妙法比丘尼御返事
妙法比丘尼御返事の概要 【弘安元年九月六日、妙法比丘尼、聖寿五十七歳】 御文に云く、たふかたびら(太布帷)一つ、あによめ(嫂)にて候女房のつたうと云云。又おはり(尾張)の次郎兵衛殿、六月二十二日に死なせ給ふと云云。 付法蔵経と申す経は、仏、我が滅後に我が法を弘むべきやうを説かせ給て候。其の中に我が滅後正法一千年が間、次第に使をつかはすべし。 第一は迦葉尊者二十年、第二は阿難尊者二十年、第三は商那和修二十年、乃至第二十三は師子尊者なりと云云。 其の第三の商那和修と申す人の御事を仏の説かせ給て候やうは、商那和修と申すは衣の名なり。此の人生れし時、衣をきて生れて候ひき。不思議なりし事なり。 六道の中に、地獄道より人道に至るまでは何なる人も始はあかはだかにて候に、天道こそ衣をきて生れ侯へ。 たとひ何なる賢人聖人も人に生るるならひは皆あかはだかなり。一生補処の菩薩すら尚はだかにて生れ給へり。何かに況や其の外をや。 然るに此の人は商那衣と申すいみじき衣にまとはれて生れさせ給ひしが、此の衣は血もつかず、けがるる事もなし。譬へば池に蓮のをひ、をし(鴦)の羽の水にぬれざるが如し。 此の人次第に生長ありしかば、又此の衣次第に広く長くなる。冬はあつく、夏はうすく、春は青く、秋は白くなり候し程に、長者にてをはせしかば何事もともしからず。 後には仏の記しをき給ひし事たがふ事なし。故に阿難尊者の御弟子とならせ給て御出家ありしかば、此の衣変じて五条・七条・九条等の御袈裟となり候き。 かかる不思議の候し故を仏の説かせ給ひしやうは、乃往過去阿僧祇劫の当初、此の人は商人にて有りしが、五百人の商人と共に大海に船を浮べてあきなひをせし程に、海辺に重病の者あり。しかれども辟支仏と申して貴人なり。先業にてやありけん。 病にかかりて、身やつれ心をぼれ、不浄にまとはれてをはせしを、此の商人あはれみ奉りて、ねんごろに看病して生しまいらせ、不浄をすすぎすてて麁布の商那衣をきせまいらせてありしかば、此聖人悦て願して云く、汝我を助けて身の恥を隠せり。 此の衣を今生後生の衣とせん、とてやがて涅槃に入り給ひき。 此の功徳によりて過去無量劫の間、人中天上に生れ生るる度ごとに、此の衣身に随て離るる事なし。 乃至今生に釈迦如来の滅後第三の付属をうけて、商那和修と申す聖人となり、摩突羅国の優留荼山と申す山に大伽藍を立てて、無量の衆生を教化して仏法を弘通し給ひし事二十年なり。 所詮商那和修比丘の一切のたのしみ不思議は皆彼の衣より出生せりとこそ説かれて候へ。 而るに日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。此の国は仏の世に出でさせ給ひし国よりは東に当て二十万余里の外、遥なる海中の小島なり。而るに仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。 月氏・漢土の人の此の国の人人を見候へば、此の国の人の伊豆の大島・奥州の東のえぞ(夷)なんどを見るやうにこそ候らめ。 而るに日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。 此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るる身とならんと思て候し程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱へ候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑ひし故に一の願をおこす。 日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はばや。 又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。 此等の宗宗枝葉をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国寺寺あらあら習ひ回り候し程に、一の不思議あり。 我れ等がはかなき心に推するに、仏法は唯一味なるべし。