立 正 観 抄
立 正 観 抄の概要 【文永十一年、最蓮房、聖寿】 法華止観同異決 日蓮撰 当世天台の教法を習学ずるの輩多く観心修行を貴て法華本迹二門を捨つと見えたり。 今問ふ、抑観心修行と言ふは天台大師の 若し達磨の禅観に依るといわば、教禅は 祖師達磨禅は 若し天台の止観、一心三観に依るとならば、止観一部の廃立、天台の本意に背くべからざるなり。若し止観修行の観心に依るとならば、法華経に背くべからず。 止観一部は法華経に依て建立す。一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり。 故に知ぬ。法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを。 其の故は天台の一心三観とは、法華経に依て三昧開発ずるを己心証得の止観とは云ふ故なり。 問ふ、天台大師止観一部並に一念三千・一心三観己心証得の妙観は併しながら法華経に依ると云ふ証拠如何。 答ふ、予反詰して云く、法華経に依らずと見えたる証文如何。 人之を出して云く「此の止観は天台智者己心中所行の法門を説く。或は又故に止観に至て正く観法を明かす。並に三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云へり、良に以有るなり」文。 難じて云く、此の文は全く法華経に依らずと云ふ文に非ず。既に説己心中所行の法門と云ふが故なり。 天台の所行の法門は法華経なるが故に。此の意は法華経に依ると見えたる証文なり。 但し他宗に対するの時は問答大綱を存すべきなり。所謂云ふべし、若し天台の止観・法華経に依らずといわば速かに捨つべきなりと。 其の故は、天台大師兼ねて約束して云く「修多羅と合せば録して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず」云云。伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文。 竜樹の大論に云く「修多羅に依るは白論なり、修多羅に依らざるは黒論なり」文。教主釈尊云く「依法不依人」文。 天台は、法華経に依り竜樹を高祖にしながら、経文に違し我が言を飜じて外道邪見の法に依て、止観一部を釈する事全く有るべからざるなり。 問ふ、正しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや。答ふ、余りに多きが故に少少之を出さん。 止観に云く「漸と不定とは置て論ぜず。今経に依て更に円頓を明かさん」文。 弘決に云く「法華経の旨を攅て不思議十乗十境待絶滅絶寂照の行を成ず」文。 止観大意に云く「今家の教門は竜樹を以て始祖と為す。恵文は但内観を列ねて視聴するのみ。南岳・天台に及て、復法華三昧陀羅尼を発するに因て、義門を開拓して観法周備す。 ○若し法華を釈するには弥弥須く権実本迹を暁了すべし方に行を立つべし。此の経独り妙と称することを得。方に此に依て以て観意を立つべし。 五方便及び十乗軌行と言ふは即ち円頓止観全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」文。 文句の記に云く「観と経と合すれば他の宝を数ふるに非ず。方に知ぬ、止観一部は是れ法華三昧の筌■なり。若し斯の意を得れば方に経旨に会ふ」云云。 唐土の人師行満の釈せる学天台宗法門大意に云く「 問ふ、天台四種の釈を作るの時、観心の釈に至て本迹の釈を捨つと見えたり。 又法華経は漸機の為に之を説き、止観は直達の機の為に之を説くと、如何。 答ふ、漸機の為に説けば劣り頓機の為に説けば勝るとならば今の天台宗の意は華厳真言等の経は法華経に勝れたりと云ふべきや。 今の天台宗の浅■さは、真言は事理倶密の教なる故に法華経に勝れたりと謂へり。故に止観は法華に勝ると云へるも道理なり、道理なり。 次に観心の釈の時本迹を捨つと云ふ難は、法華経何れの文人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや。 設ひ天台の釈なりとも、釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆべからざるなり。 依法不依人の故に、竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり。 其上天台の釈の意は、迹の大教起れば爾前の大教亡じ、本の大教興れば迹の大教亡じ、観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは、本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、 今像法の修行は観心修行を詮と為るに、迹を尋ぬれば迹広し、本を尋ぬれば本高して極むべからず、故に末学機に叶ひ難し、但己心の妙法を観ぜよと云ふ釈なり。然りと雖も妙法を捨てよとは釈せざるなり。 若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ずべきや。如意宝珠を捨て瓦石を取て宝と為すべきか。悲しいかな。 当世天台宗の学者は、念仏・真言・禅宗等に同意するが故に、天台の教釈を習ひ失て法華経に背き、大謗法の罪を得るなり。若し止観を法華経に勝ると云はば種種の過之有り。 止観は天台の道場所得の己証なり。法華経は釈尊の道場所得の大法なり〈是一〉。 釈尊は妙覚果満の仏なり。天台は住前未証なれば名字観行相似には過ぐべからず。四十二重の劣なり〈是二〉。 法華は釈尊乃至諸仏出世の本懐なり。止観は天台出世の己証なり〈是三〉。 法華経は多宝の証明あり。来集の分身は広長舌を大梵天に付く、皆是真実の大白法なり。