これは総本山四十八世日量上人が著された日寛上人伝記です。
日寛上人伝
序
止観に曰く如来慇懃に此の教を称歎したまふに聞くもの歓喜す、常啼は東に請ひ善財は南に求め薬王は手を焼き普明は頭を刎ぬ、一日に三度恒沙の身を捨つとも尚一句の力を報すること能はず、況や両の肩に荷なひ負うて百千万劫すとも寧ロ仏法の恩を報ひんや、又云く香城に骨を粉き雪嶺に身を投ぐとも何ぞ報ひるに足らんや。
爰に当山二十六祖日寛上人尊師は生智聡敏にして当世絶倫の学匠、信行兼備の明師なり、寔に此れ法中の麒麟仏閣の龍像と謂つべきか、殊に今家の明判を抄述し台教の疏章を釈通す、自余の製作諸般の筆記勝げて計ふべからず中んづく本仏の細意を弁明すること古今独歩なり猶雲霧を被いて三光を見るが如し、我レ等愚輩一句の祖書を購読して能所同じく仏慧を期すること特リ尊師の高徳、和上の余訓なり倩ラ其ノ法恩を思へば泰山より高く倍す其の徳沢を顧りみれば蒼海よりも深し。
維ノ時今年季夏八月十九日は第一百遠回の忌辰に相当れるに世財を三宝に投せんとすれども貧道其ノ資を得ず、法施を四衆に布かんとすれども短才厥ノ糧をた貯ふることなし、之に由つて先賢の筆跡を尋ねて恩山の一塵を拾ひ耆宿の口碑に聞いて徳海の片滴を汲む、師降誕の始めより泥рフ終に至るまで一代の行業を輯録し此レを門家の耳目に触れ一遍の唱題を勧めしめて以て報恩謝徳の一部に擬す、唯恐くば文辞鄙昧にして聖徳を黷さんことを、庶幾くば後覧の明哲、補助を為せと爾か云ふ。
文政八年乙酉の春、時正の日、富峰の穏士久遠自ら序す。
師の諱は日寛(初め日如と云う)字は覚真、大弐阿闍梨堅樹院と号す、寛文五(乙巳覆燈火)八月八日卯の上の刻の誕生なり、俗姓は上の野州、館林、前の城主酒井雅楽頭の家臣伊藤某の子なり父を浄円と云ひ、継母を妙順と云ふ、八歳にして実母に別れ養母の撫育に依つて成長し幼名を市之進と云ふ。
志学の頃より江戸に出でゝ旗本の館に勤持す。天和三年癸亥の夏(十九歳)勤の暇に納涼せんが為め門前に徘徊す、時に六十六部回国の修行者至る、師修行者に問うて云く笈の後ろに書き附けある「納め奉る大乗妙典六十六部」とは如何なることぞや、行者答へて云く日本六十六箇の観世音菩薩に法華経一部充を納め奉りて後世得楽を祈るものなり、師又問うて云く腰に小金鼓を鳴らして口に何事を誦するや、行者金を鳴らして無常を示し口に摂取不捨の名号を唱ふ、師又復問うて曰く口に弥陀の名号を唱へ心に観音を念じ納むる所の経典は法華経なり若し爾らば身口意相応せざるにあらずや、行者忽に閉口し我は俗なり其ノ義を知らずと言つて去りぬ、爰に門番佐兵衛と云ふ者あり側に在りて之レを聞き讃嘆して止まず、師云く全く修行者を詰むるにあらず、吾レ多年普門品を夏書して浅草の観世音に納む、夫レ観音を信念し口に弥陀の名号を称へば譬へば汝に向つて 六兵衛と呼ばんが如し汝答ふべきや、其ノ上納むる所の普門品の題に妙法蓮華経とあり全く弥陀の名号なし、爾れば観音を念ぜば妙法の題目を唱ふべし例せば吾レを伊藤市之進と云ふが如し、妙法の五字は観音の苗字なり何ぞ余経の苗字たる弥陀の名号を唱うるの里あるべけんや、此の事他年不審に思ふ故に修行者に問ひしなり、佐兵衛曰く善き問ひかな吾レ菩提寺にて常に教化する所是レなり、謂はゆる妙法蓮華経の五字は十方三世の諸仏の御師範、一切衆生成仏得道の大導師なり、師云く汝が菩提所は何処なりや、