富木尼御前御返事

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富木尼御前御返事の概要

【建治二年三月二十七日、富木常忍妻尼、聖寿、真筆−完存】 
鵞目一貫並につつ(筒)ひとつ給ひ候ひ了ぬ。
や(箭)のはしる事は弓のちから、くものゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(夫)のしわざはめ(女)のちからなり。いまときどの(富木殿)のこれへ御わたりある事、尼ごぜんの御力なり。
けぶり(煙)をみれば火をみる、あめ(雨)をみればりう(竜)をみる。をとこ(夫)をみればめ(女)をみる。今ときどのにけさん(見参)つかまつれば、尼ごぜんをみたてまつるとをぼう。
ときどの(富木殿)の御物がたり候は、このはわ(母)のなげきのなかに、りんずう(臨終)のよくをはせしと、尼がよくあたり、かんびやう(看病)せし事のうれしさ。いつのよ(世)にわするべしともをぼへずと、よろこばれ候なり。
なによりもをぼつかなき事は御所労なり。かまえてさもと建治三年、はじめのごとくに、きうじ(灸治)せさせ給へ。
病なき人も無常まぬがれがたし。但しとしのはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病にては候はじ。
設ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。阿闍世(あじゃせ)王は法華経を持て四十年の命をのべ、陳臣は十五年の命をのべたり。
尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心月のまさるがごとく、しを(潮)のみつがごとし。
いかでか病も失せ、寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ。
なげき出で来る時は、ゆきつしま(壱岐対馬)の事、だざひふ(太宰府)の事、かまくらの人人の天の楽のごとにありしが、当時つくし(筑紫)へむかへば、
とどまるめこ(妻子)ゆくをとこ(夫)、はなるるときはかわ(皮)をはぐがごとく、かを(顔)とかをとをとりあわせ、目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれて、ゆい(由比)のはま・いなぶら(稲村)・こしごえ(腰越)・さかわ(酒勾)・はこねさか(箱根坂)。
一日二日すぐるほどに、あゆみあゆみとをざかるあゆみ(歩行)を、かわ(川)も山もへだて、雲もへだつれば、うちそうものはなみだなり、ともなうものはなげきなり、いかにかなしかるらむ。
かくなげかんほどに、もうこ(蒙古)のつわものせめきたらば、山か海もいけとりか、ふね(舟)の内か、かうらい(高麗)かにてうきめにあはん。
これひとへに失もなくて、日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮を、ゆへもなく、或はのり、或は打ち、或はこうじ(街路)をわたし、ものにくるいしが、十羅刹のせめをかほりてなれる事なり。
又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし。不思議を目の前に御らんあるぞかし。我れ等は仏に疑ひなしとをぼせば、なにのなげきかあるべき。
きさき(皇妃)になりてもなにかせん、天に生れてもようしなし。竜女があとをつぎ、摩訶波舎波提比丘尼のれち(列)につらなるべし。
あらうれし、あらうれし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。恐恐謹言。
三月二十七日  日蓮花押 
尼ごぜん(御前)へ 

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