いづれもいづれも心に入れて習ひ願はば、生死を離るべしとこそ思て候に、仏法の中に入て悪しく習ひ候ぬれば、謗法と申す大なる穴に堕ち入て、 十悪五逆と申して日日夜夜に殺生・偸盗・邪淫・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず、 人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思ふ程に、十悪五逆の罪人よりもつよく地獄に堕て、阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ。 譬へば人ありて世にあらんがために、国主につかへ奉る程に、させるあやまちはなけれども、我心のたらぬ上、身にあやしきふるまひかさなるを、猶我身にも失ありともしらず、 又傍輩も不思議ともをもはざるに、后等の御事によりてあやまつ事はなけれども、自然にふるまひあしく、王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、謀反の者よりも其の失重し。 此の身とがにかかりぬれば、父母兄弟所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。 謗法と申す罪をば、我もしらず、人も失とも思はず、但仏法をならへば貴しとのみ思て候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も、無間地獄に堕つる事あり。 又彼の比丘に近づきて弟子となり檀那となる人人、存の外に大地微塵の数よりも多く地獄に堕て、師とともに苦を受けしぞかし。 此の人後世のために衆善を修せしより外は又心なかりしかども、かかる不祥にあひて候しぞかし。 かかる事を見候しゆへに、あらあら経論を勘へ候へば、日本国の当世こそ其に似て候へ。 代末になり候へば、世間のまつり事のあらきにつけても世の中あやうかるべき上、此の日本国は他国にもにず、仏法弘まりて国をさまるべきかと思て候へば、中中仏法弘まりて世もいたく衰へ、人も多く悪道に堕つべしと見へて候。 其の故は日本国は月氏・漢土よりも堂塔等の多き中に大体は阿弥陀堂なり。 其の上、家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像に書き、人毎に六万八万等の念仏を申す。又他方を抛て西方を願ふ。 愚者の眼にも貴しと見え候上、一切の智人も皆いみじき事なりとほめさせ給ふ。 又人王五十代桓武天皇の御宇に、弘法大師と申す聖人此の国に生れて、漢土より真言宗と申すめずらしき法を習ひ伝へ、平城・嵯峨・淳和等の王の御師となりて東寺・高野と申す寺を建立し、 又慈覚大師・智証大師と申す聖人、同じく此の宗を習ひ伝へて、叡山・園城寺に弘通せしかば、日本国の山寺一同に此の法を伝へ、今に真言を行ひ鈴をふりて、公家・武家の御祈をし候。 是は古も御たのみある上、当世の国主等、家には柱、天には日月、河には橋、海には船の如く御たのみあり。 禅宗と申すは又当世の持斎等を建長寺等にあがめさせ給て、父母よりも重んじ、神よりも御たのみあり。されば一切の諸人頭をかたぶけ手をあさふ。 かかる世にいかなればにや候らん。天変と申して彗星長く東西に渡り、地夭と申して大地をくつがへすこと大海の船を大風の時大波のくつがへすに似たり。 大風吹て草木をからし、飢饉も年年にゆき、疫病月月におこり、大旱魃ゆきて河池田畠皆かはきぬ。 此くの如く三災七難数十年起て民半分に減じ、残りは或は父母、或は兄弟、或は妻子にわかれて歎く声秋の虫にことならず。家家のちりうする事冬の草木の雪にせめられたるに似たり。 是はいかなる事ぞと経論を引き見候へば仏の言く、法華経と申す経を謗じ、我れを用ひざる国あらばかかる事あるべし、と仏の記しをかせ給て候御言にすこしもたがひ候はず。 日蓮疑て云く、日本には誰か法華経と釈迦仏をば謗ずべきと疑ふ。又たまさか謗ずる者は少少ありとも、信ずる者こそ多くあるらめと存じ候。 爰に此の日本国に、人ごとに阿弥陀堂をつくり、念仏を申す。其の根本を尋ぬれば、 此の三人の念仏を弘めさせ給ひし時にのたまはく、未有一人得者、千中無一、捨閉閣抛等云云。 いふこころは、阿弥陀仏をたのみ奉らん人は一切の経・一切の仏・一切の神をすてて、但阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申すべし。 