弥源太入道殿御消息
弥源太入道殿御消息の概要 【弘安元年八月十一日、弥源太入道、聖寿五十七歳】 一日の御帰路をぼつかなく候つる処に御使悦び入て候。御用事の御事共は伯耆殿の御文に書かせて候。 伯耆殿の御文 然るに道隆の死して身の舎利となる由の事。是は何とも人知らず用ひまじく候へば兎角申して詮は候はず。 但し仏の以前に九十五種の外道ありき。各各是を信じて仏に成ると申す。 又皆人も一同に思て候し程に、仏世に出でさせ給て九十五種は皆地獄に堕ちたりと説かせ給ひしかば、五天竺の国王大臣等は仏は所詮なき人なりと申す。 又外道の弟子どもも我が師の上を云れて悪心をかき候。 苦得外道と申せし者を仏記して云く、七日の内に死して食吐鬼と成るべしと説かせ給ひしかば、外道瞋りをなす。 七日の内に食吐鬼と成りたりしかば、其を押し隠して得道の人の御舎利買ふべしと云ひき。其より外に不思議なる事数を知らず。 但し道隆が事は見ぬ事にて候へば如何様に候やらん。但し弘通するところの説法は共に本権教より起て候しを、今は 其の上建長寺は現に眼前に見へて候。日本国の山寺の敵とも謂ひつべき様なれども、事を御威によせぬれば皆人恐れて云はず。 是は今生を重くして後生は軽くする故なり。されば現身に彼の寺の故に亡国すべき事当りぬ。 日蓮は度度知て日本国の道俗の科を申せば、是は今生の禍、後生の福なり。 但し道隆の振舞は日本国の道俗知て候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん。 仏法の邪正こそ愚人なれば知らずとも、世間の事は眼前なれば知りぬらん。 又一は用ひずとも人の骨の舎利と成る事は易く知れ候事にて候。仏の舎利は火にやけず、水にぬれず、金剛のかなづち(鎚)にてうてども摧けず。一くだきして見よかし、あらやすし、あらやすし。 建長寺は所領を取られてまどひたる男どもの、入道に成て四十・五十・六十なんどの時走り入て候が、用は之れ無く、道隆がかげ(蔭)にしてすぎぬるなり。 云ふに甲斐なく死ぬれば不思議にて候を、かくして暫くもすぎき。 又は日蓮房が存知の法門を人に疎ませんとこそたばかりて候らめ。 あまりの事どもなれば誑惑顕はれなんとす。但しばらくねうじて御覧ぜよ。 根露れぬれば枝かれ、源渇けば流尽くると申す事あり。恐恐謹言。 弘安元年戊寅八月十一日 日蓮花押 弥源太入道殿 |