪をかしがたし。 若爾らば、当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし。但し相似の五逆罪これあり。 木画の仏像・堂塔等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり、率兜婆等をきりやき、智人を殺しなんどするもの多し。此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし。 されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか。又謗法の者この地獄に堕つべし。 第二に無間地獄の因果の軽重を明さば、問て云く、五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕んことあるべしや。答て云く、 問て云く、証文如何。答て云く、法華経第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見へたり。 問て云く、五逆と謗法と罪の軽重如何。答て云く、大品経に云く「舎利弗仏に白して言く、世尊、五逆罪と破法罪と相似するや。仏舎利弗に告はく、相似と言ふべからず。 所以は何ん、若し般若波羅蜜を破れば、則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為ぬ、仏宝を破るが故に、法宝を破るが故に、僧宝を破るが故に。三宝を破るが故に、則ち世間の正見を破す。 世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり。無量無辺阿僧祇の罪を得已て則ち無量無辺阿僧祇の憂苦を受るなり」文。 又云く「破法の業・因縁集るが故に、無量百千万億歳大地獄の中に堕つ。此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る。若し劫火起る時は他方の大地獄の中に至る。 是くの如く十方に遍くして彼の間に劫火起る。故に彼より死し、破法の業・因縁未だ尽きざるが故に、是の間の大地獄の中に還来す」等云云。 法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り、悪口罵詈して言く、是れ無智の比丘と。或は杖木瓦石を以て之れを打擲す。乃至、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」等云云。 此の経文の心は、法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの、其の後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅せずして、千劫阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ。 懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし。 故に法華経第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入り、一劫を具足して劫尽きなば更生れん。是くの如く展転して無数劫に至らん」等云云。 第三に問答料簡を明さば、問て云く、五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ。謗法の相貌如何。 答て云く、天台智者大師の梵網経の疏に云く「謗とは背くなり」等云云。法に背くが謗法にてはあるか。 天親の仏性論に云く「若し憎は背くなり」等云云。この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり。 問て云く、委細に相貌をしらんとをもう、あらあらしめすべし。答て云く、涅槃経第五に云く「若し人有て如来は無常なりと言はん、云何ぞ是の人舌堕落せざらん」等云云。此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云。 問て云く、諸の小乗経に仏を無常と説かるる上、又所化の衆皆無常と談じき。若爾らば、仏並に所化の衆の舌堕落すべしや。 答て云く、小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか。大乗経に向て仏を無常と談じ、小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか。 此れをもつてをもうに、をのれが依経には随へども、依経よりすぐれたる経を破するは破法となるか。 若爾らば、設ひ観経・華厳経等の権大乗経の人人、所依の経の文の如く修行すとも、かの経にすぐれたる経経に随はず、又すぐれざる由を談ぜば、謗法となるべきか。 されば観経等の経の如く法をえたりとも、観経等を破せる経の出来したらん時、其の経に随はずば破法となるべきか。小乗経を以てなぞらえて心うべし。 問て云く、双観経等に乃至十念即得往生なんととかれて候が、彼のけうの教への如く十念申して往生すべきを、後の経を以て申しやぶらば、謗法にては候まじきか。 