上野殿御返事

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上野殿御返事建治三年五月十五の概要

【建治三年五月十五日、南条時光、聖寿五十六歳、真筆−断存】 
五月十四日にいものかしら(芋頭)一駄、わざとおくりたびて候。
当時のいも(芋)は人のいとまと申し、珠のごとし、くすり(薬)のごとし。
さてはおほせつかはされて候事、うけ給はり候ひぬ。尹吉甫と申せし人はただ一人子あり、伯奇と申す。をや(親)も賢なり、子もかしこし。
いかなる人かこの中をば申したがふべきとおもひしかども、継母より、よりよりうたへしに用ひざりしほどに、継母すねん(数年)が間やうやうのたばかりをなせし中に、
蜂と申すむし(虫)を我がふところに入れて、いそぎいそぎ伯奇にとらせて、しかも父にみせ、われをけさう(懸想)すると申しなしてうし(失)なはんとせしなり。
びんばさら(頻婆沙羅)王と申せし王は賢王なる上、仏の御だんな(檀那)の中に閻浮第一なり。しかもこの王は摩竭提国の主なり。
仏は又此の国にして法華経をとかんとおぼししに、王と仏と一同なれば、一定法華経とかれなんとみへて候しに、提婆達多と申せし人、いかんがして此の事をやぶらんとおもひしに、すべてたよりなかりしかば、とかうはかりしほどに、
頻婆沙羅王の太子阿闍世(あじゃせ)王を、としごろ(年来)とかくかたらひて、やうやく心をとり、をや(親)と子とのなかを申したがへて、阿闍世(あじゃせ)王をすかし、父の頻婆沙羅王をころさせ、阿闍世(あじゃせ)王と心を一にし、提婆と阿闍世(あじゃせ)王と一味となりしかば、
五天竺の外道悪人雲かすみ(霞)のごとくあつまり、国をたび、たからをほどこし、心をやわらげ、すかししかば、一国の王すでに仏の大怨敵となる。
欲界第六天の魔王、無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世(あじゃせ)・六大臣等の身に入りかはりしかば、形は人なれども力は第六天の力なり。
大風の草木をなびかすよりも、大風の大海の波をたつるよりも、大地震の大地をうごかすよりも、大火の連宅をやくよりも、さはがしくをぢわななきし事なり。
さればはるり(波瑠璃)王と申せし王は阿闍世(あじゃせ)王にかたらはれ、釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす。
阿闍世(あじゃせ)王は酔象を放て弟子を無量無辺ふみころさせつ。或は道に兵士をすへ、或は井に糞を入れ、或は女人をかたらひてそら事いひつけて仏弟子をころす。
舎利弗・目連が事にあひ、かるだい(加留陀夷)が馬のくそにうづまれし、仏はせめられて一夏九十日、馬のむぎ(麦)をまいりしこれなり。
世間の人のおもはく、悪人には仏の御力もかなはざりけるにやと思て、信じたりし人人も音をのみてもの申さず、眼をとぢてものをみる事なし。ただ舌をふり、手をかきし計りなり。
結句は提婆達多、釈迦如来の養母蓮華比丘尼(れんげびくに)を打ちころし、仏の御身より血を出せし上、誰の人かかたうど(方人)になるべき。
かくやうやうになりての上、いかがしたりけん、法華経をとかせ給ひぬ。
此の法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」云云。
文の心は、我が現在して候だにも、此の経の御かたき(敵)かくのごとし。いかにいわうや末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をや、と説かれて候なり。
此をもつておもひ候へば、仏、法華経をとかせ給て今にいたるまでは二千二百二十余年になり候へども、いまだ法華経を仏のごとくよみたる人は候はぬか。
大難をもちてこそ、法華経しりたる人とは申すべきに、天台大師・伝教(でんぎょう)大師こそ法華経の行者とはみへて候しかども、在世のごとくの大難なし。ただ南三・北七・南都・七大寺の小難なり。
いまだ国主かたきとならず、万民つるぎ(剣)をにぎらず、一国悪口をはかず。
滅後に法華経を信ぜん人は在世の大難よりもすぐべく候なるに、同じほどの難だにも来らず、何に況やすぐれたる大難多難をや。
虎うそぶけば大風ふく、竜ぎんずれば雲をこる。野兎のうそぶき、驢馬のいはうるに風ふかず、雲をこる事なし。
愚者が法華経をよみ、賢者が義を談ずる時は国もさわかず、事もをこらず。聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時、一国もさわぎ、在世にすぎたる大難をこるべしとみえて候。
