(継命新聞平成十四年二月一日号 第五面)
富士門僧俗の自覚と使命を問う
清流のままに 第13回
【矛盾を重ねた阿部師】
阿部宗門は、学会を謗法と断じ、かっての正信会と同じ論調で学会批判を開始しました。板御本尊の一件についてもそうです。以前は正信会の主張に対して阿部師は、
「蒸し返して論議をすることは、逆に日達上人の御意に背く謗法といわなくてはなりません」(宗内檀徒の皆様へ)
と言って、この件を論議する正信会が謗法であると強調しました。しかし現在では、「しかも池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの御本尊を勝手に模刻するという大罪を犯しております。」
と、過去の謗法行為と断じた板御本尊の問題をみずから持ち出しているのです。日達上人の御意に背く謗法にはならないのでしょうか。
またどこまでも、学会を擁護しようとする阿部師は、「創価学会では、広宣流布の団体として五十年前に創立され、以来五十年間、命がけの大折伏によって正法を世界のすみずまで弘めてくれました。」(昭和五十六年一月一日)
「この正法流布の功徳はまた算数譬喩も能わざるところであります」(昭和六十一年十一月二十日)
学会の折伏に賛辞を送りました。それから十年後はどうでしょうか。
「しかしながら、あの創価学会のように、ただ数さえ増やせばいいというような、実に滅茶苦茶なあり方は、今日においてはむしろ大謗法になると思います。」(平成八年十一月二十日)
と、百八十度の転換を見せます。学会のめちゃくちゃな折伏があったのは、昭和三十年、四十年代のことです。その折伏をさして、例えようもない功徳であると讃歎したかと思えば、次には大謗法になると言いうのですからまったく矛盾しています。
煩瑣に過ぎますので省きますが、これらの例は氷山の一角にすぎないことを知らなければなりません。
【どれが本心なのか】
平成四年八月二十八日、全国教師講習会で阿部師は次のように表明しました。
「狂った邪信の信心のあり方を、昔から創価学会では行っていたということでありますが、表向きの態度に私もずっとだまされておりました」
これが真実の告白と仮定するならば、阿部師はだまされて学会をかばい、だまされて正信会を弾圧したことになります。少なくとも阿部師は、絶対に誤りのない人ではなく、だまされることもある人だということになるでしょう。
「私は今年で七十一才になりますが、本心から心から言えることは、凡夫でありましたから、色々な意味で過去において間違いがありました。―実をいうと、池田大作の根本的な悪い心を見抜けなかったのであります」(平成六年四月六日、虫払い大法会)
本人は過去に間違いがあったと述懐しますが、本心だとすれば、平成三年以降の阿部師の発言は、前言を過ちと認めて言い直したものと理解できます。
たとえ高徳の人であっても、凡夫である以上、だまされたり、見抜けなかったりするのであり、誤りは誤りとして是正していけばよいのです。ところが阿部師は、こうした誤りによって、正信会や純信の檀信徒を断罪しながら、反省も謝罪もなく現在にいたっています。それどころか、
「その時に、その在り方に反乱して逆らったのが、いわゆる自称正信会の者達でありました。これは一言をもって言うならば『仏法は時によるべし』ということであります」(平成九年三月三十日、法華講連合会第三十四回総会)
「正信会の者共が独走し、御先師から決めれた徹を乱して創価学会を打ち破ろうとした姿はまさしく時と機を知らなかった姿であります」(同)「宗門がここに僧俗一致して正法広布を目指しつつ、邪義・池田創価学会を破折するに至ったことこそ、本当の時を得たところの姿であります」(同)
と述べています。これは池田大作氏にだまされ、その本心を見抜けず誤りを犯したが、それでも正信会が正当でないのは、彼らは時を知らなかったからであると、自分を弁護したものと、考えて良いものと思います。