答て云く、仏、観経等の四十余年の経経を束て 問て云く、或人云く、無量義経の「四十余年 但四十余年の経経に処処に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給ひ、釈迦如来を始成正覚と説き給しを、其の言ばかりをさして 而るをみだりに四十余年の文を見て、観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを、妄りに往生はなき事なりなんど押し申す、あにをそろしき謗法の者にあらずや、なんど申すはいかに。 答て云く、此の料簡は東土の得一が料簡に似たり。得一が云く、 伝教大師は前四味に亘て文文句句に 問ふ、法華已前に さては仏の妄語は勿論なり。若し爾らば、妄語の人の申すことは有無共に用ひぬ事にてあるぞかし。 決定性の二乗永不成仏の語ばかり妄語となり、若し余の菩薩凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば、信用しがたき事なり。 譬へば東方を西方と妄語し申さん人は西方を東方と申すべし。二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや。 五乗は但一仏性なり。二乗の仏性をかくし、菩薩凡夫の仏性をあらはすは、返て菩薩凡夫の仏性をかくすなり。 有人云く、四十余年 又難じて云く、四十余年が間の説の成仏を 若し爾らば、四十余年の経経にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば、法蔵比丘の成仏すでに妄語なり。若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎へ給ふべきや。 又かれ此の難を通して云ん、四十余年が間は成仏はなし。阿弥陀仏は今の成仏にはあらず、過去の成仏なり等云云。 今難じて云く、今日の四十余年の経経にして実の凡夫の成仏を許されずば、過去遠遠劫の四十余年の権経にても成仏叶ひがたきか。三世の諸仏の説法の儀式皆同きが故なり。 或は云く、不得疾成無上菩提ととかるれば、四十余年の経経にては疾くこそ仏にはならねども、遅く劫を経てはなるか。 難じて云く、次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等云云。此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。 有は云ふ、華厳宗の料簡に云く、四十余年の内には華厳経計りは入るべからず。華厳経にすでに往生成仏此あり。なんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん。 答て云く、四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の義なり。無量義経には正く四十余年の内に華厳海空と名目を呼び出して、四十余年の内にかずへ入れられたり。人師を本とせば仏に背くになりぬ。 問て云く、法華経をはなれて往生成仏をとげずば、仏世に出させ給ては但法華経計をこそ説き給はめ。なんぞわづらはしく四十余年の経経を説かせ給ふや。 答て云く、此の難は仏自ら答へ給へり。「若し但仏乗を讃せば、衆生苦に没在して、法を破して信ぜざるが故に、三悪道に墜ちなん」等の経文これなり。 問て云く、いかなれば爾前の経をば衆生謗せざるや。答て云く、爾前の経経は万差なれども、束ねて此れを論すれば随他意と申して衆生の心をとかれてはんべり。故に違する事なし。譬へば水に石をなぐるにあらそうことなきがごとし。 又しなじなの説教はんべれども、九界の衆生の心を出でず。衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに、仏にはならざるか。 問て云く、衆生謗ずべきゆへに仏最初に法華経をとき給はずして、四十余年の後に法華経をとき給はば、汝なんぞ当世に権経をばとかずして、左右なく法華経をといて人に謗をなさせて悪道に堕すや。 答て云く、仏在世には仏菩提樹の下に坐し給て機をかがみ給ふに、当時法華経を説くならば、衆生謗じて悪道に堕ちぬべし。 四十余年すぎて後にとかば、謗せずして初住不退乃至妙覚にのぼりぬべし、と知見しましましき。 又能化の人も仏にあらざれば、機をかがみん事もこれかたし。されば逆縁順縁のために、先ず法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。 但し又滅後なりとも、当機衆になりぬべきものには、先ず権教をとく事もあるべし。又悲を先とする人は先ず権経をとく、釈迦仏のごとし。 慈を先とする人は先ず実経をとくべし、不軽菩薩のごとし。又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。 同じく悪道に堕るならば、法華経を謗ぜさせて堕すならば、世間の罪をもて堕ちたるにはにるべからす。「聞法生謗 堕於地獄 勝於供養 恒沙仏者」等の文のごとし。 此の文の心は、法華経をはうじて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり。 