止観は天台の説法なり〈是四〉。 是くの如き等の種種の相違之有れども仍お之を略するなり。 又一つの問答に云く、所被の機上機なる故に勝ると云はば実を捨てて権を取れ。天台云く「教弥弥権なれば位弥弥高し」と釈し給ふ故なり。 所被の機下劣なる故に劣ると云はば権を捨てて実を取れ。天台の釈には「教弥弥実なれば位弥弥下し」と云ふ故なり。 然而して止観は上機の為に之を説き、法華は下機の為に之を説くと云はば、止観は法華に劣れる故に機を高く説くと聞えたり。 実にさもや有るらん。天台大師は霊山の聴衆として、如来出世の本懐を宣べたもうと雖も、時至らざるが故に妙法の名字を替へて止観と号す。 迹化の衆なるが故に、本化の付属を弘め給はず。正直の妙法を止観と説きまぎらかす。故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり。 正直 故に知ぬ、天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し。本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり。 止観・法華は全く体同と云はん、尚人師の釈を以て仏説に同ずる失甚重なり。 何に況や止観は法華経に勝ると云ふ邪義を申し出すは、但是れ本化の弘経と迹化の弘通と、像法と末法と、迹門の付属と本門の付属とを、末法の行者に云ひ顕はさせん為の仏天の御計いなり。 爰に知ぬ。当世天台宗の中に此の義を云ふ人は、祖師天台の為には不知恩の人なり。豈其の過を免れんや。 夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け、今漢土に在ては天台と名け、日本国の中にては伝教と名く。三世の弘通倶に妙法と名く。 是くの如く法華経を弘通し給ふ人は、在世の釈尊より外は、三国に其の名を聞かず。 有り難く御坐します大師を、其の末学其の教釈を悪く習て失無き天台に失を懸けたてまつる。豈大罪に非ずや。 今問ふ、天台の本意は何法ぞや。碩学等の云く「一心三観是なり」。 今云く、一実円満の一心三観とは、誠に甚深なるに似たれども、尚以て行者修行の方法なり。三観とは因の義なるが故なり。 慈覚大師の釈に云く「三観とは法体を得せしめんが為の修観なり」云云。 伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云。 故に知ぬ。一心三観とは果地果徳の法門を成ぜんが為の能観の心なることを。 何に況や三観とは言説に出でたる法なる故に、如来の果地果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり。 問ふ、一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや。答ふ、此の事誠に一大事の法門なり。唯仏与仏の境界なるが故に、我等が言説に出すべからざるが故に、是を申すべからざるなり。 是を以て経文には「我が法は妙にして思ひ難し言を以て宣ぶべからず」云云。 妙覚果満の仏すら尚不可説不思議の法と説き給ふ、何に況や等覚の菩薩已下乃至凡夫をや。 問ふ、名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや。 答ふ、天台己証の法とは是なり。当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らざるなり。故に相構へ相構へて、秘すべく秘すべき法門なり。 然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり。一言の法是なり。伝教大師の「一心三観一言に伝ふ」と書き給ふ是なり。 問ふ、未だ其の法体を聞かず如何。答ふ、所詮一言とは妙法是なり。 問ふ、何を以て妙法は一心三観に勝れたりと云ふ事を知ることを得るや。答ふ、妙法は所詮の功徳なり。三観は行者の観門なる故なり。 此の妙法を仏説て言く「道場所得法、我法妙難思、是法非思量、不可以言宣」云云。 天台の云く「妙とは不可思議・言語道断・心行所滅なり、法とは十界十如・因果不二の法なり」と。 三諦と云ふも三観と云ふも三千と云ふも共に不思議法とは云へども、天台の己証、天台の御思慮の及ぶ所の法門なり。此の妙法は諸仏の師なり。 今の経文の如くならば、 経に「唯仏与仏 乃能究尽」とは、迹門の界如三千の法門をば、迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり。 本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず。何に況や菩薩・凡夫をや。 止観の二字をば「観名仏知・止名仏見」と釈すれども、迹門の仏智・仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり。 其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦・三観を正と為す。迹門の正意是なり。故に知ぬ。迹仏の知見なりと云ふ事を。 但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云へども、只一念三千の妙観に且らく与へて絶待不思議と名けるなり。 問ふ、天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや。答ふ、内証爾らざるなり。外用に於ては之を弘通したまわざるなり。所謂内証の辺をば秘して、外用には三観と号して、一念三千の法門を示現し給ふなり。 問ふ、何が故ぞ知り乍ら弘通し給はざるや。答ふ、時至らざるが故に、付属に非ざるが故に、迹化なるが故なり。 