宗門が呈している正信会への疑問「正信会破折」
四、相承を否定・三宝を破壊・戒壇の大御本尊を蔑如の大謗法、そして異流義へ
1、「日達上人から日顕上人への継承には疑義がある。日顕上人は正当な六十七世御法主ではない」
【破折】
これは彼らが、御法主日顕上人猊下から受けた懲戒処分を無効にしようとして持ち出した疑難です。まったく無節操な保身のための言い掛かり、妄説にすぎません。
日達上人から日顕上人へのご継承は、昭和五十三年四月当時すでに、日達上人より「次期御法主を日顕上人に決めておられる旨」を、直々に伺った側近僧侶もおり、何ら疑う余地はありません。
実際、現在の正信会メンバーたちも、日顕上人猊下のご登座に際しては、日顕上人を六十七世御法主と仰ぎ、認めておりました。当時、彼らに従う某檀徒が、週刊誌上で日顕上人の継承を疑う発言をしたことに対し、彼らは、
「最近、某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、また恐れ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、大変情けない想いをいたしました。これは、もはや檀徒でもなければ、信徒でもありません。(中略)御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承あそばす御法主、代々の上人を悉く大聖人と拝し奉り、その御内証・御法体を御書写あそばされたる御本尊に南無し奉るのでございます。
これに異をはさんで、なんで信徒と申せましょう。またなんで成仏がありましょう。師敵対、大謗法の者でございます。」(昭和五十四年八月二十五日・第三回檀徒大会)
とまで断定しているのであります。
しかるに、その後一年数ヶ月が経過し、宗門から懲戒処分を受けるに及ぶや彼らはにわかに一転して、それまで自分たちも「ある」と認めていた日達上人から日顕上人への血脈相承を、「なかった」ことにしてしまいました。
これは明らかに、御法主日顕上人猊下による懲戒処分を無効にしようとの狙いによるものであり、自己の保身のためには白も黒にしてしまう、無節操な妄説であります。これは信心でもなければ仏法でもない、汚れた謗法者の感覚そのものです。かかる妄説をもって、僧宝の座に連なる御法主上人を否定せんとした正信会は、まさしく、彼ら自身の言う師敵対・大謗法の者と成り果てたのであります。
さて、日蓮大聖人は、
「譬へば人に皆五臓あり。一臓も損ずれば其の臓より病出来して余の臓を破り、終に命を失ふが如し」(新池御書・新編一四五六) と仰せられ、謗法罪を改めなければ、次第に罪が拡散してさらに多くの謗法を誘発する、と戒められていますが、その後の正信会は、本宗の伝統法義に次々と異義を差し挟み、ついに、本宗で立てる三宝の悉くを破るに至りました。
2、「法主から法主へと伝えられる血脈相承は形式的なものであって、真実の血脈相承というのは、信の一字により、大聖人から正信の僧俗大衆に与えられるものである。したがって、代々の法主の血脈相承が断絶したときには、正信の大衆の中に血脈が保持されるのであり、今日においては、正信会にのみ血脈が受け継がれている」
【破折】
彼らは、日顕上人猊下の継承を否定し、その延長として、御法主上人猊下以外の僧俗にも血脈相承が流れ伝わる、などという陳腐な説を主張しだしたのです。
そもそも本宗では、大聖人より血脈相承された二祖日興上人、さらにそれを順次継承される、三祖日目上人以来ご歴代上人方を僧宝と仰ぐわけですから、この正信会の主張は、結局のところ日興上人以下ご歴代上人を形式的な僧宝と下し、僧俗大衆(なかんずく今日では正信会)こそが真実の僧宝である、とするものです。
このような説は、創価学会の言っている「今日における僧宝としては創価学会がある」という妄説と軌を一にするもので、本宗における僧宝の立て方を破失する邪義に他なりません。
次に彼らは、何としても猊座の尊厳を失わしめんがため、血脈相承の本源である日蓮大聖人にまで遡って、
「鎌倉時代に生まれた人間日蓮は本仏ではない。人間日蓮を本仏と立てるから、弘安五年には本仏がお隠れになって、現在は本仏がおられないことになる。そこで今日蓮が必要となって、法主が本仏のごとく崇められることになるのである。これは根本が間違っており、本来の当家法門では、生身の大聖人ではなく、大聖人の永遠不滅の魂魄をもって本仏とするのである」
等の説を構えました。
しかしながら、これは、まったく法華経の教えすら弁えぬ、初学者並みの妄説です。大聖人は、
「我等が色心の二法を無常と説くは権教なり、常住と説くは法華経なり」(御義口伝・新編一七四五)
「凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門と云ふなり」(御義口伝・新編一八一一)
すなわち、生身の他に永遠の魂魄を考えることは誤った見解であり、法華経では、生身そのものが生・死を繰り返しながら常住する永遠の存在である、と説くのである、と仰せられています。
したがって本宗で立てる宗祖本仏義も、こうした法華経の深理を踏まえ、生身のほかに永遠不滅の魂魄なるものを求めるのではなく、生身の日蓮大聖人をそのままご本仏と仰ぎ奉るのであります。このことは、また二十六世日寛上人の『末法相応抄』にも明確にお示しであり、これこそが本来の当家法門です。
正信会はひとえに、猊座の尊厳を損ねよう、との邪心をもって法門を展開したが故に、前のごとき初学者並みの妄説に堕し、本宗における仏宝の立て方を破失してしまったのです。 |
|