南条殿御返事
南条殿御返事建治二年正月十九日の概要 【建治二年正月十九日、南条時光、聖寿五十五歳】 はる(春)のはじめの御つかひ、自他申しこめまいらせ候。 さては給はるところのすずの物の事、もちゐ(餅)七十まい(枚)・さけひとつつ(酒一筒)・いもいちだ(芋一駄)・河のりひとかみぶくろ(一紙袋)・だいこんふたつ(大根二)・やまのいも七ほん等なり。 ねんごろの御心ざしは、しなじなのものにあらはれ候ひぬ。 法華経の第八の巻に云く「所願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」。又云く「当に現世に於て現の果報を得べし」等云云。 天台大師云く「天子の一言虚しからず」。又云く「法王虚しからず」等云云。 賢王となりぬれば、たとひ身をほろぼせどもそら事せず。いわうや釈迦如来は普明王とおはせし時は、はんぞく(班足)王のたて(館)へ入らせ給ひき。不妄語戒を持たせ給ひしゆへなり。 かり(迦梨)王とおはせし時は、「実語少人大妄語入地獄」とこそおほせありしか。 いわうや法華経と申すは、仏、我と「要当説真実」となのらせ給ひし上、多宝仏・十方の諸仏あつまらせ給て、日月衆星のならばせ給ふがごとくに候ひしざせき(座席)なり。 法華経にそら事あるならば、なに事をか人信ずべき。かかる御経に一華一香をも供養する人は、過去に十万億の仏を供養する人なり。 又釈迦如来の末法に世のみだれたらん時、王臣万民心を一にして一人の法華経の行者をあだまん時、此の行者かんぱち(旱魃)の小水に魚のすみ、万人にかこまれたる鹿のごとくならん時、 一人ありてとぶらはん人は、生身の教主釈尊を、一劫が間、三業相応して供養しまいらせたらんよりなお功徳すぐるべきよし、如来の金言分明なり。 日は赫赫たり、月は明々たり。法華経の文字はかくかくめいめいたり。 めいめいかくかくたるあきらかなる鏡にかを(顔)をうかべ、すめる水に月のうかべるがごとし。 しかるに、「亦於現世 得其福報」の勅宣、「当於現世 得現果報」の鳳詔、南条の七郎次郎殿にかぎりてむなしかるべしや。 日は西よりいづる世、月は地よりなる時なりとも、仏の言むなしからじとこそ定めさせ給ひしか。 これをもつておもふに、慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給ひ、だんな(檀那)は又現世に大果報をまねかん事、疑ひあるべからず。かうじん、かうじん。 建治二年正月十九日 日蓮花押 南条殿御返事 |