佐兵衛曰く下谷常在寺なり、師大に悦び翌日佐兵衛と供に常在寺に詣で々日精上人(本山十八祖隠居して江戸に出て常在寺を創む今年八十四才御遷化の年の夏なり)、説法を聴聞して宿善薫発し疑氷忽に随喜信伏す、頻に出家たらんと欲して主人に暇を請えども主人惜しんで聴さず、同じく十二月下浣自ら髻を剪り馳せて常在寺に至り現住日永上人(本山二十四祖入山已前なり)を師と師として剃度の式を設け受教給仕す、元禄元年戊辰九月、永師会津実成寺に移転するに師も随ひ往く、同じく二年己巳の年に二十五歳にして細草談林に新来す、師の性たる聴睿絶倫にして博学宏才なり筆法に秀で和歌を善くす、研習年積りて二十六代の化主となる条集玄文四部の末抄を著述し草鶏記と号す意味深長にして台家に其ノ名を残す、正徳元年辛卯の夏永師の命を蒙り学頭蓮蔵坊(六代)に移徙ツり御書の講莚を中興し三五大部の記を製作す、古今独歩にして名誉を当家に顕す夜中の満月、晴天の日輪の如し、門徒の法燈新に威光を倍し自他の真俗始めて蒙眼を開く、享保三年戊戌三月五十四歳にして、衆檀の請に応じて方丈に入院し、宥師の付嘱を稟け正嫡廿六世の嗣法となる、師は談林昇階の席に於て養公の次ぎなれども、師が年長たるを以て養公辞譲して師を推して先進せしむ、在位三年の兼約に任せ同じく五年庚子二月二十四日嫡々相承を養師に完附して退いて再び学寮に入リ内外の祖書を講ず、同じく八年癸卯六月養師早世に就いて方丈に再往し在山四箇年なり、此の間に常唱堂を建立し、時の鐘を掛け二六時中妙法を唱へ断絶せしむる事なし、開堂の日、和歌一首を詠ず。
富士の根に常に唱うる堂建てゝ雲井に絶えぬ法の声かな、日寛判
又開山師説法石の傍に於いて一宇を創す号して石之坊と云ふ五首の詠あり繁きを恐れて其一を出だす。
羽 衣
久方の天の羽衣撫でやらて、守らせ給へ石の坊りも。
又本堂の前の洪鐘を再鋳し青蓮鉢を作る各銘あり之レを略す。
同く十年乙巳仲春より季夏に至り当家の大事を著述して(題号秘して顕さず)以て学頭詳公に授け示して言はく此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の狐兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず尤モ秘蔵すべし尤モ秘蔵すべし翌十一年丙午正月公儀の年賀の為に下関す、同ク二月寺檀の請に応じて一世の余波として観心本尊抄を講じ己心中所行の法門を説く聴衆渇仰して感涙袖を浸す、師御講の日戯の如くし衆に示して云く夫レ羅汁三蔵は舌焼けざる証あり故に人之レを信ず日寛富楼那の弁を得て目連の通を現ずといへども言ふ所、後に当らずんば信ずるに足らざるなり、予平日蕎麦を好む正に臨終の期に及びて蕎麦を食し一声大に笑つて題目を唱えて死すべきなり、若シ爾らば我ガ言ふ所一文一句に於いても疑惑を生ずることなかれ、同く三月山に帰る寺檀泣を含みて送別す、師発心の始より耆宿の今に至るまで日夜仏法紹隆の計らひに肝胆を摧き會て身命を愛せず、朝暮修理造営の慮に丹精を凝らし更に休息あることなし、茲に由つて身躰自然に疲労し仲夏の頃より已に微疾を発し日を追うて重なる、衆徒嘆いて?薬餌を勧むといへども師肯て服せず、言はく年老ひ娑婆に用なし生死宜しく仏意に任すべし、同ク六月中旬在職中に授与せしむる所の御本尊の冥加料金銀都合三百両なり、内二百両を金座後藤に遣し人手に渡らざる吹き立ての小粒金に両替し笈に入れ封印して御宝蔵に納め置き以つて事の広布の時に戒壇を造営するの資糧に備ふ、其ノ証文に曰く。