問ふ、天台此の一言の妙法を証得し給へる証拠之有りや。答ふ、此の事天台一家の秘事なり。世に流布せる学者之を知らず。 灌頂玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り。天台御入滅の後は石塔の中に之有り。 伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き、道邃和尚より伝受し給ふ血脈とは是なり。此の書に云く「一言の妙旨一教の玄義」文。 伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは両眼を開て五塵の境を見る時は随縁真如なるべし。両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし。故に此の一言を聞くに万法 此の両大師の血脈の如くならば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。 一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり。三観は因の義、妙法は果の義なり。 但因の処に果有り果の処に因有り、因果倶時の妙法を観ずるが故に是くの如き功能を得るなり。 爰に知ぬ。天台至極の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立てて最秘の大法とすと云へる邪義、大なる僻見なりと云ふ事を。 四依弘経の大薩■は既に仏経に依て諸論を造る。天台何ぞ仏説に背て無念の止観を立てたまわんや。 若し此の止観・法華経に依らずといわば、天台の止観・ 伝教大師の云く「国主の制に非ざれば以て遵行する無く。法王の教に非ざれば以て信受すること無けん」と文。 又云く「四依論を造るに権有り実有り。三乗旨を述ぶるに三有り一有り。所以に天台智者は三乗の旨に順じて四教の階を定め、一実の教に依て一仏乗を建つ。 六度に別有り。戒度何ぞ同じからん。受法同じからず。威儀豈同じからんや。是の故に天台の伝法は深く四依に依り亦仏経に順ふ」文。 本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む。若し天台の止観・法華経に依らずと云はば、日本に於ては伝教の高祖に背き、漢土に於ては天台に背く。両大師の伝法既に法華経に依る。豈其の末学之に違せんや。 違するを以て知ぬ。当世の天台家の人人其の名を天台山に借ると雖も、所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云ふ事。 天台・伝教の解釈の如くんば己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり。 然而当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失て、我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り、錦の袋に入れて頚に懸け、箱の底に埋めて高直に売る故に、邪義国中に流布して、天台の仏法破失するなり。 天台の本意を失ひ、釈尊の妙法を下す。是れ偏に達磨の教訓、善無畏の勧なり。 故に止観をも知らず、一心三観・一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、相待・絶待の二妙をも知らず、法華の妙観をも知らず、教相をも知らず、権実をも知らず、四教八教をも知らず、五時五味の施化をも知らず。 教機時国相応の義は申すに及ばず。実教にも似ず、権教にも似ざるなり。道理なり道理なり。 天台・伝教の所伝は法華経は禅真言より劣れりと習ふ故に、達磨の邪義真言の妄語と打ち成て権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂せざるなり。 故に大謗法罪顕れて、止観は法華経に勝ると云ふ邪義を申し出して過無き天台に失を懸けたてまつる。 故に高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。 夫れ天台の観法を尋ぬれば大蘇道場に於て三昧開発せしより已来、目を開て妙法を思へば随縁真如なり。目を閉じて妙法を思へば不変真如なり。 此の両種の真如は只一言の妙法に有り。我妙法を唱ふる時万法 所詮迹門を尋ぬれば迹広く、本門を尋ぬれば本高し、如かじ己心の妙法を観ぜんにはと思食されしなり。 当世の学者此の意を得ざるが故に、天台己証の妙法を習ひ失て、止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思て、法華経を捨てて止観に付き、止観を捨てて禅宗に付くなり。 禅宗の一門云く「松に藤懸る、松枯れ、藤枯れて後如何。上らずして一打」なんど云へる天魔の語を深く信ずる故なり。 修多羅の教主は松の如く、其の教法は藤の如し。各各に諍論すと雖も仏も入滅して教法の威徳も無し。 爰に知ぬ。修多羅の仏教は月を指す指なり、禅の一法のみ独妙なり。之を観ずれば見性得達するなりと云ふ大謗法の天魔の所為を信ずる故なり。 然而法華経の仏は寿命無量・常住不滅の仏なり。禅宗は滅度の仏と見るが故に外道の無の見なり。「是法住法位 世間相常住」の金言に背く僻見なり。 禅は法華経の方便、無得道の禅なるを真実常住法と云ふが故に外道の常見なり。 若し与へて之を言はば仏の方便三蔵の分斉なり。若し奪て之を言はば但外道の邪法なり。与は当分の義、奪は法華の義なり。法華の奪の義を以ての故に禅は天魔外道の法と云ふなり。 問ふ、禅を天魔の法と云ふ証拠如何。答ふ、前前に申すが如し。 |