四条金吾殿御返事
四条金吾殿御返事建治二年九月六日の概要 【建治二年九月六日、四条頼基、聖寿五十四歳】 正法をひろむる事は必ず智人によるべし。故に釈尊は一切経をとかせ給て、小乗経をば阿難、大乗経をば文殊師利、法華経の肝要をば、一切の声聞文殊等の一切の菩薩をきらひて、上行菩薩をめして授けさせ給ひき。 設ひ正法を持てる智者ありとも、檀那なくんば争か弘まるべき。然れば釈迦仏の檀那は梵王・帝釈の二人なり。これは二人ながら天の檀那なり。 仏は六道の中には人天、人天の中には人に出でさせ給ふ。人には三千世界の中央五天竺、五天竺の中には摩竭提国に出でさせ給て候ひしに、彼の国の王を檀那とさだむべき処に、彼の国の 達多は三逆罪をつくる上、仏の御身より血を出だしたりし者ぞかし。 不孝の悪王と謗法の師とよりあひて候ひしかば、人間に二のわざはひにて候ひしなり。 一年建治二年ならず、数十年が間、仏にあだをなしまいらせ、仏の御弟子を殺せし事数をしらず。 かかりしかば天いかりをなして天変しきりなり。地神いかりをなして地夭申すに及ばず。 月々に悪風、年々に飢饉疫癘来て、万民ほとんどつきなんとせし上、四方の国より 既に危く成て候し程に、 身の病忽ちにいゑ、他方のいくさも留まり、国土安穏になるのみならず、三月の七日に御崩御なるべかりしが命をのべて四十年なり。 千人の阿羅漢をあつめて、一切経ことには法華経をかきをかせ給ひき。 今我等がたのむところの法華経は 仏の 仏言く、我が滅後末法に入て、又調達がやうなる、たうとく五法を行ずる者国土に充満して、悪王をかたらいて、但一人あらん智者を或はのり、或はうち、或は流罪、或は死に及ぼさん時、 昔にもすぐれてあらん天変・地夭・大風・飢饉・疫癘、年々にありて、他国より責むべしと説かれて候。守護経と申す経の第十の巻の心なり。 当時の世にすこしもたがはず。然るに日蓮は此の一分にあたれり。 日蓮をたすけんと志す人人少少ありといへども、或は心ざしうすし、或は心ざしはあつけれども身がうご(合期)せず、やうやう(様々)にをはするに、御辺は其の一分なり。 心ざし人にすぐれてをはする上、わづかの身命をささうるも又御故なり。天もさだめてしろしめし、地もしらせ給ぬらん。 殿いかなる事にもあはせ給ふならば、ひとへに日蓮がいのちを天のたた(断)せ給ふなるべし。 人の命は山海空市まぬがれがたき事と定めて候へども、又定業亦能転の経文もあり。又天台の御釈にも定業をのぶる釈もあり。 前に申せしように蒙古国のよするまでつつしませ給ふなるべし。 主の御返事をば申させ給ふべし。身に病ありては叶ひがたき上、世間すでにかうと見え候。 それがしが身は時によりて臆病はいかんが候はんずらん。只今の心はいかなる事も出来候はば、入道殿の御前にして命をすてんと存じ候。 若しやの事候ならば、越後よりはせ上らんは、はるかなる上、不定なるべし。 たとひ所領をめさるるなりとも、今年はきみをはなれまいらせ候べからず。 是より外はいかに仰せ蒙るとも、をそれまいらせ候べからず。 是よりも大事なる事は日蓮の御房の御事と、過去に候父母の事なりと、ののしらせ給へ。 すてられまいらせ候とも命はまいらせ候べし。後世は日蓮の御房にまかせまいらせ候と、高声にうちなのり居させ給へ。 建治二年丙子九月六日 日蓮花押 四条金吾殿 |