問て云く、上の義のごとくならば、華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか。 華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり。法相三論もてかくのごとし。 真言宗には日本国に二の流あり。東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり。何に況や大日経にをいてをや。 天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり。印真言等は超過せりと云云。此等は皆悪道に堕つべしや。 答て云く、宗をたて、経経の勝劣を判ずるに二の義あり。一は似破、二は能破なり。 一に似破とは、他の義は吉とをもえども此をはす。かの正義を分明にあらはさんがためか。 二に能破とは、実に他人の義の勝れたるをば弁へずして、迷て我が義すぐれたりとをもひて、心中よりこれを破するをば能破という。 されば彼の宗宗の祖師に似破・能破の二の義あるべし。心中には法華経は諸経に勝れたりと思へども、且く違して法華経の義を顕さんとをもひて、これをはする事あり。 提婆達多・ 又実の凡夫が仏のかたきとなりて悪道に堕つる事これ多し。されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかかずば、謗法の者悪道に堕ちたりとしるべし。 三論の嘉祥・華厳の澄観・法相の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆これあるか。よくよく尋ねならうべし。 問て云く、まことに今度生死をはなれんとをもはんに、なにものをかいとひ、なにものをか願ふべきや。 答ふ、諸の経文には女人等をいとうべしとみへたれども、双林最後の涅槃経に云く「菩薩是の身に無量の過患具足充満すと見ると雖も、涅槃経を受持せんと欲するを為ての故に、猶好く将護して乏少ならしめず。 菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無れ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に、是れ悪象等は唯能く身を壊て心を壊る事能はず。悪知識は二倶に壊るが故に。 悪象の若きは唯一身を壊る。悪知識は無量の身無量の善心を壊る。悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては三趣に至る」等云云。 此の経文の心は、後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし。一切の悪縁よりは悪知識ををそるべしとみえたり。 されば大荘厳仏の末の四の比丘は、自ら悪法を行じて、十方の大阿鼻地獄を経るのみならず、六百億人の檀那等をも十方の地獄に堕しぬ。 鴦堀摩羅は摩尼跋陀が教に随て、九百九十九人の指をきり、結句、母並に仏をがいせんとぎす。 善星比丘は仏の御子、十二部経を受持し、四禅定をえ欲界の結を断じたりしかども、苦得外道の法を習て、生身に阿鼻地獄に堕ちぬ。 提婆が六万蔵八万蔵を暗じたりしかども、外道の五法を行じて現に無間に堕ちにき。 倶伽利比丘が舎利弗・目連をそしりて、生身に阿鼻に堕せし、大族王の五竺の仏法僧をほろぼせし、大族王の舎弟は加■弥羅国の王となりて、健駄羅国の率都婆・寺塔一千六百所をうしなひし、金耳国王の仏法をほろぼせし、 波瑠璃王の九千九十万人の人をころして血ながれて池をなせし、設賞迦王の仏法を滅し菩提樹をきり根をほりし、後周の宇文王の四千六百余所の寺院を失ひ、二十六万六百余の僧尼を還俗せしめし、此等は皆悪師を信じ悪鬼其の身に入りし故なり。 問て云く、天竺・震旦は外道が仏法をほろぼし、小乗が大乗をやぶるとみえたり。此の日本国もしかるべきか。 答て云く、月支・尸那には外道あり、小乗あり。此の日本国には外道なし、小乗の者なし。紀典博士等これあれども、仏法の敵となるものこれなし。 小乗の三宗これあれども、彼宗を用て生死をはなれんとをもはず。但大乗を心うる才覚とをもえり。 但し此の国には大乗の五宗のみこれあり。人人皆をもえらく、彼の宗宗にして生死をはなるべしとをもう故にあらそいも多くいできたり。又檀那の帰依も多くあるゆへに利養の心もふかし。 第四に行者仏法を弘むる用心を明さば。夫れ仏法をひろめんとをもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし。 五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。 第一に教とは、如来一代五十年の説教は大小権実顕密の差別あり。 華厳宗には五教を立て一代ををさめ、其の中には華厳・法華を最勝とし、華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす。 南三北七並に華厳宗の祖師、日本国の東寺の弘法大師此の義なり。 法相宗は三時に一代ををさめ、其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす。 深密・法華の中法華経は了義経の中の不了義経、深密経は了義経の中の了義経なり。 