新池殿御消息

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新池殿御消息の概要

【弘安二年五月二日、新池新左衛門、聖寿五十八歳】 
八木三石送り給ひ候。
今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉て、南無妙法蓮華経と只一遍唱へまいらせ候ひ畢ぬ。
いとをしみの御子を、霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。
抑因果のことはりは華と果との如し。千里の野の枯れたる草に、蛍火の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草二草十百千万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ。
竜は一■の水を手に入れて天に昇りぬれば、三千世界に雨をふらし候。
小善なれども、法華経に供養しまいらせ給ひぬれば功徳此くの如し。
仏滅後一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき。一閻浮提(いちえんぶだい)八万四千の国を四分が一御知行ありき。竜王をしたがへ、鬼神を召し仕はせ給ふ。
六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て、十万億の金を仏に供養し奉らんと誓はせ給ひき。
かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば、ただ土の餅一釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし。
釈迦仏の伯父に斛飯王と申す王をはします。彼の王に太子あり、阿那律となづく。
此の太子生れ給ひしに御器一つ持ち出でたり。彼の御器に飯あり。食すれば又出でき、又出でき、終に飯つくる事なし。
故にかの太子のをさな名をば如意となづけたり。法華経にて仏に成り給ふ普明如来是なり。
此の太子の因位を尋ぬれば、うへたる世にひえ(稗)の飯を辟支仏と申す僧に供養せし故ぞかし。
辟支仏を供養する功徳すら此くの如し。況や法華経の行者を供養せん功徳は、無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり。
抑日蓮は日本国の者なり。此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり。十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国あり。
其の中に月氏国と申す国は大国なり。彼の国に五天竺あり。其れより東海の中に小島あり、日本国是なり。中天竺よりは十万余里の東なり。
仏教は仏滅度後、正法一千年が間は天竺にとどまりて余国にわたらず。
正法一千年の末、像法に入て一十五年と申せしに漢土へ渡る。漢土に三百年すぎて百済国に渡る。
百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに、人王三十代欽明天皇の御代に、日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡て候ひき。今七百余年に及び候。
其の間一切経は五千余巻或は七千余巻なり、宗は八宗九宗十宗なり。
国は六十六箇国、二つの島。神は三千余社、仏は一万余寺なり。男女よりも僧尼は半分に及べり。仏法の繁昌は漢土にも勝れ、天竺にもまされり。
但し仏法に入て諍論あり。浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし、真言の人人は大日如来を本尊とす。禅宗の人人は経と仏とをば閣て達磨を本尊とす。
余宗の人人は念仏者・真言等に随ヘられ、何れともなけれども、つよきに随ひ多分に押されて、阿弥陀仏を本尊とせり。
現在の主師親たる釈迦仏を閣て、他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしをねがはせ給ひ候。阿弥陀仏は親ならず、主ならず、師ならず。
されば一経の内、虚言の四十八願を立て給ひたりしを、愚かなる人人実と思て、物狂はしく金拍子をたたき、おどりはねて念仏を申し、親の国をばいとひ出でぬ。
来迎せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず。中有のたびの空に迷て、謗法の業にひかれて、三悪道と申す獄屋へおもむけば、獄卒・阿防・羅刹、悦びをなし、とらへからめて、さひなむ事限りなし。
これをあらあら経文に任せてかたり申せば、日本国の男女四十九億九万四千八百二十八人ましますが、某一人を不思議なる者に思て、余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成て、
主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり或はうち、或は処を追ひ、或は讒言して流罪し死罪に行はるれば、
貧なる者は富めるをへつらひ、賎き者は貴きを仰ぎ、無勢は多勢にしたがう事なれば、適法華経を信ずる様なる人人も、世間をはばかり人を恐れて、多分は地獄へ堕つる事不便なり。
但し日蓮が愚眼にてやあるらん。又宿習にてや候らん。「法華経最第一」、「已今当説 難信難解(なんしんなんげ)」、「唯我一人 能為救護」と説かれて候文は如来の金言なり。敢て私の言にはあらず。
当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ、或は法華経に肩を並べて斉しと思ひ、或は勝れたり、或は劣るなれども機にかなへりと思へり。
しかるに如来の聖教に随他意・随自意と申す事あり。譬へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。
諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。
諸経は仏説なれども、是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる。
譬へば白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆に白き物を入るれば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる、故に妙法と申す。
然るに今の人人は高きも賎きも、現在の父たる釈迦仏をばかろしめて、他人の縁なき阿弥陀・大日等を重んじ奉るは、是れ不孝の失にあらずや、是謗法の人にあらずや、と申せば日本国の人一同に怨ませ給ふなり。
其もことはりなり。まがれる木はすなをなる縄をにくみ、いつはれる者はただしき政りごとをば心にあはず思ふなり。
我が朝人王九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり。所謂、大山の王子・大石の小丸、乃至将門・すみとも(純友)・悪左府等なり。
此等の人人は吉野とつ(十津)河の山林にこもり、筑紫・鎮西の海中に隠るれば、島島のえびす、浦浦のもののふどもうたんとす。
然れどもそれは貴き聖人、山山・寺寺・社社の法師、尼、女人はいたう敵と思ふ事なし。
日蓮をば上下の男女・尼・法師・貴き聖人なんど云はるる人人は殊に敵となり候。
其の故はいづれも後世をば願へども、男女よりは僧尼こそ願ふ由はみえ候へ。
我等は往生はさてをきぬ。今生の世をわたるなかだち(中人)となる故なり。
智者聖人又我好我勝たりと申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くしてまめやかに、道心は軽し。
仏法はひがさまに心得て愚痴の人なり、謗法の人なりと、言をも惜まず人をも憚らず、当知是人仏法中怨の金言を恐れて、我是世尊使処衆無所畏と云ふ文に任せていたくせむる間、未得謂為得、我慢心充満の人人争かにくみ嫉まざらんや。
されば日蓮程、天神七代・地神五代・人王九十余代に、いまだ此れ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり。
かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に、此まで御渡り候ひし事、おぼろげの縁にはあらず。宿世の父母か、昔の兄弟にておはしける故に思ひ付かせ給ふか。
又過去に法華経の縁深くして、今度仏にならせ給ふべきたね(種)の熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の公事のひまに思ひ出ださせ給ひけるやらん。
其の上遠江の国より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり。宿宿のいぶせさ、嶺に昇れば日月をいただき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。
河の水は矢を射るが如く早し。大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひたせるが如し。
男は山かつ、女は山母の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし。かかる所へ尋ね入らせ給て候事、何なる宿習なるらん。
釈迦仏は御手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随ひ、日月は眼となりかはらせ給て入らせ給ひけるにや。ありがたしありがたし。
事多しと申せども、此の程風おこりて身苦しく候間、留め候ひ畢ぬ。
弘安二年己卯五月二日  日蓮花押 
新池殿御返事 

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