一金子二百両 但八百粒なり
右は日寛が筆のさきよりふり候御本尊の文字なり、今度是を三宝に供養し奉る永く寺附の金子と相定め候畢んぬ、されば御本尊の文字変じてこがねとならせ給へば此ノこがね変じて御本尊とならせたまふ時此ノ金を遣ふべし、さなき時堅く遣ふべからず、後代弟子檀那此ノ旨相守らるべきなり。
享保十一年丙午年六月十八日 日寛。
老僧中 檀頭中。
残る所の金百両を月並金と号して方丈に納め以て後の住職代替の時の用途に擬す、其ノ証文に曰く。
覚
一金子百両 但古金也。
右の金子は日寛至極丹精の金子なり朝夕麁食にして万事倹約を加へ古金となし、此金子を後代の住職入院の砌リ請取りて用達せしめ在住の内月々五両三両づゝ用蔵に入置けるを退院の砌リ相渡し此クの如く永ゝ住職の仁繰廻し用途せしめんため丹精を以て残し置き候処なり。
享保十一年丙午年六月十八日 日寛。
後々住職中。
又外に金百五十両を五重宝塔造立用意として之を残し置かる、同く七月下旬自ら起たざることを知りて密に学頭日詳公を招き金口嫡々の相承底を傾けて湯瓶し、又歿後の諸事を遺言し及び弟子文承(東師)寛成寛貞学要唯円貞応文貞(元師)覚隆(堅師)寛隆等の十人を託して一首を詠ず。
思ひ置く種こそなけれなてしこの、みをも残らす君にまかせて
詳公の返歌に
君か蒔く種のみのりをまつか枝に、栄えん時を待ち出つるかな
詳公薬養を勧む、師云はく色香美味の大良薬を服するを以て足りぬ更に何をか加へんや、詳公再三諫め勧む、師云はく実には思ふ所あつて医療を為さず、所以は何ん天台止観第五に云はく行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起る、乃至、随ふべからず畏るべからず之レに随へば人を将いて悪道に向はしむ、之レを畏れば正法を修する事を妨ぐ等と、吾祖曰く此釈は日蓮が身に当ての大事なるのみにあらず門家の明鏡なり(以上内十六已下内廿六)凡ソ一念三千の観法に二あり一には理二には事なり、天台伝教の時は理なり、今の時は事なり観念既に勝るる故に大難又色増さる、彼レは迹門の一念三千此レは本門の一念三千なり天地遙に殊なり殆ンど御臨終の時まで御心得あるべく候なり以上御書、料り知ぬ当山年を追うて繁栄し観解倍ス勝進す当に三類の巨難競ひ起るべきか、予春よりこのかた災を攘ふこと三宝を祈誓すること三度仏天哀感を垂れ病魔を以て法敵に代ゆ謂ゆる転重軽受とは是レなり、憂ふべからず憂ふべからず。
同く八月朔日君子は死して財を残さずと言つて、所持の衣類具度を取り出だし死後の遺物として悉皆帳に記し札を附け畢つて狂歌一首を詠ず
丸裸露の身こそは蓮の葉に置くも置かぬも自由自在に。
又納所に二首の狂歌を以て蕎麦を乞ふ。
古蕎麦粉棒の如きは否に候とかんばき我レをうちや殺さん。
挽キたての糸のこときの蕎麦そよき、我か命をはつなき留むれ。
晩景風呂に入り揚り已りて両足を伸べ病中羸痩せり臑の細さよと言つて又一首を詠ず。
痩せこけて力なくともよも負けし、いさこい蚊とのすねをしをせん。
詠じ已つて何と無く吟じて言はく天下道ある時貧しきは耻なり天下道なき時富めるは耻なりと、此ノ吟詠深き旨あり先の六巻書の事之レを思へ委くは別紙のごとし。