三論宗に又二蔵・三時を立つ。三時の中の第三、中道教とは、般若・法華なり。般若・法華の中には般若最第一なり。 真言宗には日本国に二の流あり。東寺流は弘法大師十住心を立て、第八法華・第九華厳・第十真言。法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり。 天台の真言は慈覚大師等、大日経と法華経とは広略の異。法華経は理秘密、大日経は事理倶密なり。 浄土宗には聖道浄土、難行易行、雑行正行を立てたり。浄土の三部経より外の法華経等の一切経は難行・聖道・雑行なり。 禅宗には二の流あり。一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗なり。一流は如来一代の聖教は皆言説、如来の口輪の方便なり。禅師は如来の意密、言説にをよばず教外の別伝なり。 倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗なり。天竺震旦には小乗宗の者、大乗を破する事これ多し。日本国には其の義なし。 問て云く、諸宗の異義区なり。一一に其の謂れありて得道をなるべきか。又諸宗皆謗法となりて一宗計り正義となるべきか。答て云く、異論相違ありといえども皆得道なるか。 仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王、仏法を貴み、一夏、僧を供し仏法をといしに一一の僧異義多し。此の王不審して云く、仏説は定て一ならんと、終に脇尊者に問ふ。 尊者答て云く、金杖を折て種種の物につくるに、形は別なれども金杖は一なり。形の異なるをば諍ふといへども、金たる事をあらそはず。門門不同なれば、いりかどをば諍へども、入理は一なり等云云。 又求那抜摩云く、諸論各異端なれども修行の理は二無し。偏執に是非有りとも達者は違諍無し等云云。又五百羅漢の真因各異なれども同く聖理をえたり。 大論の四悉檀の中の対治悉檀、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣、此等は此の善を嫌ひ、此の善をほむ。檀戒進等一一にそしり、一一にほむる、皆得道をなる。 此等を以てこれを思ふに、護法・清弁のあらそい、智光・戒賢の空・中、南三北七の頓漸不定、一時・二時・三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、 天台の五時、華厳の五教、真言教の東寺・天台の諍、浄土宗の聖道・浄土、禅宗の教外・教内、入門は差別せりというとも実理に入る事は但一なるべきか。 難じて云く、華厳の五教、法相・三論の三時、禅宗の教外、浄土宗の難行・易行、南三北七の五時等、門はことなりといへども入理一にして、皆仏意に叶ひ謗法とならずといはば、謗法という事あるべからざるか。 謗法とは法に背くという事なり。法に背くと申すは、小乗は小乗経に背き、大乗は大乗経に背く。 法に背かばあに謗法とならざらん。謗法とならばなんぞ苦果をまねかざらん。此の道理にそむくこれひとつ。 大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」。 法華経に云く「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。 涅槃経に云く「世に難治の病三あり。一には四重、二には五逆、三には謗大乗なり」。 此等の経文あにむなしかるべき。此等は証文なり。されば無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師・嵩霊法師等は正法を謗じて、現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌口中に爛れたり。これは現証なり。 天親菩薩は小乗の論を作て諸大乗経をはしき。後に無著菩薩に対して此の罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給ひき。謗法もし罪とならずんば、いかんが千部の論師懺悔をいたすべき。 闡提とは、天竺の語、此には不信と翻す。不信とは、一切衆生悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり。不信とは、謗法の者なり。 恒河の七種の衆生の第一は一闡提謗法常没の者なり。第二は五逆謗法常没等の者なり。あに謗法ををそれざらん。 答て云く、謗法とは、只由なく仏法を謗ずるを謗法というか。我が宗をたてんがために余法を謗ずるは謗法にあらざるか。 摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは、仮令人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり。 而るに小縁にあいて何れの善にてもあれ一善を修せんと申す。これは随喜讃歎すべし。 又善人あり、一生の間ただ一善を修す。而るを他の善えうつさんがためにそのぜんをそしる。一事の中に於て或は呵し或は讃すという、これなり。 大論の四悉檀の中の対治悉檀又これをなじ。浄名経の弾呵と申すは阿含経の時ほめし法をそしるなり。 