第六章 日蓮大聖人と富士門流
 
 ◇ 歴史に登場する「日蓮」
 
 私たちは、中世鎌倉時代を学ぼうとするとき、日本史の教科書や「年表」などで、時代順につぎのような項目を目にします。
 
 「日蓮、鎌倉に入り法華経と唱う」〈建長五年(注=六年との説あり)〉
 
 「日蓮、立正安国論」〈文応元年〉
 
 「日蓮、伊豆流罪」〈弘長元年〉
 
 「日蓮を許す」〈弘長三年〉
 
 「日蓮、書を時宗に呈し、諸宗を排斥、外交を戒める」
                      〈文永五年〉
 
 「日蓮を龍ノ口に刑せんとし、ついで佐渡に流す」〈文永八年〉
 
 「日蓮を許す」「日蓮、身延山久遠寺を建立」〈文永十一年〉
 
 「日蓮、池上に死す(61)」〈弘安五年〉
                  〈改訂増補版『日本史年表』三省堂編修所編
 
 ここでは、鎌倉時代の歴史のおさらいをするつもりはありませんが、「日蓮」〈以下、大聖人と呼びます〉が生きた時代とは、どのような時代だったのか、またその時代のなかで、大聖人が何を願い、どのように行動したのかという点について、ごく簡単に紹介してみたいと思います。
 
 ◇ 青年期の大聖人
 
 鎌倉時代は、同じ釈尊(しゃくそん=お釈迦様)の流れをくむといいながら、さまざまな教えが入り乱れて混沌とした時代でした。世の移り変わりも激しく、異常気象や地震だどがつづき、飢えに苦しむ人、伝染病の流行で死ぬ人があとを絶たず、また争いごとが絶えずに殺伐とした時代だったのです。世界的な視野に立つならば、それはいまも変わってません。
 
 当寺の社会の悲惨な状態を目の当たりにした大聖人は、「仏様の教えが広まり、お寺もりっぱに栄えているというのにどうして世の中がこのように乱れているのだろうか」と疑問に思ったのです。そこで、人々が不幸にあえいでいる原因を探り、その苦しみを解決したいと願いました。
 
 向学心に燃える大聖人は、十二歳の時に両親のもとを離れて安房の清澄寺に上がり、いよいよ勉学・修行の道を歩むことになります。仏法の肝要を知りたいと願う大聖人は、十六歳の時に出家して僧侶となり、さらに勉学にうち込みます。それから二年後、それぞれの宗派の最高学府とされていた各地の寺院で「教え」の真髄を学ぶため、遊学に旅立ちました。
 
 鎌倉・京都比叡山をはじめとする諸国歴訪は十四年間にもおよび、三十二歳の時、大聖人はついに、「仏の遺言を信ずるならば、法華経を鏡として一切の教典の心を知るべきである」との深い確信に立ったのです。
 
 建長五年(一二五三)四月、故郷の地にもどった大聖人は、はじめて「南無妙法蓮華経」と唱えてその教えを開き、「自分を生かし、育ててくれているものへの恩に報いるため、どんな迫害があったとしても、真実の仏法を広めていく。強い心を起こして、絶対退かない」との願いをうち立てました。
 
 ◇ 迫害を乗りこえて
 
 このとき、大聖人の教えを聞いた安房の地頭・東条景信は、当時のさかんだった念仏宗の信者でした。念仏宗とは、阿弥陀仏への帰依を説く信仰で、念仏を唱えて死んでからのち、極楽浄土へ行こうという教えです。しかし大聖人は、その教えが釈尊のほんとうの教えに反した間違ったものであると指摘し、民衆が救われるものではないとして否定したのです。
 
 地頭の怒りは、大聖人の命をねらうほど強烈でしたので、大聖人はいったんその身を別のところに移し、さらに「南無妙法蓮華経」の弘通(ぐづう=広めること)をめざして鎌倉に入ります。
 
 このことが、この章の冒頭で紹介した『日本史年表』の、「日蓮鎌倉に入り法華経を唱う」という項目で、ふつう私たちが学校で学ぶ歴史教科書でも、「日蓮」に関してはここが出発点になっているようです。
 
 当時の鎌倉は天災がつづき、流行病が猛威をふるい、庶民は大変に苦しんでいました。そのように乱れた世の中の人びとを救うために、大聖人は『立正安国論』をまとめあげたのです。三十九歳のときのことでした。これが『日本史年表』でいう「日蓮、立正安国論」の項目です。
 
 文応元年(一二六〇)の七月、大聖人は鎌倉でいちばん力のあった北条時頼にこの『立正安国論』を提出します。それがきっかけとなって、大聖人に対する迫害が起こります。
 
 「伊豆流罪」「松葉谷の法難」「東条松原の法難」「龍ノ口法難」「佐渡流罪」とつづく迫害の連続のなかで、大聖人は真実の仏法への確信をいっそう深めていきます。
 
 大聖人はそのご生涯のなかで、お弟子や信徒に宛てて、書物やお手紙をたくさん記しています。私たちはそれらを「御書(ごしょ)」と呼び、そこに示された教えの数々を大切にしています。
 
 命におよぶ迫害にも負けずに、「南無妙法蓮華経」の教えを貫かれた大聖人のご一生を、御書をとおして学ぶとき、そこには、すばらしい仏法の教えが凝縮し、光を放っているのです。
 
 ◇ 大聖人のお弟子
 
 大聖人の直接のお弟子のひとりに、日興上人(にっこうしょうにん)という方がいました。日興上人は、大聖人が亡くなった(これを入滅といいます)あとも、仏法の師匠として拝し、大聖人のご精神、お心を仏の教えと信じてかたく守りつづけました。そして大聖人が生きているときと変わらずにお給仕につとめたのです。それは「自分も大聖人とともに生きる」という決意をあらわす尊い姿だったのです。
 
 このような大聖人と日興上人のお姿を、師匠と弟子のお手本として、法華経に説かれている真実の仏法を伝えてきたのが、「富士門流(ふじもんりゅう)」です。現在では「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)」と称し、富士門流の教えは「正信会(しょうしんかい)」に受けつがれています。
 
 大聖人が活躍された七百年前から、現在にいたるまでの歴史のなかで、富士門流の僧俗〈僧俗=出家と在家は、灯(ともしび)が油によって明かりを増し、周囲を照らすように、それぞれの役割を自覚し、ときには厳しい風雪に耐えながら「仏法」を守ってきました。大聖人のご生涯を学び、富士門流の歴史を学ぶとき、そこには、先人・先達の努力と智慧と勇気が、いたるところにちりばめられています。
 
 「仏の目的は、人としての正しいふるまい(行動)を教えることにあるのです」
                  (『日蓮大聖人御書全集』一一七四頁)
 
 大聖人は御書のなかで、このように示しています。どうすれば人間として正しく生きることができるかを、大聖人が仏法に即して示しているのですから、ぜひ、この仏法を信じ、行いを正し、その教えを学んでいただきたいと思います。
 
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