其の上ことに法華経と釈迦仏を捨てまいらせよとすすめしかば、やすきままに案もなくばらばらと付き候ぬ。 一人付き始めしかば万人皆付き候ひぬ。万人付きしかば上は国主、中は大臣、下は万民一人も残る事なし。さる程に此の国存の外に釈迦仏・法華経の御敵人となりぬ。 其故は「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是吾が子なり。而も今此処は諸の患難多し、唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説て、此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり。 天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり。何かに況や其の神と王との眷属等をや。 今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財ぞかし。全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず。 又日本国の天神・地神・九十余代の国主並に万民牛馬、生きと生ける生ある者は皆教主釈尊の一子なり。 又日本国の天神・地神・諸王・万民等の天地・水火・父母・主君・男女・妻子・黒白等を弁へ給ふは皆教主釈尊、御教の師なり。全く薬師・阿弥陀等の御教にはあらず。 されば此の仏は我等がためには大地よりも厚く、虚空よりも広く、天よりも高き御恩まします仏ぞかし。 かかる仏なれば王臣万民倶に人ごとに父母よりも重んじ、神よりもあがめ奉るべし。 かくだにも候はば、何なる大科有りとも天も守護してよもすて給はじ、地もいかり給ふべからず。 然るに上一人より下万人に至るまで、阿弥陀堂を立て阿弥陀仏を本尊ともてなす故に、天地の御いかりあるかと見え候。 譬へば此の国の者が漢土・高麗等の諸国の王に心よせなりとも、此の国の王に背き候なば其の身はたもちがたかるべし。 今日本国の一切衆生も是の如し。西方の国主、阿弥陀仏には心よせなれども、我が国主、釈迦仏に背き奉る故に、此の国の守護神いかり給ふかと愚案に勘へ候。 而るを此の国の人人、阿弥陀仏を或は金、或は銀、或は銅、或は木画等に志を尽くし、仏事をなし、法華経と釈迦仏をば或は墨画、或は木像にはく(箔)をひかず、或は草堂に造りなんどす。 例せば他人をば志を重ね、妻子をばもてなして、父母におろかなるが如し。 又真言宗と申す宗は上一人より下万民に至るまで此れ仰ぐ事日月の如し。此を重んずる事珍宝の如し。 此の宗の義に云く、大日経には法華経は二重三重の劣なり。釈迦仏は大日如来の眷属なりなんど申す。 此の事は弘法・慈覚・智証の仰せられし故に、今四百余年に叡山・東寺・園城・日本国の智人一同の義なり。 又禅宗と申す宗は真実の正法は 譬へば月をさす指、渡りの後の船、彼岸に到てなにかせん。月を見ては指は用事ならず等云云。 彼の人人謗法ともをもはず、習ひ伝へたるままに存の外に申すなり。 然れども此の言は釈迦仏をあなづり、法華経を失ひ奉る因縁となりて、此の国の人人皆一同に五逆罪にすぎたる大罪を犯しながら、而も罪ともしらず。 此大科次第につもりて、人王八十二代隠岐の法皇と申せし王並に佐渡の院等は、我が相伝の家人にも及ばざりし相州鎌倉の義時と申せし人に、代を取られさせ給ひしのみならず、島島にはなたれて歎かせ給ひしが、終には彼の島島にして隠れさせ給ひぬ。 神ひは悪霊となりて地獄に堕ち候ひぬ。其の召仕はれし大臣已下は或は頭をはねられ、或は水火に入り、其の妻子等は或は思ひ死に死に、或は民の妻となりて今五十余年、其の外の子孫は民のごとし。 是れ偏に真言と念仏等をもてなして法華経・釈迦仏の大怨敵となりし故に、天照太神・正八幡等の 而るに又代東にうつりて年をふるままに、彼の国主を失ひし真言宗等の人人鎌倉に下り、相州の足下にくぐり入りて、やうやうにたばかる故に、本は上臈なればとて、すかされて鎌倉の諸堂の別当となせり。 又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあがめ、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。 