乙御前御消息
乙御前御消息の概要 【建治元年八月四日、乙御前、聖寿五十四歳】 漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は、三皇・五帝・三王、乃至大公望・周公旦・老子・孔子つくらせ給て候ひし文を、或は経となづけ、或は典等となづく。 此の文を披て人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ、王臣を定めて、世をおさめしかば、人もしたがひ、天も納受をたれ給ふ。 此れにたがいし子をば不孝の者と申し、臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏教わたりし時、或一類は用ふべからずと申し、或一類は用ふべしと申せし程に、あらそひ出来て召し合せたりしかば、外典の者負けて、仏弟子勝ちにき。 其の後は外典の者と仏弟子を合せしかば、氷の日にとくるが如く、火の水に滅するが如く、まくるのみならず、なにともなき者となりしなり。 又仏経漸くわたり来りし程に、仏経の中に又勝劣浅深候ひけり。所謂小乗経・大乗経、顕経・密経、権経・実経なり。 譬へば一切の石は金に対すれば一切の金に劣れども、又金の中にも重重あり。一切の人間の金は閻浮檀金には及び候はず。 閻浮檀金は梵天の金には及ばざるがごとく、一切経は金の如くなれども、又勝劣浅深あるなり。 小乗経と申す経は世間の小船のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども、百千人は乗せず。設ひ二人三人等は乗すれども、此岸につけて彼岸へは行きがたし。又すこしの物をば入るれども、大なる物をば入れがたし。 大乗と申すは大船なり。人も十・二十人も乗る上、大なる物をもつみ、鎌倉よりつくし(筑紫)みち(陸奥)の国へもいたる。 実経と申すは又彼の大船の大乗経にはにるべくもなし。大なる珍宝をもつみ、百千人のりてかうらい(高麗)なんどへもわたりぬべし。一乗法華経と申す経も又是くの如し。 提婆達多と申すは閻浮第一の大悪人なれども、法華経にして天王如来となりぬ。 又 竜女と申せし蛇体の女人は、法華経を文殊師利菩薩説き給ひしかば、仏になりぬ。 其の上、仏説には悪世末法と時をささせ給て、末代の男女にをくらせ給ひぬ。 此れこそ唐船の如くにて候一乗経にてはおはしませ。されば一切経は外典に対すれば石と金との如し。 又一切の大乗経、所謂華厳経・大日経・観経・阿弥陀経・般若経等の諸の経経を法華経に対すれば、螢火と日月と華山と蟻塚との如し。 経に勝劣あるのみならず、大日経の一切の真言師と法華経の行者とを合すれば、水に火をあはせ露と風とを合するが如し。 犬は師子をほうれば腸くさる。修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る。 一切の真言師は犬と修羅との如く、法華経の行者は日輪と師子との如し。 氷は日輪の出でざる時は堅き事金の如し。火は水のなき時はあつき事鉄をやけるが如し。 然れども夏の日にあひぬれば堅氷のとけやすさ。あつき火の水にあひてきへやすさ。 一切の真言師は気色のたうとげさ、智恵のかしこげさ、日輪をみざる者の堅き氷をたのみ、水をみざる者の火をたのめるが如し。 当世の人人の蒙古国をみざりし時のおごりは、御覧ありしやうにかぎりもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし。 きこしめししやうに、日蓮一人計りこそ申せしが、よせて(寄手)だにきたる程ならば、面をあはする人もあるべからず。 但さるの犬ををそれ、かゑる(蛙)の蛇ををそるるが如くなるべし。 是れ偏に釈迦仏の御使ひたる法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等ににくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれ(悪)をかほれる国なる故に、皆人臆病になれるなり。 譬へば火が水をおそれ、木が金をおぢ、雉が鷹をみて魂を失ひ、ねずみが猫にせめらるるが如し。 一人もたすかる者あるべからず。其の時はいかがせさせ給ふべき。軍には大将軍を魂とす。大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり。 女人は夫を魂とす。夫なければ女人魂なし。此の世に夫ある女人すら、世の中渡りがたふみえて候に、魂もなくして世を渡らせ給ふが、魂ある女人にもすぐれて心中かひがひしくおはする上、神にも心を入れ、仏をもあがめさせ給へば、人に勝れておはする女人なり。 鎌倉に候ひし時は念仏者等はさてをき候ひぬ。 法華経を信ずる人人は、志あるもなきも知られ候はざりしかども、御勘気をかほりて佐渡の島まで流されしかば、問ひ訪ふ人もなかりしに、女人の御身としてかたがた御志ありし上、我と来り給ひし事、うつつ(現)ならざる不思議なり。 其の上いま(今)のまう(詣)で、又申すばかりなし。定めて神もまほらせ給ひ、十羅刹も御あはれみましますらん。 法華経は女人の御ためには、暗きにともしび、海に船、おそろしき所にはまほりとなるべきよし、ちかはせ給へり。 羅什三蔵は法華経を渡し給ひしかば、毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり。道昭法師野中にして法華経をよみしかば、無量の虎来て守護しき。 此れも又彼にはかはるべからず。地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給ふ上、人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。 