御輿振御書
御輿振御書の概要 【文永六年三月一日、三位房日行、聖寿四十八歳、真筆−断存】 御文並に御輿振の日記給ひ候ひぬ。悦び入て候。 中堂炎上の事其の義に候か。山門破滅の期其の節に候か。此等も其の故無きに非ず。 天竺には祇園精舎・■頭摩寺、漢土には天台山、正像二千年の内に以て滅尽せり。 今末法に当て日本国計りに叡山有り。三千界の中の但此の処のみ有るか。定めて悪魔一跡に嫉を留むるか。小乗権教の輩も之を妬むか。 随て禅僧・律僧・念仏者王臣に之を訴へ、三千人の大衆は我が山破滅の根源とも知らず、師檀共に破国破仏の因縁に迷へり。 但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳 於閻浮提 広宣流布」の文か。 又伝教大師の「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」の釈なり。 滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか。事事紙面に尽し難し。早早見参を期す。謹言。 三月一日 日蓮花押 御返事 |