内房女房御返事
内房女房御返事の概要 【弘安三年八月十四日、内房女房、聖寿五十九歳】 内房よりの御消息に云く、八月九日、父にてさふらひし人の百箇日に相当てさふらふ。 御布施料に十貫まいらせ候、乃至あなかし、こあなかしこ。 御願文の状に云く「読誦し奉る妙法蓮華経一部、読誦し奉る方便 同状に云く「伏して惟れば先考の幽霊生存の時、弟子遥に千里の山河を凌ぎ、親り妙法の題名を受け、然る後三十日を経ずして永く一生の終りを告ぐ」等云云。 又云く「嗚呼、閻浮の露庭に白骨仮りに塵土と成るとも、霊山の界上に亡魂定て覚蕊(かくずい)を開かん」。又云く「弘安三年女弟子大中臣氏敬白す」等云云。 夫れ以れば一乗妙法蓮華経は、月氏国にては一由旬の城に積み、日本国にては唯八巻なり。 然るに現世後生を祈る人、或は八巻、或は一巻、或は方便・寿量、或は自我偈等を読誦し、讃歎して所願を遂げ給ふ先例之多し。 此は且く之を置く。唱へ奉る妙法蓮華経の題名五万返と云云。此の一段を宣べんと思て先例を尋ぬるに其の例少なし。 或は一返二返唱へて利生を蒙る人粗これ有るか。いまだ五万返の類を聞かず。 但し一切の諸法に亘て名字あり。其の名字皆其の体徳を顕はせし事なり。 例せば石虎将軍と申すは、石の虎を射徹したりしかば石虎将軍と申す。的立の大臣と申すは、鉄的を射とをしたりしかば的立の大臣と名く。 是皆名に徳を顕はせば、今妙法蓮華経と申し候は、一部八巻二十八品の功徳を五字の内に収め候。 譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収めたるが如し。一塵に三千を尽す法門是なり。 南無と申す字は敬ふ心なり、随ふ心なり。故に阿難尊者は一切経の如是の二字の上に南無等云云。 南岳大師云く「南無妙法蓮華経」云云。天台大師云く「稽首南無妙法蓮華経」云云。 阿難尊者は斛飯王の太子、教主釈尊の御弟子なり。 釈尊御入滅の後六十日を過て、迦葉等の一千人、文殊等の八万人、太閣講堂にして集会し給て、仏の別を悲しみ給ふ上、我等は多年の間随逐するすら、六十日の間の御別を悲しむ。百年千年乃至末法の一切衆生は何をか仏の御形見とせん。 六師外道と申すは、八百年以前に二天三仙等の説き置きたる四韋陀十八大経を以てこそ、師の名残とは伝へて候へ。 いざさらば我等五十年が間、一切の声聞・大菩薩の聞き持ちたる経経を書き置て、未来の衆生の眼目とせんと僉議して、阿難尊者を高座に登せて仏を仰ぐ如く、下座にして文殊師利菩薩、南無妙法蓮華経と唱へたりしかば、阿難尊者此れを承け取て如是我聞と答ふ。 九百九十九人の大阿羅漢等は筆を染めて書き留め給ひぬ。一部八巻二十八品の功徳は此の五字に収めて候へばこそ、文殊師利菩薩かくは唱へさせ給ふらめ。 阿難尊者又さぞかしとは答へ給ふらめ。又万二千の声聞・八万の大菩薩・二界八番の雑衆も有りし事なれば合点せらるらめ。 天台智者大師と申す聖人、妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千丁に書き給て候。 其の心は華厳経は八十巻・六十巻・四十巻、阿含経数百巻、大集方等数十巻、大品般若四十巻・六百巻、涅槃経四十巻・三十六巻、乃至月氏・竜宮・天上・十方世界の大地微塵の一切経は妙法蓮華経の経の一字の所従なり。 妙楽大師重ねて十巻造るを釈籤と名けたり。天台以後に渡りたる漢土の一切経新訳の諸経は皆法華経の眷属なり云云。 日本の 但し弘法・慈覚・智証等は此の義に水火なり。此の義後に粗書きたり。 譬へば五畿七道六十六箇国二つの島、其の中の郡と荘と村と田と畠と人と牛馬と金銀等は皆日本国の三字の内に備て一つも欠くる事なし。 又王と申すは三の字を横に書て、一の字を豎さまに立てたり。横の三の字は天地人なり。豎の一文字は王なり。 須弥山と申す山の大地をつきとをして傾かざるが如し。天地人を貫て少しも傾かざるを王とは名けたり。 王に二つあり。一には小王なり、人王・天王是なり。二には大王なり、大梵天王是なり。日本国は大王の如し。国国の受領等は小王なり。 華厳経・阿含経・方等経・般若経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経は小王なり。譬へば日本国中の国王・受領等の如し。法華経は大王なり。天子の如し。 然れば華厳宗・真言宗等の諸宗の人人は国主の内の所従等なり。国国の民の身として、天子の徳を奪ひ取るは、下剋上、背上向下、破上下乱等これなり。 