隠岐の法皇の果報の尽き給ひし失より百千万億倍すぎたる大科、鎌倉に出来せり。 かかる大科ある故に、天照太神・正八幡等の天神・地祇、釈迦・多宝・十方の諸仏一同に大にとがめさせ給ふ故に、隣国に聖人有て、万国の兵をあつめたる大王に仰せ付けて、日本国の王臣万民を一同に罰せんとたくませ給ふを、 日蓮かねて経論を以て勘へ候ひし程に、此れを有りのままに申さば、国主もいかり万民も用ひざる上、念仏者・禅宗・律僧・真言師等定めて忿りをなしてあだを存じ、 王臣等に讒奏して我が身に大難おこりて、弟子乃至檀那までも少しも日蓮に心よせなる人あらば科になし、我が身もあやうく命にも及ばんずらん。 いかが案もなく申し出すべきとやすらひし程に、外典の賢人の中にも、世のほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣とて、へつらへる者不知恩の人なり。 されば賢なりし竜逢・ 仏法の中には仏いましめて云く、法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし。 譬へば父母を人の殺さんとせんを子の身として父母にしらせず、王をあやまち奉らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんがごとし、なんど禁められて候。 されば仏の御使たりし提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をはねられ、竺の道生は蘇山へ流され、法道は面にかなやき(火印)をあてられき。此等は皆仏法を重んじ、王法を恐れざりし故ぞかし。 されば賢王の時は、仏法をつよく立つれば、王両方を聞あきらめて勝れ給ふ智者を師とせしかば、国も安穏なり。 大族王・優陀延王・武宗・欽宗・欽明・用明、或は鬼神外道を崇重し、或は道士を帰依し、或は神を崇めし故に、釈迦仏の大怨敵となりて、身を亡ぼし世も安穏ならず。其の時は聖人たりし僧侶大難にあへり。 今日本国すでに大謗法の国となりて、他国にやぶらるべしと見えたり。 此れを知りながら申さずば、縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし。 後生を恐れて申すならば、流罪死罪は一定なりと思ひ定めて、去ぬる文応の比、故最明寺入道殿に申し上げぬ。 されども用ひ給ふ事なかりしかば、念仏者等此の由を聞て、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に、かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知て理不尽に伊豆の国へ流し給ひぬ。 されば極楽時殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし。其の後何程もなくして召し返されて後、又経文の如く弥よ申しつよる。 又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる。日蓮御勘気の時申せしが如く、どしうち(同士打)はじまりぬ。それを恐るるかの故に又召し返されて候。 しかれども用ゆる事なければ、万民も弥弥悪心盛んなり。縦ひ命を期として申したりとも、国主用ひずば国やぶれん事疑なし。 つみしらせて後用ひずば我が失にはあらずと思て、去ぬる文永十一年五月十二日相州鎌倉を出でて、六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず。既に五箇年をへたり。 本は房州の者にて候ひしが、地頭東条左衛門尉景信と申せしもの、極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて、結句は合戦起りて候上、極楽寺殿の御方人理をまげられしかば、東条の郡ふせがれて入る事なし。 父母の墓を見ずして数年なり。 又国主より御勘気二度なり。第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に、九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候ひき。 