第一章 今日の世相と青年
 
 ◇高齢化社会と人間関係
 
 日本はいま、高齢化社会の波がおし寄せています。若い人達が、やがて老人ばかりのこの日本を背負っていかなければなりません。おそかれ早かれ、そんな現実が私たちを待ち受けています。
 
 ところで、親子の絆が弱くなった現代に、こんな職業があるのをご存知でしょうか。それはさびしいお年寄りのところに、仮りの家族を送って「だんらん」のひとときを楽しませるという「レンタル家族」です。全くの他人が、お年寄りのところに一・二時間訪問し、息子さん夫婦や、お孫さんなどを演じるというもので、その値段は、十二万〜十五万円。依頼する人は、子供のかわりを望む六十〜七十代のお年寄りが七割近くを占めているそうで、なかには、忙しい自分のかわりにと、実の子が親のところへ「レンタル家族」を送るというケースもあるといいます。にぎやかなレンタル家族が帰ったあとの、お年寄りのむなしさを想像すると、複雑で、悲しい思いをさせられます。
 
 昨年の夏、一人住まいの高齢のおばあちゃんが、四十度を超える室内の暑さで脱水症状を起こして倒れたという事件が報道されました。さいわい病院に運ばれて一命をとりとめることができましたが、この事件では、「クーラーは生活保護家庭にはぜいたく品だから、取り外さないと生活保護を打ち切る」と告げて、強い態度でクーラーを取り外させた市役所の福祉課の対応が問題となりました。おばあちゃんの生活環境はとても悪く、クーラーがなければ暑い夏は過ごせません。おそまつで、思いやりのない福祉行政の一例として、この事件がクローズアップされました。
 
 次に紹介するのは、『安楽死と尊厳死』(保坂正康著)という本に載っていた、若者とお年寄りの会話です。
 
 Aさんは、一人で新聞を読んでいる三十代のサラリーマンに、「ここは空いていますか」と尋ねてからすわりました。ところが、からだを休めているAさんに、そのサラリーマンは「あんたたちのために、われわれの税金が高い。あんたたちは税金を払ってもいないのに、大きな顔をしすぎる。」悪口雑言を吐いたといいます。Aさんは内心では「君より私のほうが税金を払っているよ」と言いかけましたが、コーヒーを口にするのもそこそこに、喫茶店を出たそうです。
 
 こんな青年がいるとは、とても残念でなりません。たしかに、いまの社会には、いろんな問題があるのは事実です。しかし、戦後の日本をこれほど豊かにしてくれたのは、高齢に達している人びとの努力があったからです。その意味でも、お年寄りを大切にする人間関係が築かれなければ、これからの厳しい社会のなかで「共生」することは困難です。
 
 平成六年、日本医師会が将来の人口推計をまとめて発表しました。それによると、日本の人口は二〇〇七年にピークを迎え、六十五歳以上の高齢人口が、世界で初めて総人口の二十パーセントに達するそうです。さらに二〇二五年には、二十七パーセントをこえ、約三・七人に一人が六十五歳以上になるという、世界でも例のない高齢化社会が訪れると報告しています。この高齢化社会をむかえるにあたって、私たちに必要とされているものの一つとしてあげられるのは、他人の痛みを自分の痛みと感じられる感受性ではないでしょうか。受験勉強に勝ち抜き、一流会社への就職だけを生きがいとしている世代の人達が失いかけているもの・・・・「思いやり」の心をとり戻さなければ、日本はますます、たんに自分の権利だけを主張してやまない、争いの絶えない社会になってしまうでしょう。
 
 ◇誠意と信頼の尊さ
 
 なにも日本の若者が、思いやりのない人達ばかりとは思いません。
 
 平成六年十一月、NHK教育テレビで、福岡県立高校福祉課の生徒が、老人ホームでお年寄りの世話をする寮母の実習をしている様子を放映していました。たのもしかったのは、不安な面持ちのなかにも、学生たちが喜々としてお年寄りの世話をしていたことです。また自分の孫よりも若い年齢の学生たちに、心から感謝するお年寄りの、なごやかな表情がとても印象的でした。
 
 若い人達のなかには、看護婦(士)や老人ホームの寮母(父)など人の下のお世話をする、大変な職業をすすんで選んだり、障害に苦しむ人たちとともに生きていこうという志から、ボランティア活動をしている人たちもたくさんいます。相手に誠意を尽くして豊かな信頼関係を築くという、人間社会のなかで、もっともたいせつな基盤を生み出す努力がくり返されています。もちろん、職業に優劣はありません。どんな職業にたずさわるにしても、誠実な人格、真実を語る勇気、努力、他の人たちへの思いやりが大切ではないかと思うのです。
 