しかし、引用した「仏法は時によるべし」とは、釈尊の在世、そして正法時代、像法時代、末法時代の三時においても、末法に流布すべき教えは南無妙法蓮華経であるということを指しているのです。阿部師のように、末法という時をさらに細分化して論じることがはたして大聖人・日興上人の教えの中にあったでしょうか。
【「時」の誤った宗教】
ここでもう一度、阿部師の発言をふり返ってみましょう。
「大聖人の仏法が、創価学会によって終戦後以降、広く弘通せられ、世界流布の相が日本を中心として世界に広がっておる次第であります」(昭和五十六年十一月二十四日、涌徳寺落慶法要)
「まことに大聖人の御金言が、まさに『時』を得て実証せられたということが感ぜられる次第でございます」(昭和五十八年十月十五日、法厳寺)
など、学会の折伏発展をたたえて「時」を強調したことがあります。そして学会と抗争を始めた平成二年以降にも、
「しかし、それは『時』が来て、総本山開創七百年という不思議な『時』に巡り値い、さらに、その他の因縁も相まって、そこに自浄作用がおのずと現れてきた姿なのです」(平成五年八月二十六日、全国教師指導会)
「それがとくに平成二年という『時』において、これは非常に不思議な『時』でありましたが、仏法の中において創価学会による大きな謗法の姿が具体的に表れて」(平成六年十月二十九日、西中国教区親教)
と、「時」を強調しています。
しかし平成二年以前の「時」は、その学会は謗法であるとわかった「時」なのです。
創価学会の本質が、五十二年路線の時と現在とを比べて変わっていないというのは、阿部師自身も認める事実です。その実際は、阿部師が学会の本質を見抜けなかった「時」は讃め、学会の反抗に慌てた「時」に謗るという、阿部師の「都合」にあわせたものに過ぎないないのです。
仏法で説く「時」は「あの時はあの時、この時はこの時」というような軽佻浮薄なものではありません。
阿部師は「時」に加え「機」まで持ち出していますが、池田氏や学会の機根が、この十年の間に変化したとでもいいたいのでしょうか。五綱教判の「時」や「機」を持ち出してまで自己の不明を隠蔽し正当化を図るとは、まことに情けない姿だといわざるを得ません。
【根本的な姿勢の違い】
「生ぬるい風呂の湯に入ったようなグズグズした考え方は一挙に捨てて、創価学会を慈悲の上から徹底的に破折しなければいけない」
「いい加減な生ぬるい考え方は捨てて、創価学会に毒された者共を徹底して破折し、その中から一人でも多く救ってあげなければいけない」
「結局臆病でやる気がないということであれば、卑怯な僧侶にあるまじき姿だと私は思う」(平成六年五月二十六日、全国教師寺族指導会)
これは学会破門から三年を経た阿部師の発言です。宗内僧侶の中には、全面戦争だと言っても、まだまだ創価学会を責めることをためらう人が多かった時期です。それは宗内僧侶の中に「このたびの戦争は、猊下が勝手に始められたことではありませんか」という不満があったからです。末寺住職にとって学会批判は、つい先ほどまで阿部師の不興を買うご禁制破りでした。それゆえに、過ちとは知りつつ目をつぶったこともあったでしょうし、阿部師の指示通り地方幹部や末端会員と上手につき合う僧侶もいたはずです。
そこへ今度の問題です。池田氏がどんな発言をしても、所詮は阿部師に対する中傷です。その憎しみによって、ほとんどの僧侶をカヤの外に置いたまま学会と喧嘩を始めても、戸惑うのは当然といえましょう。
日達上人は、学会側から、僧俗一致の五原則という和解案が提示された時、時事懇談会を開いて宗内僧侶の意見を聞いたり、全教師を対象にアンケート調査を実施されるなど、宗内世論を尊重し、宗門の総意として、学会に対応されました。また、これに応える活動家僧侶も法義厳守を根本とした一人一人の僧侶としての道念によって学会の非に対峙しました。
この明らかな違いが、五十二年路線の時には学会の謝罪、今日は学会の反発という対応の違いとなっている根本原因があることを、しっかり認識しておく必要があります。そのことは、一人の絶対者に率いられる教団には終に限界があるということを示しています。
次回 法主の絶対視はなぜ生じたのか