いかがして候ひけん、月の如くにをはせし物江の島より飛び出でて使の頭へかかり候ひしかば、使おそれてきらず。とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頚はのがれぬ。 又佐渡の国にてきらんとせし程に、日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ。 使はしり下て頚をきらず。結句はゆるされぬ。今は此の山に独りすみ候。 佐渡の国にありし時は、里より遥にへだたれる野と山との中間につかはら(塚原)と申す御三昧所あり。 彼処に一間四面の堂あり。そら(空)はいたま(板間)あはず、四壁はやぶれたり。雨はそと(外)の如し、雪は内に積もる。仏はおはせず。筵畳は一枚もなし。 然れども我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手ににぎり、蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず、食もあたへずして四箇年なり。 彼の蘇武が胡国にとめられて十九年が間、蓑をき雪を食としてありしが如し。 今又此の山に五箇年あり。北は身延山と申して天にはしだて、南はたかとりと申して鶏足山の如し。西はなないたがれと申して鉄門に似たり。東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり。四の山は屏風の如し。 "北に大河あり、早河と名づく、早き事箭をいるが如し。南に河あり、波木井河と名づく大石を木の葉の如く流す。東には富士河、北より南へ流れたり、せんのほこ(鉾)をつくが如し。内に滝あり、身延の滝と申す、白布を天より引くが如し。" 此の内に狭小の地あり、日蓮が庵室なり。深山なれば昼も日を見奉らず、夜も月を詠むる事なし。 峰にははかう(巴峡)の猿かまびすしく、谷には波の下る音鼓を打つがごとし。地にはしかざれども大石多く、山には瓦礫より外には物なし。 国主はにくみ給ふ、万民はとぶらはず。冬は雪道を塞ぎ、夏は草をひしげり、鹿の遠音うらめしく、蝉の鳴く声かまびすし。 訪ふ人なければ命もつぎがたし。はだへ(肌)をかくす衣も候はざりつるに、かかる衣ををくらせ給へるこそ、いかにとも申すばかりなく候へ。 見し人聞きし人だにもあはれとも申さず。年比なれし弟子、つかへし下人だにも、皆にげ失せとぶらはざるに、聞きもせず、見もせぬ人の御志哀れなり。 偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給ひけるか。十羅刹の人の身に入りかはりて思ひよらせ給ふか。 唐の代宗皇帝の代に、蓬子将軍と申せし人の御子、李如暹将軍と申せし人、勅定を蒙て北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ、胡国に生け取られて四十年。漸くへし程に、妻をかたらひ子をまうけたり。 胡地の習ひ、生取をば皮の衣を服せ、毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす。一年ごとに漢土を恋て肝をきり涙をながす。 而る程に唐の軍おこりて唐の兵胡地をせめし時、ひまをえて胡地の妻子をふりすててにげしかば、唐の兵は胡地のえびすとて捕へて頚をきらんとせし程に、 とかうして徳宗皇帝にまいらせてありしかば、いかに申せども聞もほどかせ給はずして、南の国呉越と申す方へ流されぬ。 李如暹歎て云く、進ては涼原の本郷を見ることを得ず、退ては胡地の妻子に逢ふことを得ず云云。 此の心は胡地の妻子をもすて、又唐の古き栖をも見ず。あらぬ国に流されたりと歎くなり。我が身には大忠ありしかどもかかる歎きあり。 日蓮も又此の如し。日本国を助けばやと思ふ心に依て申し出す程に、我が生れし国をもせかれ、又流されし国をも離れぬ。すでに此の深山にこもりて候が彼の李如暹に似て候なり。 但し本郷にも流されし処にも妻子なければ歎く事はよもあらじ。唯父母のはか(墓)と、なれし人人のいかがなるらんとをぼつかなしとも申す計りなし。 但うれしき事は、武士の習ひ君の御為に宇治・勢多を渡し、前をかけなんどしてありし人は、たとひ身は死すれども名を後代に挙げ候ぞかし。 