 誠意と信頼によって生み出される安らかな心は、どんなに産業が進歩・発展してもけっしてそこから生まれるものではありません。この社会にとっては、豊かな人間性こそが、なにものにも勝る宝といえないでしょうか。
 
 ところである人が「最近の日本人は、幸せな顔をしてくださいといわれたとき、自慢する顔しかできない。」と嘆いていました。親は、子供にいいことがあったときなど、とても幸せな気持ちになるものです。また不幸があれば、ひどく悲しみます。家族とは本来、そういうものなのです。しかし、他人となると、そうはいきません。現代の社会は、どれだけ人より勝れているかを判断の基準にする競争意識に支配され、またそんな意識をあおるような教育システムがあって、火に油を注ぐような社会であることも否定できません。
 
 しかし、お互いに長所や短所のある私たちは、同じこの世界に生きる人間として共存していかなければなりません。むしろ自分が生きているということは、同時に他人によって生かされていることを意味するのですから、他の人の喜びが、そのまま自分の喜びとなり、また他の人の悲しみを自分の悲しみとする「共存」の気持ちが大切です。
 
 人を思いやることが、人間としての本来の姿でありながら、その気持ちがおおいかくされ、なぜ私たちは、争いをくり返すのでしょうか。
 
 ◇心の荒廃と争い
 
 人びとが、他の人をにくみ、自分の利害のみを考えて行動するとき、争いが起こります。その最たるものが国と国、民族と民族の戦争です。戦争は、今も世界各地で起きています。為かでも、近年とくに問題となっているのは、教えのことなる宗教者の間で争う宗教戦争と、ソビエト連邦の崩壊によって共産諸国と自由主義諸国との「冷戦」のバランスがくずれ、それが引き金によって起こった民族間の問題です。
 
 宗教戦争の例をあげれば、三年前の十二月、インド北部のアヨディアでイスラム寺院がとがヒンズー教徒によって破壊された事件がありました。このときは、互いの報復合戦によって、インド・アジア大陸全体で一六〇〇人以上の死者が出たといいます。
 
 また、宗教をめぐる争いとして記憶に新しいのは、「ラシディ事件」でしょう。これは一九八八年(昭和六三年)九月に出版された小説『悪魔の詩』(インド生まれの英国人作家・ラシディ氏の著作)が、イスラム教を冒涜する内容だとして、インド、パキスタンなど、イスラム教の支配的国が、発売を禁止したことに端を発しています。  
 
 翌年二月には、当時のイランの最高指導者だったホメイニ(故人)が、ラシディ氏に死刑を宣告し、イランの革命団体が、「死刑執行者に百万ドルの賞金を与える」との声明を発表しました。日本ではこの本を翻訳した人が殺されました。事件は未解決です。
 
 このような宗教を、めぐる争いは、もちろん、その宗教が説く教え自体に大きな問題があるでしょう。一切の批判をこばみ、人に死刑を宣告したり、殺害をそそのかし、賞金までかけるという恐ろしい行為は、決して許されるものではありません。また、そうした行動を見るとき、その人の行動を支えているのが宗教なのですから、誤った宗教、人の命を軽視する宗教には、強く警鐘を鳴らさなければならないと思います。
 
 宗教は本来、人間の心に安らぎを与え、社会を浄化していくという特性があるはずです。それがなぜ、力をもって相手を攻撃する暴力行為を正当化してしまうのでしょうか。それは、宗教が本来の目的を放棄して、みずからの教団の勢力拡大をほこり、人に憎悪の心や復讐の心をうえつけているからです。それでは、せっかくの人間としての、共存の喜びや、、思いやり、誠意が失われてしまうのもの当然です。
 
 私たちには、他の人たちを思いやる心が必要です。殺伐とした社会を、うるおいのある社会に浄化するためには、正しい教え、正しい信仰がぜひとも必要なのです。法華経というお経には、不軽菩薩という方の行動が示されています。不軽菩薩は、石を投げられても、棒でたたかれても、結して人を害することなく、どんな迫害にあっても、つねに人の心の中にある仏性に手を合わせていました。
 
 復讐はまた復讐を呼びます。しかし、仏様の教えには、けっして相手の心ない行為、仕打ちに対して報復するという教えはありません。むしろ、そのような人びとこそ救っていくべきだと説いているのです。
 
第二章 人を思いやる心へ
 
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