師発病の始より終焉の砌に至るまで更に病苦なし只日々に衰えるのみ、遷化一両日已前暇乞いに巡るべしと言つて三衣を著し寝所より駕籠に乗り輿の前に香炉を台に居へ香を拈ず、供奉には陸尺四人伴僧宣雅覚隆両人履取等なり、始め本堂に詣で輿の儘に堂の外陣に舁せ昇せ暫く誦経唱題あり、次に廟所に参し、次に隠居所寿妙坊宥師存生なり学寮に寄り何レも輿中より懇に暇を乞ひ寺中を下る、老少門外に跪いて恩恵の絶ゆることを恋ふ、市場村に往き永師の妹妙養日信尼に逢ひ、門前町通りにて方丈へ還らる、男女街道に伏して永別の憂を懐く、又番匠桶工に命じて葬式の具を造らしめ自ラ棺桶の蓋を取り題して曰はく。
桶を以て棺に代ゆ。
空を囲みて桶を為クる、空は即ち是れ空、桶は即ち是れ化、吾レ其の中にあり、日寛判。
死ぬるとは誰か言ひそめし呉竹の、よよはふるとも生き留まる身を。
弟子に告げて言はく此ノ文を入棺の時三度び吟じて蓋をなすべし。
同じく十八日の夜大曼荼羅を床の上に掛け奉り香華燈明を捧げ侍者に告げて言はく吾レ当に今夜中に死すべし必ず周章することなかれ、騒がしき時は大事を謬マるものなり息絶えて後諸方に沙汰すべし一両人外側に居るべからず、誦経唱題の外語することなかれ、臨終の時は舌の根こわばる故に吾と共に題目を随分緩に経の字を引いて口唱すべし、時に料紙硯を取り寄せ自ラ末期の一偈一首を書す。
本有の水風 凡聖常に同じ 境智互に薫し朗然として終に臨む。
末の余に咲は色香は及はねと、種は昔に替らさりけり、日寛判
書キ已りて侍者に命じて曰く蕎麦を製すべし冥土の出立に宜かるべしと侍者即刻調進す、師之レを七箸食して莞爾として一声笑うて曰く嗚呼面白や寂光の都はと、而して後盥漱して大曼荼羅に向ひ一心に合掌して題目を異口同音に唱え身躰少しも動ぜず半口にして猶眠るが如く安祥として円寂したまふ、維時享保十一年丙午八月十九日の朝辰の上刻にして行く寿六十二歳なり、四衆の悲哀襖悩勝げて計ふべからず。
同く二十日巳の刻沐浴し奉りて乗床に載せ奥殿の上段に安き最後の御供養を捧げ遠近の衆檀に拝せしむ、同じき日申の刻入棺し奉りて客殿に移し昼夜誦経唱題退転なし、同じく二十三日羊の上刻に葬礼す儀則全く宗祖開山の式の如し、遺言に任せ墓を師範永尊の左の方に雙べて経蔵の後に築く。
凡ソ在世の高徳大概斯クの如し滅後の霊験尚新にして憐愍利益広大なり、抑モ師平生の行事を尋ぬるに晨朝の勤行、毎日の堂参、不断の化訓、常住の書写、之レを修するに懈ることなく之レを行するに怠りなし、是レ千界涌出の一類に非るよりは豈誰とか謂はんや、誠に仏家の棟梁迹門の枢ノなり。
然りといへども有待の幻夢を払ひ無為の真覚に昇りたまふ、爾シよりこのかた烏兎早く移つて三万六千日、星霜稍積りて方に今年の冷秋に一百遠回の忌辰を迎へ利益を千載に増し威光を万代に耀さんが為に、愚闇を顧みず丹精を凝らし師の行状を筆端に録し以て恩山の一塵徳海の一Hを謝するものなり、仰ぎ願くば此ノ慇志に酬へて日寛尊霊哀愍納受を垂れ慈悲忍辱の?を廻したまへ、是ノ記見聞の信者をして現当二世の祈願を悉地満足せしめたまへ、重ねて乞ふ慧命長遠にして聖師の嘉名を興し門室常住にして尊師の素意に叶はん、一天四海広宣流布、三千国界利益周遍。
時ニ文政八年乙酉ノ春時正ノ日、法嫡四十八世久遠阿於恂{寿院日量花押。
編者曰く正本を見ず二三の転写に依ッて延書となす。 |