第三章 自分を発見しよう
◇ 人として生まれる
みなさんは、自分が人として生まれてきたことをどのように思われるでしょうか。
仏教では、「人に生まれることは非常にまれである」と説いています。
現在、地球には、五十数億人もの人間が住んでいて、さらに人口が増え続け、さらに人口が増え続け、八十億から百億人にもなると予想されます。地球の上に住んでいるのは、人間だけではありません。地球上には五千種類以上の哺乳動物、爬虫類、両生類、八十万種の昆虫類が、空には八千六百種類の鳥類、水の中には、無数の魚類から、はてはサンゴ、イソギンチャクなどの生物が住んでいます。つまりこの地球には、無数の生物がいて、その数からくらべれば、五十億といっても、人に生まれる可能性はとても低いといえるでしょう。
つぎに、ひとりの人間についてみれば、その人には、必ず両親がいます。その父にも母にも、それぞれ二人づつの両親がいます。そして、自分のおじいさん、あばあさんにも、またふだりずつの両親がいて・・・・・・このようにして先祖をたどっていくと、十代さかのぼって一〇二四人となり、二十代では百万人を超え、三十代までさかのぼると十億人をゆうに突破してしまいます。一代を三十年として、九百年さかのぼっても、これだけの数になるのですから、何千年、何万年となると、その数は想像を絶します。そして、その長い時代の中で、どれかひとつのカップルでも結ばれてなかったならば、自分が生まれるということはなかったのです。
仏教に、「盲亀浮木(もうき・ふもく)」のたとえがあります。海の底にいて、千年に一度だけ浮いてくるという手足もひれもない一眼の亀の話です。
この亀は、おなかは火のように熱くて、甲良は氷のように冷たいのです。海のうえには、ひとつだけ穴のあいた浮木がただよっていて、この亀がおなかを冷やし、甲羅をあたためるためには、この浮木に会わなければなりません。しかも、浮木の穴が大きすぎても小さすぎてもダメなのです。千年にたった一度浮いてきて、このような浮木に出会う可能性はないに等しいのですが、それよりも、もっとまれなのが人間に生まれることだという話です。
このような尊い命の流れを受けついできた私たちは、この流れを未来に受けついでいかなければならない大きな責任をもった、かけがえのない存在であることを知ってほしいのです。
◇ 子となり親となる
ときどき、若い人の口から、自分の親をさげすむような発言を耳にします。「自分のいうことをわかってくれない。」「仕事しか頭にない」「考えが古くて口うるさい」というのですが、自分のもつ不満をいくら両親にぶつけても、解決の糸口を見いだすことはできません。たしかに、子はみずからの意志で親を選んで生まれてきたわけではありません。同じように親の方も、「素直で、頭がよくて、健康で、思いやりがあって、親孝行で、明るい性格で・・・・」といろんな願いをもっていても、そんな理想だらけの子が生まれることは、まずありえません。それでも、我が子が生まれれば、親の心は喜びで満たされ、自分の命がある限り、子どもの幸せを心にかけて生きようと思うのが親なのでしょう。子どものためにすることにたいして、親は何の見返りも求めませんし、子どもが病気になれば、親は気が気でなりません。
子どもは、幼いころには親を何ひとつ疑わず、すべてを親にゆだねて生きてきました。そのようにして育った自分をふり返る目をもたずに、ただ自分のいうことを聞いてくれないからといって親を悪くいうのは、何かたいせつなことを忘れているからです。それは人として耻ずかしいことではないでしょうか。
「子をもって知る親の恩」とは、先人の経験と反省の言葉です。親の恩を忘れたところに、人間としての成長はありません。
◇ 何のために生まれたのか
人間として生まれることのむずかしさを、先に述べました。過去からの不思議な無数の出会いと出会いとを重ねて生まれてきた私たちは、今度はふりそそぐ太陽、草や木を育てる大地など、自然のめぐみによって生かされています。そして多くの動植物を食料として命をつないでいます。どんな動物でも、「どうか食べてください」と喜んでその身を提供したりはしません。動物たちも、本能的にその身を大切に感じているからこそ、生きるための努力をしているのです。
それらの動物たちの無数の命をうばい、その犠牲の上に立って生きている私たちです。考えて見れば、罪なことではありませんか。そう思うと、少なくとも彼らからうばいとった命を、つぐなえるだけの生き方をしていかなければ、申しわけが立ちません。
さて、私たちの人生はそれぞれです。一様ではありません。スポーツで体を鍛えている友人を横目に、病気で苦しんでいる人もいるでしょう、恋愛関係に悩む人もいれば、人間関係に苦しむ人、受験に失敗する人、クレジットカードを使いすぎて借金で首のまわらない人、体が不自由で歩くことのできない人、不当な差別に泣く人もいます。けれども、どんな環境、どんな条件、どんな両親のもとに生まれたとしても、人は生まれたこと自体に大きな意義をもっているのです。
その本当の意義をさぐりあて、人間としてよりより生き方を求め、子どもやひ孫、ひいては広く世の中の人たちに、真実の生き方を伝えていくために、私たちは生まれてきたのだと思います。そのような生き方を、仏法では、いたるところに示しています。
◇ 生きるということ
私たちの人生には、さまざまな苦がともないます。また、苦がなければ楽もありません。むしろ人生は、苦難の連続であるといってもよいでしょう。ですから、これらの苦難を私たちは乗りこえて進んでいかなければなりません。
