四条金吾殿御返事
四条金吾殿御返事弘安二年九月十五日の概要 【弘安二年九月十五日、四条頼基、聖寿五十八歳、真筆曽存】 銭一貫文給て、頼基がまいらせ候とて、法華経の御宝前に申し上げて候。 定めて遠くは教主釈尊並に多宝十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給ふも、御照覧候ぬらん。 さては、人のよにすぐれんとするをば、賢人聖人とをぼしき人人も皆そねみねたむ事に候。いわうや常の人をや。 漢皇の王昭君をば三千のきさき(后)是をそねみ、帝釈の九十九億那由佗のきさきは■尸迦をねたむ。 前の中書王をばをの(小野)の宮の大臣是をねたむ。北野の天神をば時平のをとど(大臣)是をざんそう(讒奏)して流し奉る。此等をもてをぼしめせ。 入道殿の御内は広かりし内なれどもせばくならせ給ひ、きうだち(公達)は多くわたらせ給ふ。 内のとしごろ(年来)の人人あまたわたらせ給へば、池の水のすくなくなれば魚さわがしく、秋風立てば鳥こずえ(梢)をあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに、 度々の仰せをかへし、よりよりの御心にたがはせ給へば、いくそばくのざんげん(讒言)こそ候らんに、度々の御所領をかへして、今又所領給はらせ給ふと云云。 此れ程の不思議は候はず。此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此なり。 我が主に法華経を信じさせまいらせんとをぼしめす御心のふかき故か。 此れ又しかるべし。貴辺の御すすめによつて今は御心もやわらがせ給てや候らん。此れ偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故なり。 根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流長しと申して、一切の経は根あさく流ちかく、法華経は根ふかく源とをし、末代悪世までもつきず、さかうべしと、天台大師あそばし給へり。 此の法門につきし人あまた候ひしかども、をほやけわたくしの大難度度重なり候ひしかば、一年二年こそつき候ひしが、後後には皆或はをち、或はかへり矢をいる。或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ。 釈迦仏は浄飯王の嫡子、 其の間御ともの人五人なり。所謂、拘鄰と■■と跋提と十力迦葉と拘利太子となり。 此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ。残りの三人も後の六年にすて奉て去ぬ。但一人残り給てこそ仏にはならせ給ひしか。 法華経は又此れにもすぎて人信じがたかるべし。 又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし。此れをこらへん行者は、我が功徳にはすぐれたる事、一劫とこそ説かれて候へ。 仏滅度後二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間、仏法を弘通せる人、伝記にのせてかくれなし。 漢土一千年、日本七百年、又目録にのせて候ひしかども、仏のごとく大難に値へる人人少し。 我も聖人、我も賢人とは申せども、況滅度後の記文に値へる人一人も候はず。 今は時すでに後の五百歳・末法の始なり。日には五月十五日、月には八月十五夜に似たり。 天台・伝教は先に生れ給へり。今より後は又のちぐへ(後悔)なり。大陣すでに破れぬ。余党は物のかずならず。 今こそ仏の記しをき給ひし後五百歳、末法の初、況滅度後の時に当て候へば、仏語むなしからずば、 聖人の出ずるしるしには、 きりん(麒麟)出でしかば孔子を聖人としる。鯉社なつて聖人出で給ふ事疑ひなし。仏には栴檀の木をひて聖人としる。老子は二五の文を踏て聖人としる。 末代の法華経の聖人をば何を用てかしるべき。経に云く「能説此経、能持此経」の人、則如来の使なり。 八巻・一巻・一品・一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終すてずして大難をとをす人、如来の使なり。 日蓮が心は全く如来の使にはあらず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだまれて、二度の流難に値へば、如来の御使に似たり。 心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。 過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石にたがう事なし。未来は当詣道場疑ひなからんか。 これをやしなはせ給ふ人人は、豈浄土に同居するの人にあらずや。事多しと申せどもとどめ候。心をもて計らせ給ふべし。 ちご(稚児)のそらう(所労)よくなりたり、悦び候ぞ。 又大進阿闍梨の死去の事、末代のぎば(耆婆)いかでか此れにすぐべきと、皆人舌をふり候なり。さにて候ひけるやらん。 大進阿闍梨の 三位房が事、さう四郎が事、此の事は宛も符契符契と申しあひて候。 日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用ひまじく候なり。 弘安元年戌寅九月十五日 日蓮花押 四条金吾殿 |