所謂一をば同生天と云ひ、二をば同名天と申す。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。 されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮て神の守り則ち強し」等云云。人の心かたければ、神のまほり必ずつよしとこそ候へ。 是は御ために申すぞ。古への御心ざし申す計りなし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。 其の時は弥弥十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし。例には他を引くべからず。 日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべし、とおぼすべし。 一つ船に乗りぬれば、船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ、又身つよき人も、心かひなければ多くの能も無用なり。 日本国にはかしこき人人はあるらめども、大将のはかり事つたなければかひなし。 壱岐・対馬・九ケ国のつはもの並に男女、多く或はころされ、或はとらはれ、或は海に入り、或はがけ(崖)よりおちしもの、いくせんまん(幾千万)と云ふ事なし。 又今度よせなば、先にはにるべくもあるべからず。京と鎌倉とは但壱岐・対馬の如くなるべし。前にしたくしていづくへもにげさせ給へ。 其の時は昔し日蓮を見じ聞かじと申せし人人も、掌をあはせ法華経を信ずべし。念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし。 抑法華経をよくよく信したらん男女をば、肩にになひ、背におうべきよし、経文に見えて候上、くまらゑん(鳩摩羅■)三蔵と申せし人をば木像の釈迦をはせ給て候ひしぞかし。日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給ひぬ。 昔と今と一同なり。各各は日蓮が檀那なり。争か仏にならせ給はざるべき。 いかなる男をせさせ給ふとも、法華経のかたきならば随ひ給ふべからず。 いよいよ強盛の御志あるべし。氷は水より出でたれども水よりもすさまじ。青き事は藍より出でたれどもかさぬれば藍よりも色まさる。 同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり、利生もあるべきなり。 木は火にやかるれども栴檀の木はやけず。火は水にけさるれども仏の涅槃の火はきえず。華は風にちれども浄居の華はしぼまず。水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず。 檀弥羅王と申せし悪王は、月氏の僧の頚を切りしに、とがなかりしかども、師子尊者の頚を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき。 弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時、十二神の棒にかふべ(頭)わられにき。 今日本国の人人は法華経のかたきとなりて、身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり。 かう申せば日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり。さにはあらず。是を云はずば法華経の行者にはあらず。又云ふ事の後にあへばこそ人も信ずれ。 かうただか(書)きを(置)きなばこそ、未来の人は智ありけりとはしり候はんずれ。 又 法華経弘まるならば、死かばね(屍)還て重くなるべし。かばね重くなるならば、此のかばねは利生あるべし。利生あるならば、今の八幡大菩薩といははるるやうにいはうべし。 其の時は日蓮を供養せる男女は、武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしとおぼしめせ。 抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや。何に況や 法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは、是諸の天人、世間之眼なり」等云云。法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候。 日本国の人の日蓮をあだみ候は、一切世間の天人の眼をくじる人なり。 されば天もいかり日日に天変あり。地もいかり月月に地夭かさなる。 天の帝釈は野干を敬て法を習ひしかば、今の教主釈尊となり給ひ、雪山童子は鬼を師とせしかば、今の三界の主となる。大聖上人は形を賎て法を捨てざりけり。 今日蓮おろかなりとも、野干と鬼とに劣るべからず。当世の人いみじくとも、帝釈・雪山童子に勝るべからず。 日蓮が身の賎きについて巧言を捨てて候故に、国既に亡びんとするかなしさよ。 又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ。 いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし。見奉らん。山中にて共にうえ死にし候はん。 又乙御前こそ、おとなしくなりて候らめ。いかにさかしく候らん。又又申すべし。 八月四日 日蓮花押 乙御前へ |