三三蔵祈雨事
三三蔵祈雨事の概要 【建治元年六月二十二日、聖寿五十四歳、真筆−完存】 夫れ木をうえ候には、大風吹き候へども、つよきすけをかひぬればたうれず。本より生て候木なれども、根の弱きはたうれぬ。 甲斐無き者なれども、たすくる者強ければたうれず。すこし健の者も独なれば悪しきみちにはたうれぬ。 又、三千大千世界のなかには舎利弗・迦葉尊者をのぞいては、仏よ(世)にいで給はずば、一人もなく三悪道に堕つべかりしが、仏をたのみまいらせし強縁によりて、一切衆生はをほく仏になりしなり。 まして されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わが智恵なにかせん。ただあつきつめたきばかりの智恵だにも候ならば、善知識たいせち(大切)なり。 而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり。されば仏は善知識に値ふ事をば一眼のかめ(亀)の浮木に入り、梵天よりいと(糸)を下て大地のはり(針)のめ(目)に入るにたとへ給へり。 而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上の土よりもすくなし。 補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識、別円二教ををしへていまだ純円ならず。 常啼菩薩は身をうて善知識をもとめしに、曇無竭菩薩にあへり。通別円の三教をならひて、法華経ををしへず。 舎利弗は金師が善知識、九十日と申せしかば闡提の人となしたりき。ふるな(富楼那)は一夏の説法に大乗の機を小人となす。 大聖すら法華経をゆるされず、証果のらかん(羅漢)機をしらず。末代悪世の学者等をば此をもつてすひしぬべし。 天を地といゐ、東を西といゐ、火を水とをしへ、星は月にすぐれたり、ありづか(蟻塚)は須弥山にこへたり、なんど申す人人を信じて候はん人人はならはざらん悪人にはるかをとりてをしかりぬべし。 日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。 而るに去る五年の比、東には俘囚をこり、西には蒙古よりせめつかいつきぬ。 日蓮案じて云く、仏法を信ぜざればなり。定めて調伏をこなはれずらん。調伏は又真言宗にてぞあらんずらん。 月支・漢土・日本三箇国の間に且く月支はをく。漢土・日本の二国は真言宗にやぶらるべし。 善無畏三蔵、漢土に亘てありし時は、唐の玄宗の時なり。大旱魃ありしに祈雨の法ををほせつけられて候しに、大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に、須臾ありて大風吹き来りて国土をふきやぶりしかば、けをさめてありしなり。 又、其の世に金剛智三蔵わたる。又雨の御いのりありしかば、七日が内に大雨下り、上のごとく悦てありし程に、前代未聞の大風吹きしかば、真言宗はをそろしき悪法なりとて月支へをわれしが、とかうしてとどまりぬ。 又、同じ御世に不空三蔵雨をいのりし程、三日が内に大雨下る。悦さきのごとし。又大風吹てさき二度よりもをびただし、数十日とどまらず。 不可思議の事にてありしなり。此は日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり。しらんとをもはば、日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ。 日本国には天長建治元年二月に大旱魃あり。弘法大師も神泉苑にして祈雨あるべきにてありし程に、守敏と申せし人すすんで云く「弘法は下臈なり我は上臈なり。まづをほせをかほるべし」と申す。 こうに随て守敏をこなう。七日と申すには大雨下りしかども京中計りにて田舎にふらず。 弘法にをほせつけられてありしかば、七日にふらず、二七日にふらず、三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給ひき。 而るを東寺の門人等、我が師の雨とがうす。くはしくは日記をひきて習ふべし。天下第一のわうわく(誑惑)のあるなり。 これより外に弘仁九年の春のえきれい(疫癘)、又三古なげたる事に不可思議の誑惑あり、口伝すべし。 天台大師は陳の世に大旱魃あり、法華経をよみて須臾に雨下り、王臣かうべをかたぶけ、万民たなごころ(掌)をあはせたり。 しかも大雨にもあらず、風もふかず、甘雨にてありしかば、陳王大師の御前にをはしまして、内裏へかへらんことをわすれ給ひき。此の時、三度の礼拝はありしなり。 去る弘仁九年の春大旱魃ありき。嵯峨の天王、真綱と申す臣下をもつて冬嗣のとり申されしかば、法華経・ 三日と申せし日、ほそきくも(雲)、ほそきあめ(雨)しづしづと下りしかば、天子あまりによろこばせ給て、日本第一のかたことたりし大乗の戒壇はゆるされしなり。 伝教大師の御師、護命と申せし聖人は南都第一の僧なり。四十人の御弟子あいぐして仁王経をもつて祈雨ありしが、五日と申せしに雨下りぬ。 