設ひいかに世間を治めんと思ふ志ありとも、国も乱れ人も亡びぬべし。 譬へば木の根を動さんに枝葉静なるべからず。大海の波あらからんに船おだやかなるべきや。 華厳宗・真言宗・念仏宗・律僧・禅僧等、我が身持戒正直に智恵いみじく尊しといへども、其の身既に下剋上の家に生れて、法華経の大怨敵となりぬ。阿鼻大城を脱るべきや。 例せば九十五種の外道の内には正直有智の人多しといへども、二天三仙の邪法を承けしかば終には悪道を脱るる事なし。 然るに今の世の南無阿弥陀仏と申す人々、南無妙法蓮華経と申す人を或は笑ひ、或はあざむく。此れは世間の譬に、稗の稲をいとひ、家主の田苗を憎む是なり。 是国将なき時の盗人なり。日の出でざる時の■(うぐろもち)なり。夜打強盗の科めなきが如く、地中の自在なるが如し。 南無妙法蓮華経と申す国将と日輪とにあはば、大火の水に消へ、猿猴が犬に値ふなるべし。 当時南無阿弥陀仏の人々、南無妙法蓮華経の御声の聞えぬれば、或は色を失ひ、或は眼を瞋らし、或は魂を滅し、或は五体をふるふ。 妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉と申す泉は石を玉となす。此の五字は凡夫を仏となす。 されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり。石変じて玉と成るが如し。 孝養の至極と申し候なり。故に法華経に云く「此の我が二の子已に仏事を作しぬ」、又云く「此の二の子は是我が善知識なり」等云云。 乃往過去の世に一の大王あり。名を輪陀と申す。此の王は白馬の鳴くを聞て、色もいつくしく、力も強く、供御を進らせざれども食にあき給ふ。他国の敵も冑を脱ぎ掌を合す。又此の白馬鳴く事は白鳥を見て鳴きけり。 然るに大王の政や悪しかりけん。又過去の悪業や感じけん。白鳥皆失せて一羽もなかりしかば、白馬鳴く事なし。 白馬鳴かざりければ、大王の色も変じ、力も衰へ、身もかじけ、謀も薄くなりし故に国既に乱れぬ。 他国よりも兵者せめ来らんに何とかせんと歎きし程に、大王の勅宣に云く、国には外道多し。皆我が帰依し奉る。仏法も亦かくの如し。然るに外道と仏法と中悪し。何にしても白馬を鳴かせん方を信じて、一方を我が国に失ふべしと云云。 爾の時に一切の外道集て、白鳥を現じて白馬を鳴かせんとしかども、白鳥現ずる事なし。 昔は雲を出だし、霧をふらし、風を吹かせ、波をたて、身の上に火を出だし、水を現じ、人を馬となし馬を人となし、一切自在なりしかども、如何がしけん、白鳥を現ずる事なかりき。 爾の時に馬鳴菩薩と申す仏子あり。十方の諸仏に祈願せしかば、白鳥則出で来て、白馬則鳴けり。大王此を聞食し、色も少し出で来り、力も付き、はだへ(膚)もあざやかなり。 又白鳥又白鳥と千の白鳥出現して、千の白鳥一時に鶏の時をつくる様に鳴きしかば、大王此の声を聞食し、色は日輪の如し、膚は月の如し、力は那羅延の如し、謀は梵王の如し。 爾の時に綸言汗の如く出でて返らざれば、一切の外道等其の寺を仏寺となしぬ。 今の日本国も亦かくの如し。此の国は始めは神代なり。漸く代の末になる程に、人の意曲り、貪瞋痴強盛なれば、神の智浅く、威も力も少し。 氏子共をも守護しがたかりしかば、漸く仏法と申す大法を取り渡して、人の意も直に、神も威勢強かりし程に、仏法に付き謬り多く出来せし故に、国もあやうかりしかば、 弘法大師・慈覚大師・智証大師と申せし聖人等、或は漢土に事を寄せ、或は月氏に事を寄せて、法華経を或は第三第二、或は戯論、或は無明の辺域等と押し下し給て、法華経を真言の三部と成さしめて候ひし程に、代漸く下剋上し、此の邪義既に一国に弘まる。 人多く悪道に落て、神の威も漸く滅し、氏子をも守護しがたき故に、八十一乃至八十五の五主は或は西海に沈み、或は四海に捨てられ、今生には大鬼となり後生には無間地獄に落ち給ひぬ。 然りといえども、此の事を知る人なければ改る事なし。今日蓮此の事をあらあら知る故に、国の恩を報ぜんとするに、日蓮を怨み給ふ。 此等はさて置きぬ。氏女の慈父は輪陀王の如し、氏女は馬鳴菩薩の如し。白鳥は法華経の如し、白馬は日蓮が如し。南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し。 大王の聞食して色も盛んに力も強きは、過去の慈父が氏女の南無妙法蓮華経の御音を聞食して仏に成せ給ふが如し。 弘安三年八月十四日 日蓮花押 内房女房御返事 |