曽谷入道殿御返事

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曽谷入道殿御返事の概要

【建治三年十一月二十八日、曽谷教信、聖寿】 
妙法蓮華経一部一巻〈小字経〉、御供養のために御布施に小袖〈二重〉・鵞目〈十貫〉・並に扇〈百本〉。
文句の一に云く「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と。記の一に云く「若し超八の如是に非ずんば安ぞ此の経の所聞と為さん」云云。
華厳経の題に云く「大方広仏華厳経、如是我聞」云云。「摩訶般若波羅蜜経、如是我聞」云云。大日経の題に云く「大毘盧遮那神変加持経、如是我聞」云云。
一切経の如是は何なる如是ぞやと尋ぬれば、上の題目を指して如是とは申すなり。
仏、何の経にてもとかせ給ひし其の所詮の理をさして題目とはせさせ給ひしを、阿難・文殊・金剛手等滅後に結集し給ひし時、題目をうちをいて、如是我聞と申せしなり。一経の内の肝心は題目におさまれり。
例せば天竺と申す国あり、九万里七十箇国なり。然れども其中の人畜草木山河大地、皆月氏と申す二字の内にれきれきたり。
譬へば一四天下の内に四洲あり。其の中の一切の万物は月に移て、すこしもかくるる事なし。
経も又是くの如く、其の経の中の法門は其の経の題目の中にあり。
阿含経の題目は一経の所詮、無常の理をおさめたり。外道の経の題目のあう(阿■)の二字にすぐれたる事百千万倍なり。九十五種の外道、阿含経の題目を聞てみな邪執を倒し、無常の正路におもむきぬ。
般若経の題目を聞ては体空・但中・不但中の法門をさとり、華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり。
大日経・方等般若経の題目を聞く人は或は析空、或は体空、或は但空、或は不但空、或は但中不但中の理をばさとれども、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず。
その詮を説かざれば、法華経より外は理即の凡夫なり。彼の経経の仏菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず。何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや。
故に妙楽大師の記に云く「若し超八の如是に非ずんば、安んぞ此の経の所聞と為さん」云云。
彼彼の諸経の題目は八教の内なり、網目の如し。此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり。
今妙法蓮華経と申す人人はその心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず、一代の大綱を覚り給へり。
例せば一、二、三歳の太子位につき給ひぬれば、国は我が所領なり。摂政関白已下は我が所従なりとは、しらせ給はねども、なにも此の太子の物なり。
譬へば小児は分別の心なけれども、悲母の乳を口にのみぬれば自然に生長するを、趙高が様に心おごれる臣下ありて、太子をあなづれば身をほろばす。
諸経諸宗の学者等、法華経の題目ばかりを唱ふる太子をあなづりて、趙高が如くして無間地獄に堕つるなり。
又法華経の行者の、心もしらず題目計りを唱ふるが、諸宗の智者におどされて退心をおこすは、こがい(胡亥)と申せし太子が趙高におどされ、ころされしが如し。
南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり、体なり、所詮なり。
かかるいみじき法門なれども、仏滅後二千二百二十余年の間、月氏に付法蔵の二十四人弘通し給はず。
漢土の天台・妙楽も流布し給はず。日本国には聖徳太子・伝教大師も宣説し給はず。
されば和法師が申すは僻事にてこそ有るらめと諸人疑て信ぜず。是れ又第一の道理なり。
譬へば昭君なんどを、あやしの兵なんどがおかしたてまつるを、みな人よもさはあらじと思へり。
大臣公卿なんどの様なる天台・伝教の弘通なからん法華経の肝心南無妙法蓮華経を、和法師程のものがいかで唱ふべしと云云。
汝等是を知るや。烏と申す鳥は無下のげす鳥なれども、鷲・■の知らざる年中の吉凶を知れり。蛇と申す虫は竜象に及ばずとも、七日の間の洪水を知るぞかし。
設ひ竜樹天台の知り給はざる法門なりとも、経文顕然ならばなにをか疑はせ給ふべき。
日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱へさせ給はぬは、小児が乳をうたがふてなめず、病人が医師を疑て薬を服せざるが如し。
竜樹・天親等は是を知り給へども、時なく機なければ弘通し給はざるか。余人は又しらずして宣伝せざるか。
仏法は時により機によりて弘まる事なれば、云ふにかひなき日蓮が時にこそあたりて候らめ。
所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり。さにては候はず、体なり。体とは心にて候。
章安云く「蓋し序王は経の玄意を叙し、玄意は文の心を述す」云云。
此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候。
されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、■をはなれて肝をたづねしはかなき亀なり。山林をすてて菓を大海の辺にもとめし■猴なり。はかなし、はかなし。
建治三年〈丁丑〉霜月二十八日  日蓮花押 
曽谷次郎入道殿 

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