此等を以てをもふに、或は衆生多く小乗の機あれば、大乗を謗て小乗経に信心をまし、或は衆生多く大乗の機なれば、小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす。 或は衆生弥陀仏に縁あれば、諸仏をそしりて弥陀に信心をまさしめ、或は衆生多く地蔵に縁あれば諸菩薩をそしりて地蔵をほむ。 或は衆生多く華厳経に縁あれば、諸経をそしりて華厳経をほむ。或は衆生・大般若経に縁あれば、諸経をそしりて大般若経をほむ。或は衆生法華経、或は衆生大日経等、同く心うべし。 機を見て或は讃め或は毀る、共に謗法とならず。而るを機をしらざる者、みだりに或は讃め或は呰るは謗法となるべきか。 例せば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の諸経をはして我が宗を立つるは謗法とならざるか。 難じて云く、宗を立てんに諸経諸宗を破し、仏菩薩を讃むるに仏菩薩を破し、他の善根を修せしめんがためにこの善根をはする、くるしからずば、阿含等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経をはしたる文ありや。 華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をはしたる文これありや。 答て云く、阿含小乗経に諸大乗経をはしたる文はなけれども、華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし、涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす。 密厳経には一切経中王ととき、無量義経には四十余年 これらの例一にあらず。故に又彼の経経による人師、皆此の義を存せり。 此等をもつて思ふに、宗を立つる方は我が宗に対して諸経を破るはくるしからざるか。 難じて云く、華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ、密厳経には一切経中王ととかれ、涅槃経には是諸大乗とあげ、阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根とはとかれたれども、 無量義経のごとく四十余年と年限を指して、其の間の大部の諸経、阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて勝劣をとける事これなし。 涅槃経の是諸大乗の文計りこそ、双林最後の経として是諸大乗ととかれたれば、涅槃経には一切経は嫌はるかとをぼうれども、是諸大乗経と挙げて、次ぎ下に諸大乗経を列ねたるに、十二部修多羅・方等・般若等とあげたり。無量義経・法華経をば載せず。 但し無量義経に挙ぐるところは四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあげたり。いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみへず。 密厳に一切経中王とはあげたれども、一切経をあぐる中に華厳・勝鬘等の諸経の名をあげて一切経中王ととく。故に法華経等とはみへず。 阿弥陀経の小善根は時節もなし善根の相貌もみへず。たれかしる、小乗経を小善根というか。又人天の善根を小善根というか。又観経・双観経の所説の諸善を小善根というか。いまだ一代を念仏に対して小善根というとはきこえず。 又大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも、一代の一切経を嫌てその経をほめたる文はなし。 但し無量義経計りこそ前四十余年の諸経を嫌ひ、法華経一経に限て、已説の四十余年・今説の無量義経・当説の未来にとくべき涅槃経を嫌て法華経計りをほめたり。 釈迦如来・過去現在未来の三世の諸仏、世にいで給て各各一切経を説き給ふに、いづれの仏も法華経第一なり。 例せば上郎下郎不定なり。田舎にしては、百姓・郎従等は侍を上郎といふ。洛陽にして、源平等已下を下郎といふ。三家を上郎といふ。 又主を王といはば百姓も宅中の王なり。地頭・領家等も又村郷郡国の王なり。しかれども大王にはあらず。 小乗経には無為涅槃の理が王なり。小乗の戒定等に対して智恵は王なり。諸大乗経には中道の理が王なり。 又華厳経は円融相即の王、般若経は空理の王、大集経は守護正法の王、 法華経は真諦俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願、一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり。これ教をしれる者なり。 而るを善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三北七・ 但し一切の人師の中には、天台智者大師一人教をしれる人なり。 彼本論に難行の内に法華真言等を入ると謂は僻案なり。論主の心と論の始中終をしらざる失あり。 慈恩が深密経の三時に一代ををさめたる事、又本経の三時に一切経の摂らざる事をしらざる失あり。 法蔵・澄観等が五教に一代ををさむる中に、法華経・華厳経を円教と立て、又華厳経は法華経に勝れたりとをもえるは、所依の華厳経に 三論の嘉祥の二蔵等、又法華経に般若経すぐれたりとをもう事は僻案なり。 