盂蘭盆御書

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盂蘭盆御書の概要

【弘安三年七月十三日、治部房母、聖寿五十九歳、真筆完存】 
返事ぢぶどの(治部殿)のうばごぜんのかへり事、日蓮。
■牙一俵・やいごめ(焼米)・うり(瓜)・なすび(茄子)等、仏前にささげて申し上げ候ひ了ぬ。
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子の中に目連尊者と申して、舎利弗にならびて智恵第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。
此の人の父をば吉懺師子と申し、母をば青提女と申す。其の母の慳貪の科によて餓鬼道に堕て候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。
其の因縁は母は餓鬼道に堕てなげき候けれども、目連は凡夫なれば知ることなし。
幼少にして外道の家に入り、四ゐ陀・十八大経と申す、外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生所をしらず。
其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑を断じて阿羅漢となりて三明をそなへ六通をへ給へり。
天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげ(影)のごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとをしみるがごとし。
其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ふことなし。
皮はきんてう(金鳥)をむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまり(毬)のごとく、頚はいと(糸)のごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひる(蛭)の人のかをかげるがごとし。
先生の子をみてなかんとするすがた(姿)、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。
法勝寺の修行舜観(俊寛)がいわう(硫黄)の島にながされて、はだか(裸)にて、かみ(髪)くび(頚)つきにうちをい、やせをとろへて海へんにやすらいて、
もくづ(藻屑)をとりてこし(腰)にまき、魚を一みつけて右の手にとり、口にかみける時、本つかいしわらわのたづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しと、いづれかをろかなるべき。かれはいますこし、かなしさわまさりけん。
目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給ひ、はん(飯)をまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははん(飯)をにぎり、左の手にてははん(飯)をかくして口にをし入れ給ひしかば、いかんがしたりけん、
はん(飯)変じて火となり、やがてもへあがり、とうしび(燈心)をあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、母の身のごこごことやけ候しを目連見給て、
あまりあわてさわぎ、大神通を現じて大なる水をかけ候ひしかば、其の水たきぎ(薪)となりていよいよ母の身のやけ候し事こそあわれには候しか。
其の時目連みづからの神通かなわざりしかば、はしりかへり、須臾に仏にまいりてなげき申せしやうは、
我が身は外道の家に生れて候しが、仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへて、三界の生をはなれ、三明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候に、かへりて大苦にあわせて候は心うしとなげき候しかば、
仏け説て云く、汝が母はつみふかし。汝一人が力及ぶべからず。又何の人なりとも、天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず。
七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味のをんじき(飲食)をととのへて、母のく(苦)をはすくうべしと云云。
目連、仏の仰せのごとく行ひしかば、其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給ひきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。
其によて滅後末代の人人は七月十五日に此の法を行ひ候なり。此は常のごとし。
日蓮案じて云く、目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人、二百五十戒をかたく持つ事石のごとし。三千の威儀を備へてかけざる事は十五夜の月のごとし。
智恵は日ににたり。神通は須弥山を十四さう(■)まき、大山をうごかせし人ぞかし。かかる聖人だにも重報の乳母の恩ほうじがたし。あまさへほうぜんとせしかば大苦をまし給ひき。
いまの僧等の二百五十戒は名計りにて、事をかい(戒)によせて人をたぼらかし、一分の神通もなし。大石の天にのぼらんとせんがごとし。
智恵は牛にるいし、羊にことならず。設ひ千万人をあつめたりとも父母の一苦すくうべしや。
せんずるところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆへぞかし。
されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男、目連房をせめて云く「汝を供養する者は三悪道に堕つ」云云。
文の心は、二百五十戒のたうとき目連尊者をくやう(供養)せん人は三悪道に堕つべしと云云。
此又唯目連一人がきくみみ(耳)にはあらず。一切の声聞乃至末代の持斎等がきくみみなり。
此の浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末への郎従にて候。
詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや。
しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。此の時こそ父母も仏になり給へ。
故に法華経に云く「我が願既に満ち衆の望も亦足る」云云。目連が色身は父母の遺体なり。目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。
例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に、平氏の大将安芸の守清盛と申せし人をはしき。
度々の合戦に国敵をほろぼして上太政大臣まで官位をきわめ、当今はまご(孫)となり、一門は雲客月卿につらなり、日本六十六国島二を掌の内にかいにぎりて候ひしが、人を順ふこと大風の草木をなびかしたるやうにて候しほどに、
心をごり身あがり、結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手ににぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去る治承四年十二月二十二日に七寺の内の東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば、
其の大重罪入道の身にかかりて、かへるとし養和元年潤二月四日、身はすみ(炭)のごとく面は火のごとく、すみ(炭)のをこれるがやうにて、結句は炎身より出でてあつちじに(熱死)に死ににき。
其の大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば、西海に沈むとみへしかども東天に浮び出でて、右大将頼朝の御前に縄をつけてひきすへて候き。三男知盛は海に入て魚の糞となりぬ。
四男重衡は其の身に縄をつけて京かまくら(鎌倉)を引かれて、結句なら(奈良)七大寺にわたされて、十万人の大衆等、我等が仏のかたきなりとて一刀づつきざみぬ。
悪の中の大悪は、我が身に其の苦をうくるのみならず、子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり。
善の中の大善も、又又かくのごとし。目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。
乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。
故に法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。
されば此等をもつて思ふに、貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。
此僧は無戒なり無智なり。二百五十戒一戒も持つことなし。三千の威義一も持たず。
智恵は牛馬にるいし、威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。例せば蛇の珠をにぎり、竜の舎利を戴くがごとし。
藤は松にかかりて千尋をよぢ、鶴は羽を恃て万里をかける。此は自身の力にはあらず。
治部房も又かくのごとし。我が身は藤のごとくなれども、法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん。一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし。
此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までもとぶらうべき僧なり。
あわれいみじき御たから(宝)はもたせ給てをはします女人かな。彼の竜女は珠をささげて仏となり給ふ。此女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給ふべし。
事事そうそうにて候へばくはしくは申さず、又又申すべく候。恐恐。
七月十三日  日蓮花押 
治部殿うばごぜん御返事 

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