今、日蓮は賢人にもあらず、まして聖人はおもひもよらず。天下第一の僻人にて候が、但、経文計りにはあひて候やうなれば、大難来り候へば、父母のいきかへらせ給て候よりも、にくきもののことにあふよりもうれしく候なり。
愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事こそ、うれしき事にて候へ。
智者たる上、二百五十戒かたくたもちて、万民には諸天の帝釈をうやまふよりもうやまはれて、釈迦仏・法華経に不思議なり提婆がごとしとおもはれまいらせなば、人目はよきやうなれども後生はおそろしおそろし。
さるにては、殿は法華経の行者ににさせ給へりとうけ給はれば、もつてのほかに、人のしたしきもうときも、日蓮房を信じてはよもまどいなん。
上の御気色もあしかりなんと、かたうど(方人)なるやうにて御けうくむ(教訓)候なれば、賢人までも人のたばかりはをそろしき事なれば、一定法華経すて給ひなん。
なかなか色みへでありせばよかりなん。大魔のつきたる者どもは、一人をけうくん(教訓)し、をとしつれば、それをひつかけ(引懸)にして多くの人をせめをとすなり。
日蓮が弟子にせう(少輔)房と申し、のと(能登)房といゐ、なごえ(名越)の尼なんど申せし物どもは、よく(欲)ふかく、心をくびやうに、愚痴にして而も智者となのりしやつばら(奴原)なりしかば、事のをこりし時、たよりをえておほくの人をおとせしなり。
殿もせめをとされさせ給ふならば、するが(駿河)にせうせう信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人人も、皆法華経をすつべし。
さればこの甲斐の国にも少少信ぜんと申す人人候へども、おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候。
なかなかしき人の信ずるやうにて、なめりて候へば、人の信心をもやぶりて候なり。
ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計として、日本国一時に信ずる事あるべし。
爾時、我も本より信じたり信じたりと申す人こそ、をほくをはせずらんめとおぼえ候。
御信用あつくをはするならば、人ためにあらず。我が故父の御ため。人は我がをや(親)の後世にはかはるべからず。子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ。
郷一郷知るならば、半郷は父のため、半郷は妻子眷属をやしなふべし。
我が命は事出できたらば上にまいらせ候べしと、ひとへにおもひきりて、何事につけても言をやわらげて、法華経の信をうすくなさんずるやうをたばかる人出来せば、我が信心をこころむるかとおぼして、
各各これを御けうくん(教訓)あるはうれしき事なり。ただし、御身のけうくんせさせ給へ。上の御信用なき事はこれにもしりて候を、上をもつておどさせ給ふこそをかしく候へ。参てけうくん申さんとおもひ候つるに、うわて(上手)うたれまいらせて候。
閻魔王に、我が身といとをしとおぼす御め(妻)と子とをひつぱられん時は、時光に手をやすらせ給ひ候はんずらんと、にくげにうちいひておはすべし。
にいた(新田)殿の事、まことにてや候らん。をきつ(沖津)の事、きこへて候。殿もびんぎ(便宜)候はば、其の義にて候べし。
かまへておほきならん人申しいだしたるらんは、あはれ法華経のよきかたきよ。優曇華か、盲亀の浮木かとおぼしめして、したたかに御返事あるべし。
千丁万丁しる人も、わづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり。今度法華経のために命をすつる事ならば、なにはをしかるべき。
藥王菩薩は身を千二百歳が間やきつくして仏になり給ひ、檀王は千歳が間身をゆか(牀)となして今の釈迦仏といわれさせ給ふぞかし。
さればひが事をすべきにはあらず。今はすてなばかへりて人わらはれになるべし。
かたうど(方人)なるやうにてつくりおとして、我もわらひ、人にもわらはせんとするがきくわい(奇怪)なるに、よくよくけうくんせさせて、人のおほくきかんところにて人をけうくんせんよりも、我が身をけうくんあるべしとて、かつぱとたたせ給へ。
一日二日が内にこれへきこへ候べし。事おほければ申さず、又又申すべし。恐恐謹言。
建治三年五月十五日  日蓮花押 
上野殿御返事 

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