五日はいみじき事なれども、三日にはをとりて而かも雨あらかりしかば、まけにならせ給ひぬ。此をもつて弘法の雨をばすひせさせ給ふべし。 かく法華経はめでたく、真言はをろかに候に、日本のほろぶべきにや、一向真言にてあるなり。 隠岐の法王の事をもつてをもうに、真言をもつて蒙古とえぞ(俘囚)とをでうぶく(調伏)せば、日本国やまけんずらんとすひせしゆへに、此の事いのちをすてていゐてみんとをもひしなり。 いゐし時はでしら(弟子等)せいせしかども、いまはあひぬれば心よかるべきにや。 漢土・日本の智者五百余年の間、一人もしらぬ事をかんがへて候なり。 善無畏・金剛智・不空等の祈雨に雨は下て而も大風のそひ候は、いかにか心へさせ給ふべき。 外道の法なれども、いうにかひなき道士の法にも雨下る事あり。まして仏法は小乗なりとも、法のごとく行ふならば、いかでか雨下らざるべき。 いわうや大日経は華厳・般若にこそをよばねども、阿含にはすこしまさりて候ぞかし。いかでかいのらんに雨下らざるべき。 されば雨は下て候へども、大風のそいぬるは大なる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし。 弘法大師の三七日に雨下らずして候を、天子の雨を我が雨と申すは、又善無畏等よりも大にまさる失のあるなり。 第一の大妄語には弘法大師の自筆に云く「弘仁九年の春、疫れい(癘)をいのりてありしかば、夜中に日いでたり」云云。かかるそらごと(妄語)をいう人なり。 此の事は日蓮が門家第一の秘事なり。本文をとりつめていうべし。仏法はさてをきぬ。上にかきぬる事天下第一の大事なり。 つてにをほせあるべからず。御心ざしのいたりて候へばをどろかしまいらせ候。 日蓮をばいかんがあるべかるらんと、をぼつかなしとをぼしめすべきゆへ、にかかる事ども候。 むこり(蒙古)国だにもつよくせめ候はば、今生にもひろまる事も候ひなん。あまりにはげしくあたりし人人は、くゆるへんもやあらんずらん。 外道と申すは仏前八百年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしが、やうやくわかれて九十五種なり。 其の中に多くの智者神通のものありしかども、一人も生死をはなれず。 又帰依せし人人も、善につけ悪につけて皆三悪道に堕ち候ひしを、仏出世せさせ給てありしかば、九十五種の外道、十六大国の王臣諸民をかたらひて、或はのり、或はうち、或は弟子、或はだんな(檀那)等無量無辺ころせしかども、仏たゆむ心なし。 我此の法門を諸人にをどされていゐやむほどならば、一切衆生地獄に堕つべしとつよくなげかせ給ひしゆへに退する心なし。 この外道と申すは先仏の経経を見てよみそこないて候ひしより事をこれり。 今も又かくのごとし。日本の法門多しといへども源は八宗・九宗・十宗よりをこれり。 十宗のなかに華厳等の宗宗はさてをきぬ。真言と天台との勝劣に、弘法・慈覚・智証のまどひしによりて、日本国の人人、今生には他国にもせめられ、後生にも悪道に堕つるなり。 漢土のほろび、又悪道に堕つる事も、善無畏・金剛智・不空のあやまりよりはじまれり。 又、天台宗の人人も慈覚智証より後は、かの人人の智恵にせか(塞)れて天台宗のごとくならず。さればさのみやはあるべき。 いわうや日蓮はかれにすぐべきとわが弟子等をぼせども、仏の記文にたがはず、末法に入て仏法をばうじ、無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、正法をへたらん人は爪上の土よりもすくなしと涅槃経にはとかれ、 法華経には設ひ須弥山をなぐるものはありとも、我が末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたしと、記しをかせ給へり。 大集経・金明光経・仁王経・守護経・はちなひをん(般泥■)経・最勝王経等に、末法に入て正法を行ぜん人出来せば、邪法のもの王臣等にうたへてあらんほどに、 彼の王臣等、他人がことばにつひて一人の正法のものを、或はのり、或はせめ、或はながし、或はころさば、梵王帝釈無量の諸天、天神地神等、りんごく(隣国)の賢王の身に入りかはりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。今の世は似て候者かな。 抑各各はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ。能く能く過去を御尋ね有らば、なにと無くとも此度生死は離れさせ給ふべし。 すりはむどく(須梨槃特)は三箇年に十四字を暗にせざりしかども、仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ。 是れ偏に末代の今の世を表するなり。敢て人の上と思し食すべからず。事繁ければ止め置き候ひ畢ぬ。 抑当時の怱怱に御志申す計り候はねば、大事の事あらあらをどろかしまひらせ候。 ささげ(大角豆)・青大豆給ひ候ひぬ。 六月二十二日 日蓮花押 西山殿御返事 |