善無畏等が大日経は法華経に勝れたりという。法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもしらざる者なり。 問て云く、此等皆謗法ならば悪道に堕ちたるか如何。答て云く、謗法に上中下雑の謗法あり。慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は上中の謗法か。其上自身も謗法としれるかの間、悔還す筆これあるか。 又他師をはするに二あり。能破・似破これなり。教はまさりとしれども、是非をあらはさんがために、法をはす、これは似破なり。 能破とは、実にまされる経を劣とをもうてこれをはす、これは悪能破なり。又現にをとれるをはす、これ善能破なり。 但し脇尊者の金杖の譬は、小乗経は多しといえども同じ苦・空・無常・無我の理なり。 諸人同く此の義を存じて、十八部・二十部相ひ諍論あれども、但門の諍にて理の諍にはあらず。故に共に謗法とならず。 外道が小乗経を破するは、外道の理は常住なり、小乗経の理は無常なり空なり。故に外道が小乗経をはするは謗法となる。 大乗経の理は中道なり。小乗経は空なり。小乗経の者が大乗経をはするは謗法となる。大乗経の者が小乗経をはするは破法とならず。 諸大乗経の中の理は未開会の理、いまだ記小久成これなし。法華経の理は開会の理、記小久成これあり。 諸大乗経の者が法華経をはするは謗法となるべし。法華経の者の諸大乗経を謗するは謗法となるべからず。 大日経・真言宗は未開会、記小久成なくば法華経已前なり。開会・記小・久成を許さば涅槃経とをなじ。 但し善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門をぬすめるか。若し爾らば、善無畏等の謗法は似破か、又雑謗法か。 五百羅漢の真因は小乗十二因縁の事なり。無明・行等を縁として空理に入ると見へたり。門は諍へども謗法とならず。 摂論の四意趣・大論の四悉檀等は、無著菩薩・ 未開会の四意趣・四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、あに謗法にあらずや。此等をよくよくしるは教をしれる者なり。 四句あり。一に信而不解、二に解而不信、三に亦信亦解、四に非信非解。 問て云く、信而不解の者は謗法なるか。答て云く、法華経に云く「信を以て入ることを得」等云云。涅槃経の九に云く。 難じて云く、涅槃経三十六に云く「我契経の中に於て説く、二種の人有り仏法僧を謗ずと。一には、不信にして瞋恚の心あるが故に、二には、信ずと雖も義を解せざるが故に。 善男子、若し人信心あつて智恵有ること無き、是の人は則ち能く無明を増長す。若し智恵有て信心あること無き、是の人は則ち能く邪見を増長す。 善男子、不信の人は瞋恚の心あるが故に、説て仏法僧宝有ること無しと言はん。信者は恵無く、顛倒して義を解するが故に、法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ」等云云。此の二人の中には信じて解せざる者を謗法と説く如何。 答て云く、此の信而不解の者は涅槃経の三十六に恒河の七種の衆生の第二の者を説くなり。此の第二の者は涅槃経の一切衆生悉有仏性の説を聞て之を信ずと雖も又不信の者なり。 問て云く、如何ぞ信ずと雖も不信なるや。答て云く、一切衆生悉有仏性の説を聞て之を信ずと雖も、又心を爾前の経に寄する一類の衆生をば無仏性の者と云ふなり。此れ信而不信の者なり。 問て云く、証文如何。答て云く、恒河第二の衆生を説て云く、経に云く「是くの如き大涅槃経を聞くことを得て信心を生ず。是を名けて出と為す」と。 又云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉く之有らず。是の故に名けて信不具足と為す」文。 此の文の如くんば、口には涅槃を信ずと雖も、心に爾前の義を存する者なり。 又此の第二の人を説て云く「信ずる者にして恵無く、顛倒して義を解するが故に」等云云。顛倒解義とは、実経の文を得て権経の義を覚る者なり。 問て云く、信而不解得道の文如何。答て云く、涅槃経の三十二に云く「是れ菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば已に摂尽す」文。 九に云く「此の経を聞き已て悉く皆菩提の因縁と作る。法声光明毛孔に入る者は必定して当に阿耨多羅三貎三菩提を得べし」等云云。法華経に云く「信を以て入ることを得」等云云。 問て云く、解而不信の者は如何。答ふ、恒河の第一の者なり。 問て云く、証文如何。答て云く、涅槃経の三十六に第一を説て云く「人有て是の大涅槃経の如来常住 無有変易 常楽我浄を聞くとも、終に畢竟して涅槃の一切衆生悉有仏性に入らざるは一闡提の人なり。 方等経を謗じ五逆罪を作り四重禁を犯すとも、必ず当に菩提の道を成ずることを得べし。須陀■の人・斯陀含の人・阿那含の人・阿羅漢の人・辟支仏等必ず当に阿○菩提を成ずることを得べし。是の語を聞き已て不信の心を生ず」等云云。 問て云く、此の文不信とは見えたり。解而不信とは見えず如何。答て云く、第一の結文に云く「若し智恵有て信心有ること無き、是の人は則ち能く邪見を増長す」文。 |