松野殿女房御返事
松野殿女房御返事弘安二年六月二十日の概要 【弘安二年六月二十日、松野六郎左衛門妻女、聖寿五十八歳、真筆断存】 麦一箱・いゑのいも一篭・うり(瓜)一篭・旁の物、六月三日に給ひ候しを、今まで御返事申し候はざりし事恐れ入て候。 此の身延の沢と申す処は、甲斐の国の飯井野・御牧・波木井の三箇郷の内、波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候。 北には身延の嶽天をいただき、南には鷹取が嶽雲につづき、東には天子の嶽日とたけをな(同)じ。西には又峨峨として大山つづきて、しらね(白根)の嶽にわたれり。猿のなく音天に響き、蝉のさゑづり地にみてり。 天竺の霊山此の処に来れり、唐土の天台山親りここに見る。我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に 但し有待の依身なれば、著ざれば風身にしみ、食ざれば命持ちがたし。灯に油をつがず、火に薪を加へざるが如し。命いかでかつぐべきやらん。 命続きがたく、つぐべき力絶えては、或は一日乃至五日、既に法華経読誦の音も絶えぬべし、止観のまど(窓)の前には草しげりなん。かくの如く候に、いかにして思ひ寄らせ給ひぬらん。 兎は経行の者を供養せしかば、天帝哀みをなして月の中にをかせ給ひぬ。今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。 されば女人の御身として、かかる濁世末代に、法華経を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覧じ、帝釈は掌を合はせてをがませ給ひ、地神は御足をいただきて喜び、釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給ふらん。 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。 弘安二年己卯六月二十日 日蓮花押 |