日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ、戦をし、身に手をおひ、弟子等を殺され、両度まで遠流せられ、既に頚に及べり。是れ偏に法華経の御為なり。 法華経の中に仏説かせ給はく、我が滅度の後、後の五百歳二千二百余年すぎて此の経閻浮提に流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち、所をうつし、或はころしなんどすべし。 其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし。我れ又因位の難行苦行の功徳を譲るべしと説かせ給ふ〈取意〉。 されば過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給ひしに、比丘比丘尼等の智恵かしこく二百五十戒を持てる大僧ども集まりて、優婆塞・優婆夷をかたらひて、不軽菩薩をのり打ちせしかども、退転の心なく弘めさせ給ひしかば、終には仏となり給ふ。 昔の不軽菩薩は今の釈迦仏なり。それをそねみ打ちなんどせし大僧どもは千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。 彼の人人は観経・阿弥陀経等の数千の経、一切の仏名・阿弥陀念仏を申し法華経を昼夜に読みしかども、実の法華経の行者をあだみしかば、法華経・念仏・戒等も助け給はず、千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。 彼の比丘等は始には不軽菩薩をあだみしかども、後には心をひるがへして、身を不軽菩薩に仕ふる事、やつこ(奴僕)の主に随ふがことく有りしかども、無間地獄をまぬかれず。 今又日蓮にあだをせさせ給ふ日本国の人人も此の如し。此は彼には似るべくもなし。彼は罵り打ちしかども国主の流罪はなし。杖木瓦石はありしかども疵をかほり頚までには及ばず。 是は悪口杖木は二十余年が間ひまなし。疵をかほり、流罪、頚に及ぶ。 弟子等は或は所領を召され、或はろう(牢)に入れ、或は遠流し、或は其の内を出だし、或は田畠を奪ひなんどする事、夜打・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者よりもはげしく行はる。 此又偏に真言・念仏者・禅宗等の大僧等の訴なり。されば彼の人人の御失は大地よりも厚ければ、此の大地は大風に大海に船を浮べるが如く動転す。 天は八万四千の星瞋りをなし、昼夜に天変ひまなし。其の上、日月に天変多し。 仏滅後既に二千二百二十七年になり候に、大族王が五天の寺をやき、十六の大国の僧の頚を切り、武宗皇帝の漢土の寺を失ひ、仏像をくだき、 日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火を以てやき、僧尼を打ちせめては還俗せさせし時も、是程の彗星・大地震はいまだなし。彼には百千万倍過て候大悪にてこそ候ひぬれ。 彼は王一人の悪心、大臣以下は心より起る事なし。又権仏と権経との敵なり。僧も法華経の行者にはあらず。 是は一向に法華経の敵、王一人のみならず、一国の智人並に万民等の心より起れる大悪心なり。 譬へば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く、身の毛さかさまにたち、五体ふるひ、面に炎あがり、かほ(顔)は朱をさしたるが如し。 眼まろになりて、ねこ(猫)の眼のねづみ(鼠)をみるが如し。手わななきて、かしわ(柏)の葉を風の吹くに似たり。かたはらの人是を見れば大鬼神に異ならず。日本国の国主・諸僧・比丘・比丘尼等も又是の如し。 たのむところの弥陀念仏をば、日蓮が無間地獄の業と云ふを聞き、真言は亡国の法と云ふを聞き、持斎は天魔の所為と云ふを聞て、念珠をくりながら歯をくひちがへ、鈴をふるにくび(頚)をどりたり、戒を持ちながら悪心をいだく。 極楽寺の生仏の良観聖人、折紙をささげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿に乗て奉行人にひざまづく。 諸の五百戒の尼御前等ははく(帛)をつかひて、でんそう(伝奏)をなす。 是偏に法華経を読てよまず、聞てきかず。