では人間はどのような苦があるのでしょうか。生まれ、生きる苦しみ、年老いて、体が自由に動かなくなくなる苦しみ、病気になる苦しみ、やがては死んでいかなければならない苦しみなど、どれも避けることのできないものばかりです。
また、愛する人と別れなければならない苦しみ、求めても得られない苦しみ、だまされたり裏切られたりして人をにくみ、会いたくもないのに会わなければならない苦しみ、そしてこのような苦しみが、さかんに折り重なって受ける苦しみがあります。これを仏教では、「四苦八苦」と説いています。」
「生きる」ということは、これらの苦を真正面から見すえ、解決していくことなのです。nなかでも最大の苦は、「死」の問題です。平均寿命が八十歳といわれているこの時代ですが、現実には、天寿をまっとうする人もいれば、若くして死んでいく人もいます。交通事故によって友人を失い、クラスメートが突然の病でなくなったという体験をもっている若い人たちもいるでしょう。また、自分の弟や妹、子どもやお孫さんを先に亡くしてしまい、とほうもない苦しみ・悲しみを味わった経験をもつ人もいます。
一般世間では、まず、「いかに生きるか」ということから人生考察が出発します。しかし仏法では、「生きていれば必ず死をむかえるという前提があるのですから、まず人生の終着点(臨終)のときにどうなるか、またどうすべきかを学んでから、生きることを習いなさい」と説いています。
もし、この世にある私たちの寿命が永遠で、死がおとずれないならば、苦しみや喜びや、そして幸せを感じることもなく、木や石と同じような状態になってしまうのではないでしょうか。やがてむかえなければならない「死」というものが前提にあるからこそ、かぎりある命をもって、いかに生きるかを真剣に求め、他の人を思いやる気持ち、自己を向上させる努力が出てくるのです。
お年寄りは、若い人を見て「うらやましい」といいます。その言葉には、自分にも健康と若さがあったら、という気持ちとはまったく別に、みずからの経験、人生のキャリアをベースにして、若い世代の人たちの一瞬一瞬の命のかがやきが、いかにたいせつなものであるかを訴えかけている言葉でもあると思うのです。
明日に希望をつなぐ生き方も大切ですが、いま、この自分が生きているという一瞬をないがしろにするならば、よりよい明日の訪れは望むべくもありません。若い人たちには、明日の自分を決めるカギは「いまという一瞬の生き方のなかにある」ということを知っていただきたいと思います。
◇ つくられている「からだ」
さて、私たちの「からだ」はどんなものによってつくられているでしょうか。からだにかぎらず、自然界に存在するものは、すべて何種類かの一定量の元素が集まってつくられているといいます。
何もない野原のなかに、人の住む家をつくる方法を考えてみましょう。柱や壁、屋根を葺く萱などは、もともと野原にある木や草や土を集めてきます。そして人が雨や風をしのいで生活できるような空間をぐるっと囲んで家をつくります。そのようにして立派な家が完成しても、それは永久にかたちをとどめるものではありません。いつかは壁が落ちて柱がたおれ、屋根が落ちて、やがては、もとの野原にもどります。
これと同じように、私たちのからだも、もともと自然にある一定の元素が、仮に集まってつくられているのです。
仏教ではこの元素を、その働きによって、地水火風空の五大(ごだい=五つの元素)と分析しています。私たちのからだは、こうした元素が集まってかたちづくられ、これらの要素を滋養分として一生を送り、やがてもとの地水火風空にかえっていきます。その人生の終着点を臨終(臨終=今世の終わりにのぞむ)というのです。
私たち一人ひとりの命は、ながい過去からの連続した関係にあり、また未来ともけっして無関係ではありません。そうした連続のなかで生き、生かされている私たちの、いまの生き方が、実は将来の人類の方向を左右し、大きく広げていくほどの影響力をもっているのです。今日の私たち一人ひとりの生き方が、未来の子どもたちや、やがて訪れる時代をよくも悪くもするということを考えてほしいと思います。
◇ 人生の終着点
人の最大の苦しみは「死ぬこと」であると述べました。きのうまで生きていた人が、今日は冷たくなって横たわっています。やがてそのからだは、この世界から消え、二度と同じかたちにもどることはありません。そしてこの「死」という冷厳な事実を免れた人はいません。
もしこの死に臨んで、人をのろい、この社会に不満をいだき、ものに執着し、未練を残すような姿を示したとすれば、はたしてその人が人生を正しく歩み、幸福だったといえるでしょうか。自分勝手にふるまい、世間的な地位や財産や名誉、名聞名利ばかりを求めて生きる人が、人生の終着点で手にするものは何か。それは「後悔」だと仏法は教えています。
苦労して蓄えた財産も、世間的な地位も、肩書きも名誉も「死」の苦しみを解決する役に立つものではありません。むしろ、それにこだわれば、苦しみを助長するものとなってしまいます。
若い人たちに、「人間はかならず死ぬ」といっても、「そんなわかりきったことを、わざわざ聞きたくはない」といわれそうです。しかしほんとうに「わかりきっている」ならば、その生き方も大きく変わってくるはずです。世間的な地位や財産が、人の苦しみをのぞくものではないという話をすれば、「ないよりは、あるほうがいい」といわれそうです。しかし、先に立たない後悔を、あえて先に立てておくということも、先人の経験から生まれた知恵のひとつとして、学んでいただきたいと思います。
人が、その人生の終着点(臨終)にさしかかって示す姿は、まさに寿命が尽きようとするその姿を枕べで見守る人たちにたいして、人生の意義、あり方を問いかけるものなのです。そこには、これまで生きてきたその人の「一生」が集約されているのです。