善導・法然が千中無一と弘法・慈覚・達磨等の皆是戯論、 法華最第一の経文を見ながら、大日経は法華経に勝れたり、禅宗は最上の法なり、律宗こそ貴けれ、念仏こそ我等が分にはかなひたれ、と申すは酒に酔へる人にあらずや。 星を見て月にすぐれたり、石を見て金にまされり、東を見て西と云ひ、天を地と申す物ぐるひを本として、月と金は星と石とには勝れたり、東は東、天は天なんど有りのままに申す者をばあだませ給はば、勢の多きに付くべきか、只物ぐるひの多く集まれるなり。 されば此等を本とせし云ふにかひなき男女の、皆地獄に堕ちん事こそあはれに候へ。 涅槃経には仏説き給はく、末法に入て法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説かれたり。 此れを以て計らせ給ふべし。日本国の諸人は爪の上の土、日蓮一人は十方の微塵にて候べきか。 然るに何なる宿習にてをはすれば御衣をば送らせ給ふぞ。爪の上の土の数に入らんとをぼすか。 又涅槃経に云く、大地の上に針を立てて、大風の吹かん時、大梵天より糸を下さんに、糸のはし(端)すぐに下て針の穴に入る事はありとも、末代に法華経の行者にはあひがたし。 法華経に云く、大海の底に亀あり。三千年に一度海上にあがる、栴檀の浮木の穴にゆきあひてやすむべし。而るに此の亀一目なるが、而も僻目にて、西の物を東と見、東の物を西と見るなり。 末代悪世に生れて法華経並に南無妙法蓮華経の穴に身を入るる男女にたとへ給へり。 何なる過去の縁にてをはすれば、此の人をとふらはんと思食す御心はつかせ給ひけるやらん。 法華経を見まいらせ候へば、釈迦仏の其の人の御身に入らせ給てかかる心はつくべしと説かれて候。 譬へばなにとも思はぬ人の、酒をのみてえいぬれば、あらぬ心出で来り、人に物をとらせばやなんど思ふ心出で来る。 此は一生慳貪にして餓鬼に堕つべきを、其の人の酒の縁に菩薩の入りかはらせ給ふなり。 濁水に珠を入れぬれば水すみ、月に向ひまいらせぬれば人の心あこがる。 画にかける鬼には心なけれどもおそろし。とわり(後妻)を画にかけば我が夫をばとらねどもそねまし。 錦のしとね(褥)に蛇をおれるは服せんとも思はず。身のあつきにあたたかなる風いとはし。 人の心も此くの如し。法華経の方へ御心をよせさせ給ふは女人の御身なれども、竜女が御身に入らせ給ふか。 さては又尾張の次郎兵衛尉殿の御事。見参に入て候ひし人なり。 日蓮は此の法門を申し候へば、他人にはにず多くの人に見て候へども、いとをしと申す人は千人に一人もありがたし。 彼の人はよも心よせには思はれたらじなれども、自体人がらにくげなるふりなく、よろづの人になさけあらんと思ひし人なれば、心の中はうけずこそをぼしつらめども、見参の時はいつわりをろかにて有りし人なり。 又女房の信じたるよしありしかば、実とは思ひ候はざりしかども、又いとう法華経に背く事はよもをはせじなれば、たのもしきへんも候。 されども法華経を失ふ念仏並に念仏者を信じ、我が身も多分は念仏者にてをはせしかば後生はいかがとをぼつかなし。 譬へば国主はみやづかへ(宮仕)のねんごろなるには、恩のあるもあり、又なきもあり。少しもをろかなる事候へばとがになる事疑なし。 法華経も又此くの如し。いかに信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも、知れ知らざれ、まじはりぬれば無間地獄は疑なし。 是はさてをき候ぬ。彼の女房の御歎いかがとをしはかるにあはれなり。 たとへばふじ(藤)のはな(花)のさかんなるが、松にかかりて思ふ事もなきに、松のにはか(俄)にたふれ、つた(蔦)のかき(垣)にかかれるが、かき(垣)の破れたるが如くにをぼすらん。 内へ入れば主なし。やぶれたる家の柱なきが如し。客人来れども外に出でてあひしらうべき人もなし。 夜のくらきには、ねや(閨)すさまじく、はか(墓)をみれば、しるしはあれども声もきこへず。 又思ひやる死出の山・三途の河をば誰とか越え給ふらん。只独り歎き給ふらん。 とどめをきし御前たちいかに我をばひとりやるらん。さはちぎ(契)らざりとや歎かせ給ふらん。 かたがた秋の夜のふけゆくままに、冬の嵐のをとづるる声につけても、弥弥御歎き重り候らん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 弘安元年戌寅九月六日 日蓮花押 妙法尼御前御かたへ |